<(1)のエピソードはこちら > 私が住む宿舎とその周辺の風景を絵にした後、驚くようなことが起こり始めた。
まず、敷地の除草作業の料金が突然2倍以上に跳ね上がり、共益費から捻出するのが困難になった。共益費の値上げも検討されたが、何も決まらないまま業者への依頼も止まり、草は伸び放題になって敷地はさらに荒れた。 その状態が1年ほど続いたある日、見かねた一人の住人男性が、小さなカマで草刈りを始めた。仕事を終えた後、毎日夕方になると、草刈りを始めるのである。よほどの雨でない限り、平日も週末も夏の暑い日も休むことなく、広い敷地を部分に区切って、毎夕黙々と草刈りをする。 大変なご苦労で気の毒に思うのだが、キッチンの窓から見えるその男性の作業をしている後ろ姿をじっと見ていると、草刈りはストレス発散になっており、瞑想のようでもあり、楽しんでいるようにさえ感じられた。 しかし、敷地は広すぎて一人では全く手に追えない。刈った場所もすぐにまた草に覆われ、イタチごっこになってしまう。 そのような一人での作業が1年以上続いた後、やはり限界なのだろう、共益費で草刈機が購入され、それからは以前よりも効率が上がった。 やがて、ボランティアを募ることになり、2名が加わり、担当場所を決めて交代で作業するようになった。 業者は年2〜3回であったのに対し、ボランティアチームは頻繁に草刈りをするので、以前腰の高さまで伸びた草は常に短くなり、芝生状態になった。 すると、中庭で子供たちが遊ぶようになった。今までは、一角で畑をしている人以外はほぼ立ち入ることはなかったので、いつもしいんとしていたが、少し活気が出てきた。 週末に、キャッチボールやバドミントンをする親子が現れた。コロナ期には、夏の夜に中庭にテントを張って、合同のキャンプをしたりする家族も現れた。自粛生活が強いられたその時期に、外で話す人の声や元気よく遊ぶ子供の声が聞こえるのは、どれほど癒しになったことだろう。 しかし、子供が集ってきてサッカーをするようになると、在宅勤務の住人や、ボールがバルコニーに飛んでくる可能性のある下の階の住人から、苦情が出るようになった。 そこで、草刈りを始めた男性が、中庭とは別の場所に砂場やベンチのある「子供広場」の設置を提案し、PTAの親たちも参加して作業が始まった。 その頃、以前より中庭で畑をしていた下の階のTさんから、畑ができるスペースが余っているがやらないかと、私は声をかけられた。シアトル時代に長い間市民農園で野菜作りをしており、こちらの周辺にはそのような場所はないので残念に思っていたが、チャンスが到来し、私は即OKした。 Tさんの畑の隣に3つほど畝を作り、畑作業をしていると、Tさんもやってきて、私たちは、一緒におしゃべりをしながら畑で時間を過ごすようになった。 あとでTさんが教えてくれたことなのだが、スポーツジムに合唱コーラス、生協の集まりなど、ほぼ毎日あった活動がコロナで全て中止になり、人と話すことがなくなってしまったそうだ。 その上、出張が多かったご主人が在宅勤務になり、家が窮屈になっただけでなく、ご主人が部屋から出られないほどオンライン会議で忙しくなると、Tさんは女中のように部屋まで食事を運ぶことに嫌気が差し、鬱状態になっていたところ、畑に出ると私がいておしゃべりできることが楽しくて、随分救われたとのことだった。 私は目の不調でそれ以前から自粛的な生活が続いていたし、夫は日中自分の研究室で過ごしていたので、Tさんのように鬱状態になることや、人と話すことを強く欲することもなかったが、活動的な人にとっては、この変化はかなりのインパクトだったことが、Tさんの気持ちを直に聞いたことでよくわかった。 中庭で遊んでいた子供たちが子供広場へと移ると、今度は、幼い子供が砂場で遊ぶのを見守る母親の姿も現れ始めた。 宿舎は入退去が多く、海外からの居住者も増えて、近所への関心も付き合いも薄い。毎日子供を遊ばせている間、ずっと一人でベンチに座ってスマホを見ている母親の姿は、私の目には孤独そうに映った。 すれ違っても目を合わさないようにして挨拶しない人もいる。住人数は多いが、それぞれがそれぞれの箱の中にいて、交わることがない。それは今や当たり前の光景なのだろうか。なんだか寂しい。 そこで、私は畑作業をしている時など、自分から声をかけることにした。実際、これまで声をかけられて迷惑そうにした人はいなかったどころか、ほとんどの人が嬉しそうに話をする。 