コロナワクチン接種の最中に、私は感動して涙し、接種後椅子に座りながら、至福に浸っていたという、あり得ない体験。
あれは何だったのか? 多分ギフトだった。 コロナ禍は、私にとって災いでも災難でもなかった。特殊な状況下でのみアクセスできる領域の体験を通して、自分の在り方を大きく変えるというきっかけを与えてくれた。そういう意味で、ギフトと呼ばざるを得ない。 何があったのか。 今だからこそ、その詳細を語ることができる。 <選択の余地> ワクチン接種をするかしないか? ずばり、私には選択の余地がなかった。 ・基礎疾患を持つ家族が同居している(本人は過去にノロウィルスで重症化し、救急搬送になったことがあり、感染に対してかなり神経質になっていた)。 ・両親が高齢で、世話をするために長距離を移動しなければならない。 ・法的な条件を満たすために、定期的にアメリカへ入国する必要がある(渡航するには接種証明が必要だった)。 ・夫の両親も高齢。夫の家族に何かあったら、すぐアメリカへ行けるようにしておきたかった。 もしこのような環境下でなかったら、私は「体に異物を入れたくない、自然のままが一番」という考えの、いわゆる自然派グループに属し、接種は拒否したことだろう。 私の友人はほとんどがワクチン反対派であり、打たないことが当然で話が進んでいった。熱心に反対を唱える人もおり、そこに目に見えないバリヤーのようなものを感じると、くだらないことで距離感が増していくのは残念だった。 社会は賛成派と反対派に分かれ、互いに主張し合い、それは夫の家族の中でも起こり、不協和音を醸し出していた。 テレビのニュースは「不安」という言葉一色になっており、異常なエネルギーを放っていた。言われていることをそのまま受け取れば(マインドは恐れに傾く傾向にある)、その瞬間に天秤は恐怖の方へと傾いて、まっしぐらに落ちていく。恐れに意識を向けると、そのまっしぐらは私の中でも起こるので、理解できる。 幸い、私は経験を積んで、天秤の両方を見ることができた。バランスの取れた位置に意識的に意識を置くことは訓練を要するが、それができるようになると、自分の立ち位置が変わる。 俯瞰できるようになると視点が広がるので、気づくことが増える。どんなものでもそうであるが、報道の内容は制作する者の意識によって色付けされている。コロナには全く関係のないニュースさえ「不安」という言葉に染められているのを見ると、私は馬鹿馬鹿しさに笑ってしまった。 世の中のエネルギーが急変し、歪んでいった。賛否両論あるのは当然であるが、躍起になっている人は、賛成派であれ反対派であり、根底にある同じ「恐れ」に突き動かされている、と感じた。世の中が狂気に満ちていく。 深い部分のものが炙り出されていた。私は自分の中にもある恐れにフォーカスすると、真っ先に浮かんできたのが、新大陸発見後、白人がもたらした疫病に免疫のない先住民の多くが命を落としたという出来事。 それはただの入り口であり、探っていくと、深い部分に「未知のものに対する恐れ」が潜んでいるのが見えてくる。これはかなり根源的なものであるため、あらゆる形で触発され、集合的になると巨大な力を集めてしまうことになる。 <エスカレートしていくメール> 私は過去にお世話になった施術家から、定期的にメールを受け取っていた。メーリングリストのメンバーだったからだ。そのメール通信は、からだと心の関係や生き方について、先生ご自身が熱心な探究を続ける中で得た発見や洞察、紹介本、近況などが記された充実した内容となっており、共感することも多かった。 ところが、感染が広がり始めると、内容はワクチン反対一色になった。ビジネスが直撃された危機感から、世の中で一体何が起こっているのかを知るべく、先生は色々調べ始めたとのことだった。 自然治癒力を最も大切にしている方なので、ワクチン反対は当然だと思ったが、あまりにも毎回反対意見を強烈に打ち出されると、私の反応は「過ぎたるは猶及ばざるが如し」状態になっていっただけでなく、違和感だけが増していった。 間もなく、メール通信で「ワクチンの背後にあるもの」が言及されるようになった。先生はコロナワクチンをさまざまな方向から探っていくうちに、背後にある大きな仕組みに興味を持たれ、社会の裏側・闇の世界、つまり陰謀論へと導かれていったとのことだった。 