前回(1)のストーリーはこちら 普段、私はサポートする存在の絵を描いているが、それは相手から感じとる微細なエネルギーを主に顔の形として表現するもので、相手に意識をフォーカスする。 今回は、夢で見た映像、つまり私の記憶から始めてみるということで、初めての試みだった。 なにしろ初めてのことなので、そこからどんなものが出現するのか興味があった。しかも、直感から思いついたことをやってみる、特に今までやったことがないことをやってみる、というのは、何がどうなるかわからないからこそ面白い。 紙を置いて、まず、夢で見た椅子に座っている影のような姿を大雑把に描いてみた。 そう、夢で突然モードが切り替わり、こんな風に現れたのだった。 距離があったので顔ははっきりしていなかったが、おばあちゃんだった。
トップにボリュームを持たせた髪が印象的だったので、まずそこから描き始めると、眉や鼻の形が浮かんできた。描き終わって紙を裏返してみると(それが表になるのだが)、意外にも若い女性の顔だったので、これはどうしたことか!と思った。 その反応は、自分が見たものとは違うじゃないか!という単純な思考からのものだった。 でも指には知性があり、ハートと直結している。 「待てよ、指は若い頃のミセス・ダバーを描いたのか?」と思い、では次はどうなるかと、もう一枚紙を用意した。 しかし、自分が見た夢の記憶から詳細を探ろうとすると、指が抵抗してどうしても描けない。夢で見たばかりに、それにこだわろうとしている自分がいた。思考を捨てろ!という声が内側から聞こえる。 髪の上部を丸く描いたところで手が止まり、苦しくなってきた。正確に描かなければとか、きちんとしたものにしなければとか、余計な考えが邪魔をしていた。 あっちへ引っ張られ、こっちへ引っ張られ、そんな風に思考とハートが綱引きをしているとき、これは結構苦しいのである。 「う〜ん、ええい!もうどうでもよい!」と思ったところで、スルスルと指が動き出した。大胆にデタラメに動き、そんな動きをすると変なラインが入ってしまうと焦る。でも、失敗したら描き直せば良いだけだと自分に言い聞かせ、紙の上を滑らかに指が動くに任せた。 眉や鼻は、1枚前に描いたものと同じような形のものが浮かび上がってきた。ほぼ描き終わったところで裏返し、前に描いた絵の横に置いてみると、若い頃の彼女と年老いた彼女のようであると思った。 2つの絵を見比べながら、次第に後の絵だけへと視線が移り、そこでぼーっと眺めていると、なぜかボロボロと涙がこぼれてきて、胸に何かが込み上げてくるのだった。 それが何なのか頭では理解できないが、明らかにハートが何かを感じていた。深いレベルで感じるとは、そういうものなのである。 ただ感じれば良い。言葉はいらない。 次に、また前の絵へと視線が動くと、懐かしいような感覚が浮上して、若い頃の彼女ではなく、彼女の娘なのではないか?という気がしてきた。すると、その娘は私なのではないか?という突拍子もない考えが浮かんで驚いたが、それは全く見当違いのことでもない気がしてきた。 それもあり得るのかも・・・。 「あり得ない」に意識をフォーカスするとそこで終わってしまい、そこからは何も生じない。しかし「あり得る」にフォーカスすると、扉が開く感覚があり、そこから母娘の絆のようなものがサーっと押し寄せてきて、ハートに広がる。その瞬間、今の夫と妻という関係に別の層が重なる。 すると、また出会って今ここに一緒にいること自体が奇跡であると感じられ、喜びと共に自然と感謝の気持ちが溢れ出る。その感覚は頭ではなく、ハートから湧き起こる。 そうなると、私が認識している夫という存在に違ったスペースができ、そこがエネルギーで満たされる。そのエネルギーとは、私の相手に対する以前とは違った意識なのである。 娘だなんて、それは私の全く勝手な想像なのかもしれない。しかし、「あり得る」にフォーカスするとハートが温かくなり、より「今」にフォーカスでき、夫に対して寛容になり、優しい視線を向けられるのである。では、そう思った方がお互いにとって得ではないか(苦笑)。 以前ダバーという名前をインターネットで検索してみたら、存在すると言ったが、アイルランドかスコットランドか、ひょっとしたら何かヒントがあるかもしれないと思った。 世にはさまざまなものがあり、インターネットでほぼ何でも探せる時代。 苗字の由来や先祖を見つけるサイトというものが、あるのである! 保管されている移民記録にもアクセスできる。夢で見たミセス・ダバーは移民ではないが、アメリカへの入国記録から苗字について何かヒントを得られるかもしれないと思った。 実際、以前夫の苗字で探ってみたことがあり、プエルトリコに最初に入国した先祖?(同名の人)の記録が出てきた。先祖はスペインからプエルトリコへ入ったと義父から話で聞いていたので、私は驚いたのを覚えている。 そんなわけで、興味本位で ”Dubber” と入れてみると検索に引っかかるので、さらに詳細検索で国名アイルランドを選択してみた。結果はゼロ。スコットランドでやってみると引っかかる。 「もちろん、アイルランドからの移民情報がないだけで、その国にダバーという名前が存在しないということではないから意味がない」と思ったが、私の左上部から「スコット」と一言来た。 あらあら、そういえば夫のミドルネームはスコットだった。「だからって、そんなことあり得る〜?」と思ったら、「名前は全て、偶然でつけられているのではない」と来た。 確かに、以前同じことを沖縄の神人さんが言っていたのを思い出した。 そうなんだろうけれど、ほんとかなあ。 私は、夫のミドルネームは本人にしっくりこないとずっと思ってきた。違和感を感じ続けてきたのは、私の中で「Scott」という音と綴りから伝統的なイギリスのイメージがあり、それが夫の風貌とかけ離れているからなのだろうか。 まあ、それはどうでも良い。元々ミセス・ダバーが存在したこと、夫の過去世のひとつだったこと、スコットランドの人だったこと、それら全てが私の勝手な想像かもしれない。 ただ、あり得るとして受け入れると、見る世界が重層的になり、断然面白くなる。私たちは霊的で多次元的な存在であり、この肉体にさまざまなエネルギーが混じりあっていると私は思っているし、日常の中でそう感じることがますます多くなってきている。 例えば、相手が何か特定のトピックで話している時など、顔や雰囲気が変わったりすることがある。実際、見ている顔が突然ぐわ〜んと変化して、別人の顔が浮き上がったことが何度かあるが、それが今のその人を別の角度からよりよく理解できる情報であったりして、妙に納得してしまうのだ。 私も自分の内から「あっ、今この人が出てきて話してるな」とか「この人が歌ってるな」と感じることが多々ある。この人、何を表現したいのかな?と思うと、もっと言いたいこと、やりたいことが出てきたりする。 それは、結局今の自分をサポートしている存在(エネルギー)でもあり、自分の一部ということになる。自分にはさまざまな面があり、さまざまなエネルギーが混在していると理解するとどうだろう?もっと自分というものを知りたくなるのでは? 感覚が開いてくるにつれ、物事を見る視点も認識も新しいものに次々と塗り替えられていくのだろう。閉ざされていたものが、新しい理解と共に、より開かれていく方向へと向かっていく。 話が脱線してしまったが、ミセス・ダバーの絵を夫に見せてみようと思う。 そして、額に入れてキッチンに飾ろうと、密かに考えているのである。
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