執着を手放す、過去を手放す、物を手放す。
ちまたで「手放せ」の大合唱。 新しいものが入ってくるためには、古いものが出ていかなければならない。 クリーンアップが必要。 確かに、物理的にもエネルギー的にも、これはその通り。 私も実践しているし、過去の経験からそれは間違いないと私は思う。 全てを手放す。 宇宙にゆだねる。 そういう言葉もよく聞かれる。 それを真面目に実践しようとした私。これも手放すのか、あれも手放さなければならないのかと、肩に力が入って頑張ってしまう。 そこへある時「へっ?」という出来事があって、「あららぁ、それでいいのね〜」と楽になった。 これは「全てを手放す」という意味を誤解し、手放す対象を間違えていたことを知って、そこから意識の立て直しが始まったというお話。 重い荷物をいくつも持って両手が塞がっていたり、今すぐその場を発たなければならないのに、そこらじゅうに散らばった荷物をまずかき集めてからでないと行けないと焦っている夢をよく見た時期があった。 その頃はちまたで断捨離という言葉が流行り、前進するためには、とにかく執着を手放さなければならないという考えが私の頭の中にあった。 両親の世話をするために数年間ほぼ毎月実家へ赴き、滞在する約1週間は全力疾走で頑張っていたが、やればやるほど負担は増えてきて、私は心身ともにかなり疲れてきた。 そこで、頻度を毎月から2ヶ月おきくらいにして、滞在日数も5日ほどに減らした頃、母が車を処分したいと言い出した。 実家の車は、滞在中私にとって欠かせないものだった。 父は85歳の時に免許を返上したが、実家は車がないと生活が不便な場所にあるため、そのまま保有して、私が滞在するときにだけ使っていた。 母の通院、買い物、遊びに来た姉の送迎、家族での外食、クリーンセンターへのゴミの運搬などに、車は欠かせない。家族の中で運転できるのは私だけなので、車があってこそできることは全て私が引き受ける。 しかし、車を維持するために必要な自動車保険や車検にかかる費用を実家が払い続けるのは負担になり、これからどれだけお金が必要なのかわからない状態で、そのような「無駄な」出費は迷惑だと、ある時母が言い出した。 何年生きるかわからない、この先病気になるかもしれない、将来施設に入所するとなると、かなりのお金がかかる。貯金はあるが、いくらあっても足りない。 元々その考えは父からなのか母からなのかはわからないが、二人に共通の不安であり、母の頭の中で膨らんでいったようだった。 「乗らない車の維持費を払い続けるのは馬鹿らしい。お金を捨てているようなもので、惜しい。前はもっと来てくれていたのに、最近あなたは年に数回しか来なくなったのだから、車を処分して、あなたにはその都度レンタカーを借りてもらう。それでいいよね」と電話越しに強い口調で言われて、私はショックを受けた。 心身ともにボロボロになるまで頑張って、やればやるほど頼られて、どんどん重くなっていくのを感じていたところに、「前はもっと来てくれていたのに、最近年に数回しか来なくなった」という言葉は恨みのようにも聞こえたし、感謝どころか足りないことの方に目が向けられるのは、なんとも残念なことで悔しい気持ちになった。 しかし、実はやってもやっても足りないとは、私自身が自分に対して感じていることだった。 根底に罪悪感があったからだった。 「将来ここに一緒に住んで、面倒を見る」と私は昔よく言っていた。その考えや価値観が日本へ移ってからどんどん変化してしまい、正直なところ、それはどうしてもする気になれなかった。 親に嘘をついた形になってしまった、親はあの言葉をあてにしていたのではないか、私は裏切った、と思うと、それは罪悪感になった。 毎月頑張り、全力疾走して心身ともにボロボロになっていたのは、そのような心理が働いていたからだろう。 しかしその当時、私はそれを感じながらも蓋をして、気づかないふりをしていた。 突然飛び込んできた、車を処分するという話に、この展開は何だ?と思った。そして、私はあることに意識を向けた。それは「手放す」というテーマだった。 そうか、宇宙から「手放す」という課題が出されたんだ、と私は思った。 私にとって実家で車は絶対必要なもので、それがないとかなり不便。一体どうなるんだろうと考えると不安の影が差したが、これを思い切って手放すということなのか? かなりの思い切りがいる。私は何に執着しているのだろう? 実家にとっては維持費用を支払い続ける負担が減る。レンタカーを借りるには少し遠い駅まで行く必要があり、その分時間と労力がかかり、私にとってさらに重荷が増えるが、それは私が頑張れば良いだけのこと。それもチャレンジであり変化である、と私は自分に言い聞かせた。 チャレンジと変化・・・うん、これはかなりの思い切りが必要。 