メールを開けて「陰謀論」という言葉を見た瞬間、私はうんざりした。 アメリカで同時多発テロが起きた時も、東日本大震災の時も陰謀論が浮上し、人々の憶測が行き交い、混乱や怒り、恐れが高まった。 「またか・・・」 それが本当か否かということではなく、その陰謀論を取り巻くエネルギーが不快で、私はそこに、これらの出来事だけでなく、長い歴史の中でパターン化され繰り返されている何かを感じていたからだった。そのエネルギーは磁石のような力を持ち、そこに関心が集まることで、火に油を注ぐように増大し悪化することに、私は興味がなかった。 <洗脳 ― 強烈に引き込む力> 社会の闇にフォーカスし始めた先生が、今度は過激な動画をシェアするようになった。先生は一体どうしてしまったのだろうと思いながら、リンクをクリックしてみると、中年男性が聴衆を相手に闇を暴くと息巻いていた。 この男性はとても熱心に次から次へと具体的な組織名や人物名を挙げていき、闇の実態を説いていく。内容はもちろんかなり過激なのだが、私はそれよりも別のことに興味を持った。 それは、この男性が使っている「術」。 話し手のものの見方や解釈がベースになり、相手に強烈にネガティブなイメージと強烈な感情を与える内容は、真実かどうかということよりも、強烈さゆえに、聞き手にショックや驚愕、奇妙な好奇心を与え、そこから自動的に恐怖や嫌悪という感情が引き出される。 それが出たところで話し手は間髪を入れずに、「ねっ」と言う。この「ねっ」というのは、相手に同意を促すための言葉で、それに対して無意識にも相槌を打つ人が多い。 この男性は、次から次へと過激なことを言い、聞き手の心に浮上した恐れの感情の上に、さらに恐れを乗せていく。一歩引いて自分の頭で判断する隙を相手に与えないよう、相槌を打たせるための「ねっ」をリズミカルに頻発させて、自分の世界とペースへと巧みに引き込んでいくのである。 多くの人々が話にのめり込んでいく。話し手が「ねっ」と言った瞬間、エネルギーが相手にグッと押し込まれるのが、見ていてわかる。姿勢が前のめりになり、その度にうんうんと頷いている人たちは、自分の頭で考えて判断する余裕も能力も完全に失った操り人形のようになっていた。 「う〜ん、見事なほどのエネルギーの操り手だあ」 私は唸った。 言葉の流れに絶妙なリズムを作り出し、相手に自分で考える隙を与えずに相槌を打たせ、引き込んで話し手のペースに乗せていく。それは、話し手が道を作り、そこへ相手を誘い込み、その道を歩かせているようなもの。 さらには、そこから相手に想像させてその先の道を作らせ、そこへと引っ張ろうとしているのである。これに全く気づいていない人は、催眠にかけられたように、話術というエネルギーでコントロールされていく。話し手は、無意識にも意図的にも操作できる立場にあるのだ。 この巧みな話術と聴衆の反応を私は静かに見ていた。すると、ある時、ゾーッと鳥肌が立つような感覚と共に、ハートの奥の方からなんともいえない記憶のような感情のようなものが沸き起こってきた。 「私、これ、このエネルギーのこと、よく知ってる」 教祖やカリスマ的な人物が使う術。 私の魂は、彼らがどのようにエネルギーを操っているかをよく知っていた。自分も過去に使ったことがあるゆえ、わかっているのだろう。実際、そのような術を使う側も操られる側も、私は魂レベルで熟知し、どれほど危険かがわかっているようである。 そこに気づくことは、自分の中にある過去の闇の部分が浮上したことでもあり、気づくことで「私は十分知っている。だからもうそれは要らない、卒業する」と、自然にそう思えるのである。 私は、この過激なビデオを見ることができて良かった。「もう十分。もう要らない」と思う瞬間、そこにあった古いエネルギーが抜け落ちてスペースができ、次なるステージがやってくるからである。 <見えてくるもの> その動画を見ることで、言葉自体ではなく、その言葉(それに乗せられたエネルギー)に対する反応(感覚・感情)が現実を作り出す元となることを改めて感じた。 