< (1)のエピソードはこちら > その声は誰なのか?それは、とても短い言葉でストレートにやって来る。 その声を聞いた瞬間、私は「ええっ嘘でしょ!?」とショックを受ける。 思っていることと正反対の方向へと導く「鶴の一声」。それが、これまで私に何度か投げかけられた。 2011年3月に東日本大震災が発生し、その年、夫に日本での仕事が突如舞い込んだ。 私たちは、翌年2012年の秋にシアトルから仙台に引っ越すことになったが、そのちょうど1年前に当たる震災の年の秋には、アメリカに住みながらも、すでに大分でタッチドローイングのワークショップが始まっていた。 それは、震災の前年2010年に出会った大分の人と友達になり、タッチドローイングに興味を持った彼女が、私のためにワークショップを主催してくれたおかげである。 その後も数年間、毎年彼女が主催者となり、主催者のボディワークとのコラボで、大分ワークショップは1日のみから2日間に拡大し、多い時は年2回開催されることもあった。その後、さらにワークショップは3日間の宿泊型リトリートへと発展した。 その間、私は他にもご縁が繋がっていき、主催を快く引き受けてくれる人々の有難いサポートのおかげで、北海道、岩手、仙台、東京、愛知、岡山、広島でも1日〜2日間のワークショップとリトリートを開くことができた。 2014年には大分の湯布院で3日間のリトリートが始まり、翌年2015年はワークの開催地も最多になっていた。 中でも湯布院でのタッチドローイングは、会場・宿泊施設が貸し切りとなり、1日3食地元の新鮮食材を使った心のこもった美味しい食事と源泉掛け流しの温泉付きという、贅沢で最高の環境が提供された。 豊かな自然の中でのワークには、朝の散歩、ボディワーク、夜の談話なども組み込まれ、寝食を共にする3日間ということもあり、内容は深くて濃く、参加者にとってもファシリテータの私にとっても体験はパワフルなものとなった。 私のタッチドローイングワークの中で、大分は最も古くて開催数も最多だった。3日間の初回リトリートは成功し、2回目のリトリートも前回とは違った形のワークとなり、パワフルな体験の場となった。 この年は、仙台2ヶ所で1日のワーク、東京、愛知、北海道で2日間のワークを行っており、タッチドローイングも徐々に広がってきていると実感していた。 アメリカでは毎年5泊6日のリトリートがあるが、それくらいの日数になると、内容はより充実し、体験は人生が変わるほどのパワフルなものとなる。私は、将来それを日本で実現することを目標としていた。 大分リトリートは強い手応えがあり、ワークの場は盛り上がっていた。日数こそ短いが、環境はアメリカのものに匹敵するほど整っていた。 通常の意識を超えたレベルで展開していくワークに私も参加者も没頭し、深いシェアに感動し、シンクロに驚いた。そこには、自由な表現が許される完全な体験型であるからこそ味わえる喜びがあった。 ワークの場のエネルギーは高まり、ドローイングに没頭している参加者を眺めながら、私は大分リトリートが定着して、ここに全国から人が集まり、リトリートの日数もさらに拡大していく、と確信した。 雄大な自然、心温まる食事、ゆったりと過ごせるスペース、心地よい温泉・・・。そんな環境下で自然なかたちで開いていく心と出会い、本当の自分を思い出し、本来の力を取り戻していく。参加者と共に創造する喜びの世界が広がっていく。 ワークの場はクライマックスへと向かい、私の気持ちも高揚していった。 本当の自分の力を取り戻していく喜び、創造することの喜びの世界。 「私はそれを実現できるのだ!リトリートがさらに充実していく!」 まるでそれがもう叶ったかのように想像すると胸が熱くなり、興奮とともに一気に気分が至福の境地に達したその瞬間、 「リトリートはこれで終わり!」 と、頭の右上30センチほどのところから、一言入ってきた。それは強く、とてもはっきりとした声だった。 「ええっ!!?」 私の頭に、斧がガーンと振り下ろされた。私はその時参加者の輪の中に立っていたのだが、よろめいたほどだった。 ショックで頭の中が真っ白になり、しばらく立ち尽くしていた。 「うそー!あり得ない!!」 鶴の一声は、あまりにもショッキングだった。 「これで終わり」という言葉は、私の頭に突き刺さり、心の中で波立った。 至福の瞬間に、一気に奈落に突き落とされた。 180度、完全に逆。これ以上の真逆はあり得ない。 打ちひしがれるような衝撃。その言葉を受け入れ難かったが、無視もできなかった。なぜなら、過去の経験から、それが私をサポートするガイドの言葉だとわかっていたからだ。 「それにしても、このタイミングで来るかぁ?!」と反論したいところだったが、ガイドたちは、私に意地悪をしたのではない。 私のマインドには到底わからないことを、予告してくれていたのだ。