私は、毎日子供を連れて中庭にやってくる母親と立ち話をするようになり、幼稚園の息子さんは、植物を観察したり、ダンゴムシや青虫を捕獲して家で育てたりするのが好きなことを知った。息子さんは妹と一緒にやってきて、私に虫を見せてくれたり、幼稚園で作ったものや、お母さんに買ってもらった手袋などを見せてくれたりした。 畑の畝の間を歩き回り、苗を指差して、「これはナス!」「これはピーマン!」などと名前を当てる男の子もいる。その子は、週末になると、父親と一緒に中庭に出てきてボール遊びをしたり、芝生状態になった草の上で見事な逆立ちを私に見せてくれたりする。 その後、同じ年くらいの子供を連れた親たちも交流するようになっていった。中庭のビワや柿を一緒に採ったり、分けたり。今では、子供同士が国境を超えて仲良く遊ぶ姿も見られるようになった。 春に、中庭の反対側で土を耕し始めた人がいた。隣の棟に住むドイツ人の男性で、花園を作るとのことだった。 「色々な花をここに住んでいる人に見てもらいたいんです。コロナでみんな外に出られなくて、毎日がつまらない。花を見て楽しんでもらいたいんです」と流暢な日本語で話した。 彼は、花だけでなく、クランベリー、ワイルドベリー、ラズベリー、その他ドイツで育つ日本では珍しい植物を育て、立派な花園にした。 「クランベリーの苗は1つ800円くらいします。インターネットで注文しました。10くらい買って、かなりお金をつかいました。でも、私はここを美しい場所にしたい」 苗だけでなく土も肥料も自費で調達し、草取りや水やりを欠かさず、労力を惜しまず、この中庭で黙々と花園を作り上げる。 「皆さんに綺麗だなと見てもらえれば、私はそれで満足です」 この男性の心の広さに私は感動した。 一方、チームでの草刈りが軌道に乗り始めると、あの草刈りを最初に始めた男性が、今度は敷地の至る所に花の苗を植え始めた。 各電柱の根本にパンジーやビオラの寄せ植え、フェンスに沿ってマリーゴールド、百日草、ダリヤ、マーガレット、チョウチンカズラ、アサガオなど。子供広場にはグラジオラス、タチアオイ、ユリをはじめ、色とりどりの様々な花が咲き誇るようになった。 すると、夏の早朝など、それらの花に自主的に水やりをするPTA の母親たちの姿を見るようになった。 変化はそれだけにとどまらなかった。 私の棟の2階に住む単身赴任のバングラデシュ人男性は、バルコニーでナスやトマトの栽培を始め、並べる苗の数が増えていった。 そのちょうど上に住む同じく単身赴任の日本人男性は、夫と私が引っ越してくる前からいたので、10年以上住んでいることになるが、突然バルコニーで花を育て始めた。 最初は数鉢だったのがいつの間にか3段の棚にぎっしり並ぶほどになり、広いバルコニーのスペース半分ほどが花でいっぱいになっている様子を、中庭から見ることができる。 この男性はTさんの隣に住んでおり、Tさんによると、最初に少し買ってバルコニーに置いていたら可愛くて仕方なくなり、もっと欲しくなってどんどん増えていったとのこと。 かくして、宿舎の植物男子ベランダー誕生。一人暮らしの中年男性が花を育てるなんて、素敵なことではないか! 私の畑も最初は3畝から毎年拡大していき、今では最初の3倍ほどの広さになっている。収穫する野菜の種類も量も増えて、有り余る野菜を小さな子供のいるご近所やあの草刈り男性のお宅に配るようになった。 昨年の春、私の畑のちょうど前に位置する号室に、中国人家族が引っ越してきた。若い夫婦と子供3人、ご主人の父親の6人家族だが、ある日、私が畑をしているとご主人が声をかけてきて、父が畑をしたいが許可はいるのかと尋ねた。 特に許可はいらないと答えると、それまでご主人の隣で硬い表情をしてモジモジしていた老人の目が輝いた。 それから2〜3日後、この老人は息子さんの手を借りて、土の掘り返し作業を始めた。楽しくて仕方がないという風に満面の笑みを浮かべ、作業する背中がイキイキと動いていた。70歳ということだが、40代の背中にしか見えなかった。石はきれいに取り除かれ、あっという間に立派な畝ができてしまった。 息子さんによると、父親は日本語も英語も全くわからないということだったし、息子さんもガーデニングの道具や種をどこで入手できるか知らないと言った。 畝が完成した後に、私はこの老人に「有機肥料」と書かれた袋を見せて、別の小袋に入れた肥料を差し出すと、「シェイシェイ!」