マインドレベルでの共感は、多くの場合、恐怖や不安、怒り、嫌悪、敵対心など否定的な感情での反応であり、共感する人の数が多くなればなるほど、それが創造の種としての力となっていき、ネガティブな感情がベースとなった未来の現実が創造される。 逆に、ハートと直結したポジティブな感情の場合は、そのエネルギーがポジティブな創造の種となる。 良くも悪くも、多くの人がそれに共感すればするほど、その世界が創造される。そこにエネルギーが集まるからである。 コロナ禍の渦中、世界中でハートが萎縮し、マインドが増大した。そこに「自由」というテーマが掲げられ、ますます混乱していった。正しさを躍起になって主張し始めると、それは戦いのエネルギーに変わる。これも、私にはうんざりするほどお馴染みのものに感じられた。 <奇想天外な答え> 私はできることなら接種は避けたいと思っていたため、接種する時期をできるだけ延ばしてきたのだが、アメリカへ渡航する時期も迫っており、決断しなければならない時が来た。 もちろん、私は周りから入ってくる情報を全く無視していたわけではない。友人からは、絶対にしてはいけない!という意見ばかりが入って来ており、「本当に良いのだろうか?体は嬉しくないだろうなあ・・・」などと、頭は考える。 おまけに、必要性に迫られているときに限って、強烈な反対意見ばかりが入ってきて、やっぱりそうか、やっぱりそうか、と頭は同意したがる。しかし、あれこれ考えることが増えていくにつれ、気分がイライラし、ハートはザワザワして不快極まりない。 そんなふうに頭が忙しくなって、私の中で不快指数が上昇し続けていたある日、友人から「ワクチンが体に入った瞬間に、気持ちが悪くなったというクライアントがいた」と聞いた途端、腹立たしさと共に私の中で何かがプチンと切れた。 頭が完全にロックされた。 「うっとおしい!もうどうでも良い。面倒くさい。考えるのが面倒くさい!どーでもいい〜!!」 そう心の中で投げやりに叫んだ瞬間、見えない扉がパカーンと開いた。 そして、私の内側から言葉が流れ出た。 「人は信じたいものを信じているだけ。ワクチンが良いか悪いか、そこがポイントではない。そこにフォーカスするからこそ混乱する」 「あっ、確かに・・・」 すると、私の意識は自動的に源のレベルへ移動していった。 源の領域。そこには純粋な愛のエネルギーがあった。そこは、あらゆるものが創造されるゼロの状態で、創造されること自体が愛で包まれているのを感じた。 「何もない・・・」 その状態は心地よく、クリアーで自由な領域だった。 「ああ、これが本当に自由というものなんだ。何もない。なんと広大で心地よいのだろう」 すると、探検してみたい、チャレンジしてみたい、という好奇心いっぱいの子供のような感覚がやってきた。 「神のレベル・・・そうだ、今、ワクチンが最初に作られたその大元へと戻ってみよう。そこには何がある?」 「・・・愛。この場合、人々の命を救うため」 それは純粋な気持ちから始まった、と私は感じた。 人類愛があった。ハートがそれと融合し、私はその感覚を味わった。その大元は確かに存在している、と感じた。 単純なことだった。その純粋な部分は輝いており、闇やら陰謀やら、そんなものは全く存在しない。その考え自体が存在していない。 私が感じ取ったワクチンは、愛がかたちになったもののひとつであり、光に包まれ、光を発していた。 すると、次の瞬間、私の中からワンダーチャイルドのような内なる勇敢な子供心が宣言した。 「私は源のエネルギー、その純粋な愛のエネルギーのエッセンスをこの次元にもたらして創造したい。そう、私にはそれができる!絶対できる!」と。 ハートが「待ってました!」とばかり、歓喜に溢れた。 振動が、ハートの奥から湧き出て上昇し始めた。それが頭頂から降りてくるエネルギーと合体し、1本の太い柱のような光のエネルギーとなった。私のハートと天とを結ぶその柱の中で上下の流れが循環し始めると、その流れは熱いと感じるほど強さを増し、その高揚の中で私は至福のゾーンへと入っていった。 この至福状態で、私はあえてマインドを使って問うてみた。 「ワクチンは遺伝子や免疫に影響を与え、これは問題なのでは?」 フッと一笑に吹された。 「そんなもの、ものともしない。頭では想像も理解もできない偉大な力(知性)を意識はもたらすことができ、肉体はそれと連携する。