それは私を止める忠告ではなく、私が次のステップへと準備できるように、よりスムーズに移行できるように、前もって愛あるメッセージを送ってくれたのであった。 ただ、その時は心に余裕などないので、私はそんなことは理解できなかったが。 実際、その言葉が降りてきて、すぐに全てがシャットダウンされた訳ではなかった。しかし、環境が急変した。 主催者にも会場のオーナーにも大きな転機が訪れて、主催に終止符が打たれ、会場・宿泊施設もこれまでのようには利用できなくなった。そういう意味で「これで終わり」というのは、その通りだった。 しかし、その言葉は、実はその後の展開を示唆していたと、今でこそわかる。 私は新しく塗り絵ワークを編み出したり、別の場所でリトリートを開く機会を設けることができたりして、それなりに活動を続けたが、すぐにどうしても続けられない時がやってきた。 のっぴきならない出来事が、自分にも起きたからである。 アメリカに旅行中、私は突然網膜剥離になり、しばらく日本に戻れなくなった。 その後も網膜剥離の後遺症と白内障を併発して手術することになっただけでなく、今度は、反対の目も白内障になって手術をする羽目になった。 いずれの場合も手術の空きがなく、見づらさが増す中で、半年以上辛抱強く順番を待たなければならなかった。さらに、その翌年には後発白内障になるという展開になり、結局2017年からほぼ3年間私は活動できず、多くの時間を家で費やす生活になった。 すると次にコロナが始まり、そこからさらに3年間、じっと内側へフォーカスする時間となる。 コロナによって、ほぼ全ての人の生活が一変した。だが私にとって、それはこれまでの3年間がそのままスムーズに自動更新されたようなもので、日常に大した変化は感じられず、むしろ私は、引き続きゆったりと過ごすことに満足していた。 今振り返ると、あの時受け取った「これで終わり」という言葉は、そのままマインドに暴走させずに、この6年間がやってくることへと意識を方向づけるためのものだったかもしれない。 そういえば、と思い出すことがあった。 「あなたは、この先、今まで表に出していたものを一旦全部引っ込め、大きな軌道修正に入ります。今、氷山の一角が出ている状態ですが、水面下には巨大な部分があるのです。それが次第に上がってくるでしょう」 それは、8年ほど前に受けた占星術のセッションで言われたことだった。 当時私の活動は最も盛んな頃だったため、「今まで表に出していたものを一旦全部引っ込める」と言われても、何のことかさっぱりわからなかった。ただ、「全部を引っ込める」の「全部」という言葉は強烈で、「全部?何?どういうこと?」と思ったのを記憶している。 出すことの真逆がやってくるとは、その時の自分には全く信じられないことだった。 占星術のセッションで「軌道修正」という言葉が使われたが、方向転換するには、ブレーキをかけて速度を落とす必要がある。同じ速度で走り続けたまま方向転換しようとすると、とんでもなく大きな遠心力がかかって振り飛ばされ、大怪我をする。 曲がる角度によっては一旦停止する必要もあり、角度が大きければ大きいほど転換を終えるのに時間がかかる。ガチョウの首のように湾曲した場所をイメージしてみるとわかるだろう。 私にとってこの6年間は、そのような時期にあたるのだろうと、最近になってわかるようになってきた。あの時の占星術セッションを通して、メッセージが伝えられていたのだろう。魂の青写真はこうなっているよ、大事な時期が来るよ、と。 そうでなければ、その占星術のメッセージがこんな風に今腑に落ちることはないし、起こることは何であれ(目の不調さえも)プロセスの一部であり、全て順調である、と肯定的に受け止めることはないだろう。 それまでの私の意識は外に向いており、頭の中は「何かを成し遂げなければならない」、「タッチドローイングを日本で広めなければならない」という思いが強かった。そのため、どこで誰と何をすれば良いのか?と考えることが多かった。 そうしなさいとは誰も言っていないのに、自分で勝手に設定して忙しく動き回り、疲れて、それでも結果が出ると満足し、すぐにまたハングリーになって次のチャンスを掴むべく、ハンティングを始めた。 そんな自分だったが、目の不調でストップがかかり、それからは何かをしてみようと頭が考えても、体は動かなかった。マインドは動き続けようとしたいが、1ミリでも感覚が合わないと、ハートは拒否した。 今では、ハートは魂に従うが、「足りない」がベースで忙しく動き続けたいマインドには同意しない、と断言できる。 内側へ意識をフォーカスして送る日々は、穏やかで平和である。外に目を向けず、じっとしているほど、クリアになっていった。この6年の間に、頭で考えて行動することから、ハートで感じ取って行動することへとシフトした。 