そこは荒地だった。
私の住んでいる宿舎の敷地は広く、通路と駐車場以外、地面は土である。その土の部分は、当然植物に覆われる。人が植えた木や花の部分以外は、野草や雑草で覆われている。 12年前にアメリカから引っ越して、夫の勤務先が提供するこの宿舎へ到着した時、私はお化け屋敷に来たのかと思った。まだこんな建物が存在するのかと思うほど古く、中の階段と通路は暗くて、敷地は草が生い茂っていた。 それでも全く知らない土地へ来たわけで、住居が準備されていたことは有り難く、家賃も極めて低かったため経済的な助けにもなり、夫も私も更なる引っ越しは考えなかった。 仙台の中心まで歩いて行ける距離にありながら、自然豊かな山地に位置し、敷地は広いため、恵まれた環境だと言える。 だが、管理が行き届かず野生化した場所に人が住んでいるような印象を与える。なぜなら、中庭や建物周辺は、業者が来て年に2〜3回ほど除草するが、草はすぐに腰の高さくらいまで伸びてしまうからである。 そんな草の中から、幾度もの地震に耐え、壁のあちこちにシミや汚れが目立つ古い鉄筋コンクリートの建物がニョキっと顔を出しているのを想像してみて欲しい。きっと、お化け屋敷みたいだと思うだろう。 そんな場所で、夫と私は一気に昭和に逆戻りしたような生活を送っていたが、住み始めてから数年が経ったある日、私は家でボーッとしていた時に、ふと宿舎と中庭を絵にしてみようと思いついた。 当時、私はイギリスのシャーマン・アーティストFaith Noltonの本が気に入っており、よく開いていた。個性的な作品と、各作品にまつわる魂の物語がジャーナル形式で書かれているその本には、彼女の心が捉える自然の神秘的な力と、魂のパワフルかつ奥深い世界が詰まっており、私は魅了された。 宿舎の風景を絵にしてみようとふと思ったのは、彼女のような表現をしてみたいと思ったからだった。 ペンを持つと、私の内側からある考えが浮かんだ。 「私が住んでいるこの場所を心の目が観たら、どんな風に描くだろう?」と。 古く汚れたお化け屋敷のような建物と、草ぼうぼうで荒れた土地。それは、私の頭が見たままの姿から判断した風景であるのに対し、心が観ているのは、その場所で私が見つけた「小さなこと」のひとつひとつと、そのひとつひとつに包含される夢のような世界(物語)だった。 中庭にはアザミ、野菊、ヒナギク、シロツメクサ、ツユクサ、オオバコ、ハコベなど、子供の頃摘んで遊んだ野草がある。アジサイ、チューリップ、クロッカス、スイセン、レンギョウ、アヤメ、ツルギキョウ、ムスカリなどが季節になると花を咲かせる。 ビワの木、柿の木、いちじくの木、梅の木、クリの木、桜の木、ネコヤナギ、タラの木、杉の木、月桂樹、ネコヤナギ、ハナミズキ、その他名を知らない数々の木々。 カラスやスズメ、トビがいつも周りにいて、春になるとヒバリ、ウグイス、ホトトギスなどが鳴き初め、野バト、シジュウカラ、メジロ、カケス、モズ、オナガなど、一年を通して様々な鳥がやって来る。 様々な種類のハチやカメムシ、テントウムシ、コガネムシ、カナブン、カミキリムシ、ゴミムシ、セミ、トンボ、クモ、蛾や蝶、カマキリ、バッタ、コオロギなどなど。実家では子供の頃、庭先などでよく見かけたが大人になってあまり見なくなったような虫を、こちらではまだよく見かける。 住人から聞いた話によると、ネズミ、タヌキ、アナグマ、ハクビシンもいるそうだが、それらの動物に私はまだ遭遇していない。 今こうして挙げてみると、ここには様々な生き物が棲んでいることがわかるが、なんとなく過ごしていると日常の中に吸収されて消えてしまい、特に気づくことはない。 私は心の目で、少し離れた上空から私が住む場所とその周辺を観てみた。 私が住む号棟と敷地の出口へと続く通路を描くと、そこから私の意識は、引っ越して来てからそれまでに気づいた様々な小さなことのひとつひとつへとフォーカスされていった。 そこには、必ず感情が伴っていた。ああ、心とは、そうやって観るのだ。記憶には、必ず感情が伴っているということを、私たちは気づいているだろうか。 買い物からの帰りに、鮮やかなアザミで両側が赤紫に染まった通路を歩くとウキウキした。初夏になると、中庭の広い範囲が腰の高さほどになるジョチュウギクの白い花で埋め尽くされ、草原の花畑に滑り込んだような感覚になった。 のびのびと太陽に向かって開いている可愛らしいクローバーの葉を見ると、思わずしゃがんで四つ葉を探してみたくなる。 玄関近くには大きな桜の木があり、4月上旬には玄関に淡いピンク色の傘がかかったようになる。階段通路の窓を開けると、青い空とピンクの花が目に飛び込んでくる。キッチンの窓から見える街灯の光を受けた夜桜は、幻想的で美しい。 北側の窓から見える大きな杉の木には、毎年春になるとカラスが巣を作る。夏至の頃に卵が孵ってヒナが生まれるが、それまでに幾度となく訪れる強風に木が大きく揺れて、卵が落ちてしまうことがある。そんな年が何度もあった。 今年もカラスはまたそこに巣を作ったかと観察し、大風になるたびに私はハラハラして、どうか乗り切って欲しいと祈るのだった。 長い坂を下まで降りていくと、佐藤宗幸さんの「青葉城恋歌」に出てくる広瀬川の清らかな流れに出会う。最初の2年は、初秋に橋の上から鮭の遡上が観察できた。 そこから西へと進むと山々と里山が広がっており、空間に広がっているその緩くのどかな波動に初めて触れた時、私の深奥が震えたことを思い出した。 それらをひとつずつ描いていき、最後に、キッチンの窓から眺める変わりゆく夕空の色を添えて全体を見ていたら、ここは実は命あふれる美しい場所なのだと気づいた。 再び中庭に視線を戻すと、何かが足りないと感じたので、意識をフォーカスしてみた。浮かび上がって来たのは、精霊のような存在だった。それは、木々や花々の命を輝かせている存在だった。 それを描き加えると、しっくりきた。 マインドが見た荒れた土地を、心の目が楽園に変えた。 心の目は表面ではなく、そこから中へと入っていき、さらにその奥に息づくものまでをも捉えることができる。 心の宝箱から、豊かな感情に伴った目に見えないものが織り込まれていた。それを物語というのだろう。 絵が完成して、物語が織り込まれ、私はそれに “Home”というタイトルを付けた。 それで終わった。 終わった、と思っていた。 ところが、終わったどころではなく、始まったのである。 それも想像を絶する展開で! <(2)へつづく>
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