まず現象があり、科学は後付け」 気弱なマインドは、本当にそんなこと信じて良いのかと驚いたが、ハートは太鼓判を押すような勢いだった。体の中に強く肯定的なエネルギーを感じ、細胞が興奮でわーっと沸き立っているような感覚を覚えた。 余計な思考が複雑にして混濁や混乱を招き、世の中が大混乱して混沌の沼に落ちていく中、私は自分をそこからしっかり切り離し、そこに影響されない、この純粋な部分のみにアクセスして、そこから創造することができる、ということを思い出す。 そうするように決まっていた、と強く感じた。 私にとって、それは宇宙との約束を思い出すような不思議な瞬間で、出されてあった宿題を無事クリアした時のように、安堵したのだった。 このような瞬間をこれまでに何度か体験しているが、導いてくれるのは、いつも頭ではなくハートであった。 <あり得ない体験> 数日後は接種日だった。駅前の会場へ行くと大勢の人が並んでおり、配置された係の人たちが誘導していた。 連日訪れる大勢に対応するのは大変なことで疲労も増すだろうが、係員はどの人もキビキビとしており、誠実で熱心な接し方が心地よかった。会場にスーッと綺麗なエネルギーが満ちていたのは意外で、接種会場ってこんな気持ち良い場所?と驚いたほどだった。 接種ブースは20近くあった。人々が次々とブースに入っては出ていく。カーテンが開いては閉まる、開いては閉まるの、休みない動きを私はぼーっと見ていた。いよいよ私の番が回ってきて、ブースのカーテンを開けると、中年の女性医師がいた。 人は、次から次へと同じ作業を繰り返していると、疲弊して感覚が麻痺し、機械的に数をこなすだけになっていく傾向にある。会場は全て流れ作業になっており、ブースの係の人たちにとって、接種してもらう人たちは、ベルトコンベイヤーに乗って流れていく腕くらいにしか映っていないかもしれず、私はぞんざいに扱われるかもしれないな、と思った。 それを覚悟して椅子に座った。 ところが、先生がこちらを向いた瞬間、私は「えっ?」となった。 「この場所にこんな人?」 女性医師は、観音様のような優しく穏やかで柔らかいエネルギーに包まれており、ゆっくりとした物腰できちんと私を見ていた。丁寧に大切に扱ってくれるのが伝わってくるため、座っているだけで心地よい。そのような医師に、今まで出会ったことはあっただろうか? 先生の温かい手が私の腕に触れた瞬間、先生から発せられているエネルギーが一瞬で私を包んだ。 「えっ?これ、愛のエネルギー、すごい。この人は何者?」 「医師という職業の大元にある人類愛。この女性のハートにはそれがある」と私のハートが伝えてきた。 優しいが強い愛のエネルギーが、ワクチンの注射を包んでいた。私は自分の腕を見つめていた。 それは、魔法のようだった。針から液体が入っていくのだが、それはワクチンの液体ではなく、愛の光が液体となって注入されていくとしか感じられなかった。 とんでもなく気狂いじみたことだが、そうとしか感じられなかった。目撃している目にそうとしか映らなく、体は心地よく感じて、同時に感動の涙が溢れ出た。液体が入るにつれ、感動で内側から振動し始め、あの光の柱を感じた時のように、熱く上昇していく感覚が訪れた。 あり得ない。ワクチンを打ってもらって、感動して涙しているなんて、全くあり得ない。しかも至福へと上昇していくなんて、絶対にあり得ない! と言いたところだが、実際に起こったので、私にとってはそれが現実だった。 接種後に20分ほど経過観察のため椅子に座っている間も、ずっと至福状態が続いていた。涙が止まらない。 「これが創造というものだよ。愛のエッセンスをこの次元にもたらしたかったのでしょう?それを体験したかったのでしょう?だから、今それをかたちにして体験しているのだよ。これがそれなのだよ」と声が聞こえた。 <何度も浮かんでくる一場面> コロナが始まるよりも前のことだった。十数年前に読んだジェームズ・レッドフィールドの著書の一場面が、何度も頭に浮かんできたのだった。私は気になりながらも特に何もせず、頭の片隅に追いやったのだが、時々強烈に浮かんでくる、というのが数年ほど続いた。 それは「予言」シリーズのどれだったか(第十の予言?)