特に何もしていないのに、忙しく動いていた時よりも充足感が得られるのはなぜか? それは、おそらくマインドよりもハートの方が優位になってくるからだろう。 ハートはいつも落ち着いていて余裕があり、おおらかでブレない。マインドとは視点が違い、視野が広い。自分が必要なもの、必要でないものをはっきり知っているし、こだわりや欲がない。自分が自分であることが好きで、自分の気持ちに正直であることが好きだ。 自分でいることに安心できるというのは、ハートとしっかり繋がっていない限り(そのゾーンにいないと)、とても難しい。 人生のこのタイミングで、軸を完全にマインドからハートへと方向転換することが求められていた。それは、新しい世界へとシフトする上で絶対的に必要なこと。 ハートの領域には広い世界が待っている。五感を超えた感覚が開くにつれ、新しい扉が開き、今まで見えなかった景色(理解)が目の前に広がる。その先にはさらなる新しい感覚が待っている。開いた扉の奥には次の扉があり、そうやって徐々に現実そのものが変化し拡大していく。 外の世界は大混乱し、重く古い体制が崩壊していく中で、内なる世界は平和で明るく軽く、次々に新しい視点を運んでくる。ものの見方が変われば、取り巻く世界も同時に変化するのは当然で、以前よりも広がりを持った世界が目の前に現れる。 気づけば、今までとは違った現実の中にいる。何かに一生懸命取り組んでいる訳ではないのに、いつの間にか今の状態へと変化していた、という風に。 しかし、気づこうが気づくまいが、意識は日々拡大し続けている。全ては流れの中にあり、変化し続ける。抵抗しなければしないほど、スムーズに流れる。 その流れ自体が変化のプロセスであり、私たちは生きている限り経験を続けていく。物事を通してこそできる経験によって、心は感じ、意識は変化・拡大していく。 絶妙なタイミングで鶴の一声が考えていることと正反対でやってきて、その都度仰天させられる、というのも経験。ユニークで強烈な経験なのである。 「逆・正反対」の方向は遮る力を連想させ、それに「あらがう」というイメージが付いてくるが、私の場合はそちらこそが本流であり、あらがうことなく「私の流れ」に乗ることであると、経験から知った。 私が設定した人生の青写真や私を見守る星々の運行は、その流れを構成する主要部分なのだろう。 ガチョウの首のように湾曲した部分がやって来ても、きちんとそれに沿って進めるよう「そっちじゃないぞ、こっちだぞ」と導いてくれているガチョウではなく鶴の一声。 聞こえた時はショックでも、片時も離れず私を見守っている愛の声だと知っているから、前方はいつも光に照らされており、私は我が道を歩いてゆけば良いのである。
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その声は誰なのか?それは、とても短い言葉でストレートにやって来る。 その声を聞いた瞬間、私は「ええっ嘘でしょ!?」とショックを受ける。 思っていることと正反対の方向へと導く「鶴の一声」。それが、これまで私に何度か投げかけられた。 その都度私は思う。
人生の青写真というものがあり、そのコースを私は結構細かく設定してきたのだろうか? 強烈で忘れもしないそのような声を、例えばこんな場面で受け取った。 ひとつは、夫と東京で出会った時。 インターネットがなかった時代、私は夫と海外文通で出会った。 中学で私はすでに海外に興味があり、アメリカとヨーロッパに住む複数の人と文通をしていた。全く違う環境に住む人と英語でやり取りをして、知らない世界に触れることは刺激的で、私は文章を書くことも好きだったため、海外文通はとても楽しかった。 大人になってアメリカで2年ほど学生生活を送り、帰国後も英語力を保つために文通クラブに入った。 おそらく、会員は何百人もいただろう。 ある日、男性会員10人ほどのプロフィールリストが届いた。私の目的は質の高い英語に触れることだったので、私が色々教えてもらえ自分を高められる学歴の持ち主で、私が住んだことのある西海岸の居住者に的を絞った。 そうして選んだ数人の中に、今の夫がいた。 後で知ったことだが、当時夫は学生生活を終えて卒業旅行で何ヶ国かアジアを回るため、現地を案内してくれる人を必要としており、案内してもらう交換として自分が英語を教えるという目的で、クラブに入会した。 私たちは同じ時期に入会しており、夫が受け取った女性のプロフィールリストに私がいたそうだ。もしタイミングがずれていたら、どちらも相手のリストには入っていなかっただろう。 インターネットのない時代だったので、何百人もの会員がいても、個人には特定のリストしか郵送されなかったのである。 私は手紙を書いた全員から返事を受け取ったが、夫だけは違っていた。夫も、私以外の女性から数多く手紙を受け取ったそうだが、私は違っていたそうだ。 何が違うのか?