と言って受け取り、本当に嬉しそうに笑ってくれた。これが、私とおじいちゃん(と呼ぶことにした)との最初のコミュニケーションだった。 言葉がわからなくても、通じることがある。「ニーハオ!」と挨拶から始まり、顔を合わせる回数が増えるに従って、おじいちゃんは、支柱の強化の仕方を教えてくれたり、苗をくれたり、私の作業や畑の様子を見にくるようになった。 その後私は、おじいちゃんは小さな村の出身なので、訛りがあって中国人同士でも言葉が通じないということを知った。 息子さんによると、おじいちゃんはテレビも見ないし友達もいない。話せるのは家族だけ。趣味はなく、ただ野菜を育てることだけが好きということだった。日本に来て5年になるが、ずっと孫の世話と家事に追われ、楽しみもなく、気分が沈んでいたのだそうだ。 おじいちゃんの畑の野菜は、Tさんと私より2ヶ月ほど遅れて始まったにも関わらず、生育スピードが凄まじく、すぐに私たちの野菜を追い抜いただけでなく、無農薬でも虫に食われない丈夫で大きなものが育った。 おじいちゃんは、畑にいる時本当に嬉しそうでイキイキしており、その喜びが畑に反映されていた。おじいちゃんの畑は明らかに植物の色もエネルギーも違っていた。何を作っているのか、どうしてこんなに大きいのかと、興味津々で見に来る人々が現れるようになった。 トマト、きゅうり、インゲン、空芯菜、青梗菜など、おじいちゃんは、できた大量の野菜を大袋に入れて、気前よく私や近所の人に分けてくれる。 元気な野菜がたくさんできる。採っても新しいのがまた出てきて、食べるのが追いつかないので、皆さんにも食べてもらう。野菜を育てることは、収穫を分かち合うということでもあるのだと、気付かされる。 屋外で過ごす時間が増えると、人の動きがよくわかる。赤ちゃん、子供、若い親、中高年の人、散歩で敷地を通る近隣の高齢者。中庭の通路を通るドイツ人、ウクライナ人、ロシア人、アメリカ人、エストニア人、エジプト人、中国人、バングラデシュ人、ベトナム人など、私は様々な人と中庭や通路で挨拶をするようになった。 色とりどりでなんと面白い環境に住んでいるのだろう。草ぼうぼうの荒地だったところが、面白いと思える場所になるなんて! また、この冬は、いつも野菜をもらっているお礼にと、近所の人たちからいただいた土産や果物で、キッチンの棚がいっぱいになってしまうという現象が起きた。 中庭の絵を描いてから、気づいたらこのように様々なことが変化していた。 あの絵に込められたものは、その場所で私が見つけた「小さなこと」のひとつひとつと、そのひとつひとつに包含される夢のような世界(物語)だったが、それは私が感じる自然界と私自身との関係であった。 しかし、物語はそれをはるかに超えた領域からさらなる物語を運んできて、目の前で展開し拡大していった。 出来事として起こった、料金値上げによる業者の草刈りの終了とコロナ。それらは一見悪いことのように思えるが、それは素晴らしい変化のために必要なことだった。それが、ポジティブな事柄へと転換する流れの起爆剤となったのではないだろうか。 これらの変化を起こすために、誰かが何かを無理に始めたことはあるだろうか? 私はそうは思わない。 自発的に取り組む人々が現れ、それが拡大して、自然に子供たちや大人の交流が増えた。 このように、誰の関心もないような荒地だった場所が変化し、小さいながらもコミュニティらしきものが出来上がっていく過程を自ら目撃とともに体験するとは、私は夢にも思わなかった。 自分が住む場所への関心、他の住人への関心、交流、分かち合うという精神は、目覚めると、個人にも集合意識にも影響を与えて拡大していく。 拡大していくところに、豊かさの循環が生まれる。 それは、お金では得られないもの。 マインドが見た荒れた土地を心の目が楽園に変えたその絵に、私は “Home”というタイトルを付けたが、そのHomeの奥には、さらに拡大した心の世界があったのだ。 楽園が描かれると、次に、絵はそこに住む人間を巻き込み始めた。 荒地のままにするのか、それをどう扱うか、どう生きたいか。 そのことが突きつけられ、動き出したものが拡大していった。 この絵の奥には、人間がこの地上に実現できる楽園とその可能性が、それはまだほんの小さな始まりであるが、示されているのだと私は思う。
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