覚えてはいないが、サスペンス仕立ての物語の一場面だったと思う。 主人公が敵に追われて必死で逃げようとしている時、彼をサポートする高次の存在たちが、敵の侵入が不可能な安全な場所、つまり自分たちの場所へ来るようにと彼を招くのだが、彼にその声は聞こえても、存在たちの姿は見えない。 波動を上げれば見えるようになり、その領域へと入れる、と言われても、危険が迫る恐怖に慄いている彼には、恐怖が邪魔してどうしても入れない、という場面であった。 私の頭にその場面が浮かぶたびに、それは私をサポートする存在たちもそのような場所から常に見守っており、意識の状態によってはいつでもアクセス可能なこと、だからこそ、そこに注意を払え、と私に伝えているのだと感じた。 その場面が、接種した夜に再び蘇った。 私はワクチン接種の時に最も強い至福感に満たされていたが、帰宅した後も、ホワホワした温かさと幸福感がしばらく続いていた。 夜になって、私は自分の心の動きと決断、接種会場で実際に起こったことなどを反芻した。純粋な愛のエッセンスだけにフォーカスしようと思ったこと、そして、自分の感覚と独自に得た答えを信じたことは、深い喜びだった。 風呂場の外の洗面台の前に立って、その喜びを味わっていると、突然頭上30センチほどの前方に、私をサポートする三人の存在たちの顔が現れ、私にこう言った。 「おめでとう、ようこそこちらへ。ひとつクリアしたね」 半透明で見えている三人は並んで私を見ていたが、その中の一人は中心的な存在なのか、私の目はそこへ引きつけられた。 そういえば、この三人は以前も私の前に現れたことがあった。アメリカで旅の途中、網膜が破れるという出来事があったが、一刻も早く帰国して手術した方が良い状況の中、「このまま旅を続けなければ意味がない」という言葉が自分の中から出てきて、帰国せずに危険を承知で旅を続けることを決断した時に、現れたのがこの三人だった。 ただその時は、彼らは私の頭上近くにいて、その決断を一緒に喜んでくれただけだったが、今回は違った。 「おめでとう、ようこそこちらへ」という歓迎の言葉を聞いた途端、一瞬で私は彼らの隣にいて、同じ空間をシェアしていた。 床の上に立っている肉体はそこにあるのに、意識は彼らの隣だった。斜め上にスルッと上がったというか、気づいたらそこにいたような感覚だった。 言葉にするのは難しいが、そこは開かれており、肉体を持った次元とは比べものにならないほど軽く、愛と智慧に溢れており、私は今まで感じたことのない深い平安と心地よさに満たされた。 それだけでなく、彼らと並んでいる私は、彼らの仲間であり対等だと感じたほどだった。 完全に開かれていることは愛と智慧そのものであり、満ち満ちていて力強い。それを感じた瞬間に、私はそれと融合してしまった。その状態がどんな風であるかを「身をもって(身はないが(笑)」感じることができたのは、宝のような体験だった。 私は肉体を持った私を超え、これらの存在の仲間入りをして、その領域をしっかりと捉えた。 この拡大した意識の状態になると、自分の在り方が全く違ってしまう。とにかく自分という存在がどっしり大きくなり、愛で満ち満ちる、というか、完全に開かれた絶対的な愛と信頼の中に存在する、といった感じだろうか。 それは長くは続かず、煩雑な日々の中で薄れてしまうこともあるが、この感覚は私の内に刻まれている。 たまたまワクチンという形をとっただけのことで、それは私にとって、他に影響されずにクリアな心の目で見ること、何をいかに創造するか、さらには高次の存在の領域がどのようなものかということを、頭ではなく体験によって知るためのひとつの手段に過ぎなかった。 私には接種しないという選択の余地がほぼなかったことも、幸いしていた。切羽詰まった状況にならない限り、このような特殊な体験はできなかったかもしれない。 今、はっきり言えることは、私たちは闇を創造することも、光を創造することもできるということ。私が受け取ったのは、加害者にも被害者にもならない道であった。 その道には愛と智慧と力が注がれており、私たちの前に広く開かれているのである。
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