というと、私の場合は、相手の機知に溢れた文章、思慮深さ、私を引き込む独特な世界、そこに滲み出る人柄のようなものだった。 当時はインターネットのない時代、郵便で手紙をやり取りするわけだが、郵送は数日〜1週間かかった。 書けば書くほどもっと書きたくなり、手が止まらない。なんといっても手紙での会話が楽しい。受け取るのを待つ間のワクワク感も、ネットで常に繋がっていないからこそ、ひとしおだった。 「書く」というのは、内面的な活動である。自分の内側を相手にさらけ出していく。 互いに自分の考えや価値観を語り合い、二人のコミュニケーションは驚くほど深まっていった。視界に入るものがないだけに、心で感じ取ることが中心となる。そのため、会って話すよりも、心の部分で引き合うものは強いのだろう。 私たちはとても気が合った。 互いに受け取るとすぐ返事をするという、かなり集中的なやり取りが8ヶ月ほど続いたある日、夫が東京の古い友人を訪ねることになり、友人宅はたまたま当時私が住んでいた場所と近かったので、私たちは実際に会うことになった。 「会ったらどんな話をするだろう?」魅力的に文章を展開させ、豊かな世界を見せてくれるその面白い人に会うことに、私はワクワクした。 待ち合わせ場所を私の職場の近くにして、一緒にランチを食べることになった。 ところが、会った瞬間に私の期待は音を立てて崩れた。 目の前に現れた人は、私が受け取っていた写真の人物とはかけ離れていただけでなく、手紙では饒舌なのに、テーブルの前に座るとむっつりと黙ったままだった。 大きな体でどっしり座ってじっとしている姿が、私の目には人ではなく岩に見えてきた。楽しい会話が弾むのを期待していただけに、岩と顔を突き合わせているその状態は、悪夢だった。 こちらが何か話しても、話は続かず、すぐ沈黙になる。相手の表情は固まったままで、重苦しい空気だけが流れていった。 私は「あの手紙はなんだったのか?これは詐欺だ」と思ったほどだった。 その後、もう一度週末に会ったが、やはり全く面白くなかった。 そんな人に興味は持てなかった。私はそっけない態度で接し、もうどうでも良くなった。 夕方、雨が降り始めた。友人宅に戻るためにタクシーを呼んだその男性と並んで、私は道路に立っていた。特に会話もなく、私は別れ際に冷たく「さよなら」とだけ言った。 タクシーに乗り込む彼の後ろ姿は、雨に濡れてしょんぼりしていた。本当に可哀想なほど、悲しげにしょんぼりと背中を丸めていて、体全体で泣いているのかと思うほどのものが伝わってきた。 それでも、私は冷たく心の中で「これが最後。もうこの人に手紙を書くことはない。完全に終わった」と自分に言い切ったその瞬間、 「わたしは このひとと けっこんする」という言葉が、頭の右上30センチほどのところから入ってきた。それは、とてもはっきりとした大きな声だった。 「ええっ!!?」 晴天の霹靂。 いや、これは雨天の霹靂だったが・・・。 外から入ってきた言葉なのに、「あなたはこの人と結婚する」ではなく「『私は』この人と結婚する」だった。 一撃を喰らったマインドは、ショック状態。 が、そのマインドをよそに、私は心の中でこう呟いていた。 「はい、わかりました。あの人と結婚します」 「!!!!」 追い討ちを受けて、マインドはさらに仰天。 右上からの声は、私のハートにスーッと直球で入り、ハートは冷静に受け取っていた。 それは思考も感情も何もなく、正しいも間違いもなく、迷いもなく、それが当然のことで、私はただそうする、というとてもクリアな感じ。 淡々としているが、それ以外はあり得ないというどっしりとした感覚でもある。 それから数週間後、アメリカから手紙が届いた。 そこにはプロポーズの言葉が書かれていた。 あの時聞いたあの声は、肉体を超えた私の魂・ハイヤーセルフの声だったのだろう。 方向を間違えると、設定した人生の軌道から完全に逸れてしまう。 「そっちじゃない、こっちだ!思い出して!!」という声だった。 なので、マインドではびっくり仰天しながらも、ハートでは「はいはい、そうですよね」ということだった。いや、「そうそう、そうだったよね」という方が正しいだろう。 結婚というのは人生で最大のイベントのひとつだが、そこで自分の考え(感情がベースとなった考え)とは真逆の方向へと直されるなんて。 人はまずは出会って外見から入り、徐々に親密になっていくことが多いが、私たちは通常の逆で、互いに心を分かち合い、心が繋がり合った後で外側へというパターンだった。 この「逆」というのに、どうも私はご縁があるようで、気づくと主流とは違う場所にいることが多い。 逆のエネルギーは、実はとても強力である。正よりも強いのではないかと思うほどの、魔法のような力がある。 もうひとつのエピソードも、そんな「逆」に仰天したお話。 <次回のエピソードはこちら> |