「ロイヤルミルクティーをください」
「ロイヤルミルクティーで」 「ロイヤルミルクティーお願いします」 デパ地下にある行きつけのコーヒースタンドで、豊富なコーヒーメニューを尻目に、私がオーダーするのはいつもこれ。数席あるカウンターで、紅茶を頼むのはほとんど私だけである。 「ホットティーください」 「アールグレイお願いします」 「ダージリンで」 どこのカフェに入っても、こんな具合。 私はコーヒーを飲まないのだ!というよりも、飲めないのだった。 子供の頃から胃腸が弱く、コーヒーを飲もうものなら、胃が痛くなったり、口の中に変な酸味と後味が長く残ったりして、私にとっては、コーヒー=胃が不快・不調になるから避けるべきものになった。 アメリカに移ってからは日常で緑茶を飲む機会が減り、カフェインに敏感になったこともあって、ハーブティーを飲むようになった。 たまに緑茶を飲むと、それがたった一杯であっても夜眠れなくなったので、午後からはカフェインが入ったものは一切摂らなくなった。 ただでさえ要注意のコーヒーには、カフェインレスでない限りカフェインが入っている。私の中で、飲めないコーヒーは、飲まないものから「飲んではいけないもの」となってしまった。 それでも、ごくたまに人につられて挑戦しようとしたり、仕事上自分だけ他のものをオーダーできない状況で飲むと、やっぱり後悔する結果となる。コーヒーを美味しいと言って常飲している人は、一体どんな体をしているのだろうかと不思議に思ったほどだ。 そんな私は、日本に戻ってからは、日本茶を飲む生活様式へと戻ったため、少しずつカフェインに慣れていった。とはいえ、今でも夜は濃い緑茶は控えている。 コーヒーに限っては、相変わらず縁がない日々を送っていた。 「ロイヤルミルクティーをください」 「ロイヤルミルクティーで」 「ロイヤルミルクティーお願いします」 デパ地下にある行きつけのコーヒースタンドで、豊富なコーヒーメニューを尻目に毎回ミルクティーをオーダーする私。 それが、ある日突然ひっくり返った。 1年ほど前のこと、いつものようにカウンターに座ろうとした時、突然何かが小さく弾けたような感覚があった。それは、何かに気を取られていたり考え事をしていたら気づかなかったであろうほど、ごく微細な感覚だった。 頭の中か体の中か、はたまた体の外だったか。とにかく、とても小さい何かが弾けた。 「ん?」と思って、そこに意識を集中させると、頭の中でミルクティーが端の方へ移動していき、空いた場所に「ちょっとカフェオレ頼んでみたら?」というのが入ってきた。 それは声だったのか、考えだったのかわからないが、「トライしてみたら?」という誘いのようなものだった。 直感で、「うん、これはイケるかも、飲んでみても良いかも」と思った。馬鹿の一つ覚えのようにミルクティー、ミルクティーと言うのにも少しうんざりしていたところだった。 「今日はちょっとカフェオレを飲んでみます。薄めにお願いします」 店員さんは一瞬表情が固まってから、「はい」とにこやかに微笑んだ。 まずは牛乳をたっぷり入れたカフェオレで・・・。私の中から好奇心が湧いてきていた。これはイケるかも、となぜかそう思うとワクワクさえしてきた。 店員さんが牛乳を手で泡立てて、ラテ風にして出してくれたカフェオレは、私の苦手な酸味がなく、胃に不快感を与えない。全く大丈夫だった。苦味もそれほど気にならず、滑らかな口当たりで美味しいとさえ思った。 それから、毎回私はつきものに憑かれたようにカフェオレを、カフェオレがメニューにないカフェではカフェラテを頼むようになった。あれだけ飲んだロイヤルミルクティーは、どこへやら。 それも飲む時間は、午後3時以降。カフェインが入っていても、夜の眠りには全く影響ない。毎朝マグカップ4杯分の濃いコーヒーを入れる夫でさえ、午後のコーヒーは眠れなくなるらしく、午後はカフェインレスのものしか飲まないのだが、私は4時に飲んでも5時に飲んでも平気なのである。 午後に決まってコーヒーを飲む私。一体何が起こっている? 私の内から返ってきたのは、「化学反応」という言葉だった。肉体・体内で起こっている変化に対応するため、今体が必要としている何かをコーヒーを通して摂取しているようだった。 胃が反応しなくなったり、カフェインが大丈夫になったり、それは年をとって鈍感になったということではなかった。むしろ、感覚は敏感になってきており、味覚は以前よりも高まっている。 例えば、外食して、本当に美味しいと思えるものが少なくなってきている。食材や鮮度、調理方法、調理人の心理状態などのエネルギーが反映されるので、感度が上がれば当然それを感知するようになる。 1年半ほど前に、あるビジネスホテルの朝食で何を食べても無機的にしか感じなく、これは食べ物の形をしているが食べ物ではない!と強く思ったことがあり、その自分の反応に驚いた。 それは強烈な体験だったが、コロナ期を通して私の中でさまざまな変化が起こっている。 その中で最も顕著なのが、「こだわりがなくなってきている、どっちでも良い、どうでも良い」というのであり、つまり、徐々に縛りから脱しているのである。 そのような意識の変容に伴って、体にも変化が起こるのは当然だと私は思う。 先日、友人がFacebookの投稿で「新しい世界は、当たり前の別角度から突如 拓いてゆく」と書いていた。 その通り!あの時、突然襲った何かが小さく弾けたような感覚。ほんのわずかな小さな小さな感覚。 それが180度大転換の始点だった。58歳になってそんなことが起ころうとは!!しかも30度でもなく90度でもなく、180度なのである。 何がどうなってこうなった? そう、あの弾ける感覚は、扉のようなものだった。カフェオレを試さずにそのまま紅茶を飲み続ければ、扉の向こうへは行けなかったかもしれない。 先日、街の小さなコーヒー豆専門店で、深煎りのコーヒー豆を挽いてもらった。それを楽しそうに持ち帰る自分の姿があるなんて、1年前までは想像だにしなかった。 苦手なものを克服したというよりも、ひとつ新しい楽しい世界が開けたという方がしっくりくる。そこには、以前とは違う自分という自由と喜びがあった。 私は思う。扉の数も種類も無数にあり、気づかないだけで、きっと最初から存在していたのだろう。ただ、それに出会う方法もタイミングも人それぞれで、通り抜けて出会う世界もレベルもさまざま。 遅すぎるということは決してない。ひょっとして人は死ぬ直前まで、そのような扉を何度も何度もくぐっていくのかも。 友人が言ったように、新しい世界は、当たり前の別角度から突如 拓いてゆく。 そうなると、やはり微細な感覚に耳を澄まし続けるのが良いと私は思った。
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私の体験談やエピソード、日々の中で感じたことなどを画像を交え、多次元的な感覚で縦横無尽に語ります。 アーカイブ
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