執着しないということにこだわっていた私は、自分のエゴで決めない、このチャレンジを受けて立つぞ、実家に車があるという考えを手放すぞ、と思いながら、その一方、不安になる考えに対しては、親にとって楽になるのなら私が頑張れば良いだけのことだと、自分自身を説き伏せようとしていた。 そして最後には、「神様が決めたことに従います!」と心の中で叫んだ。 車を処分することに同意すると、母は早速ディーラーに連絡をして、売却する日が決まった。売却は、次に私が実家に行き、用事を済ませて帰る日の数日後に予定されていた。 行く都度レンタカーを借りるというのが楽なのか大変なのかは、やってみないとわからない。実家の車は走行距離も少ないので、思ったより高く売れるということで、それは宇宙がサポートしてくれている、やっぱり処分することになっているのだと私は思った。 実家に到着して、いつものように私は忙しく働いた。3日目くらいの朝、玄関のチャイムが鳴るのでドアを開けると、ディーラーの亀田さんが立っていた。 「あれ?引き取り、今日でした?」と驚いて私が言うと、亀田さんは、「いえいえ、たまたま近くへ来たので、寄ってみました。事前に車をちょっと見せてもらおうと思いまして」と言った。 すると、私の中で何かがピンと鳴り、私はこう言っていた。 「車を売った後、私は毎回レンタカーを借りなければならないんですよ。保険とか車検とかが負担になるので、母はそうして欲しいみたいなんです。車を使うのは毎回1週間弱、2ヶ月に1回程度なので、レンタカーの方が安いでしょうね」 亀田さんは驚いた様子で言った。 「ええっ?そんなに乗るんだったら、レンタカーよりもこの車をキープした方が安いですよ。毎回レンタカー借りるのは面倒だし、大変ですよ。僕だったら、レンタカーにはしないなあ」 その亀田さんの驚いた様子に私も驚いて、ええっ?と思っているちょうどその時、私が誰と話しているのか様子を見に父が居間から出てきて、私の横に来た。 「ねっお父さん、レンタカーの方が高いって亀田さん言ってるよ」と私は言った。言葉が勝手に出ていた。 すると父はいとも簡単に「じゃあ、車は残そう」と言った。 鶴の一声だった。 「えっ?いいの?本当にいいの?」 「うん」 亀田さんは唖然として、「えっ?処分しないんですか?」 「はい、キャンセルします」と父。 私は気が抜けた。 不思議な力を強く感じた。この流れは面白すぎる。 そこには、目に見えないベルトコンベヤーがあった。 亀田さんが実家にやって来た、私が亀田さんに言った、亀田さんが返答した、その時父がそこにやってきていた、私が父に言った、父が答えたというこれらのことが、何にも遮られることなくスムーズに流れていったのだった。 今でもあの時のことを思い出すと、ベルトコンベヤーの存在がはっきりと感じられる。とんとん拍子とは、スムーズに動いているベルトベヤーに乗って抵抗なく自動的に流れていく状態のことで、ああ、それこそが宇宙と一致した流れなのだ。 あの日亀田さんが「たまたま」近くを通りかからなかったら、実家に寄ろうと思わなかったら、そしてその時私が外出していたら(通常その時間は外出していることが多い)、車は間違いなく処分されていただろう。 また、もし私でなく母がドアに出ていたら、こんなスムーズな展開になっていなかったかもしれない。 しかし、それらの事は起こらず、「たまたま」と言いたくなるようなことの方が、当然のように何の抵抗もなく数珠繋ぎに起き、驚くほど短時間で落ち着くところに落ち着いた。 それが私が受け取るべき結果だった。 気の毒に、呆気に取られた亀田さんは、これは一体何だったんだ?という面持ちで帰って行った。 そう、そういうことだった。車は手放さなくて良いというのが、神様・宇宙からの答えだった、と私は受け取った。 手放す必要のあるものは、気づきと共に自然に離れていく。自分の思考で手放そうと覚悟をしたとしても、手放さなくて良いものは残るし、残されるとわかったら、「ふふふ」と笑えてきた。 何も気張ることは最初からなかった。 保険も車検も今でも実家が支払っているが、全く問題ない。問題として上がることさえない。というのも、父と母は、お金の管理はほぼできなくなってしまったからだ。 姉が実家に毎週通って、手伝いをするようになった。姉に確かめたところ、本人には負担になっておらず、人に喜んでもらえることをやれることが嬉しいそうだ。 今でこそはっきり言えるが、「私が頑張りさえすれば良いだけ」という考えこそが、私が手放すべきことだったのだ。 私は、親のためなら死ねると幼い頃から真剣に思っていた奇妙な子供だった。常に親のことが優先で、助けなければならないと50歳を過ぎるまでずっと思い込んできた私が手放すべきことは、この考えだった。 なぜそれほどまでに執着していたのかはわからないが、私にとってそれは強烈で重く、その荷物を背負い続けて来たのだった。 自分の人生を生きて良い。軽くなって良い。 自分が親だったら、子供が親を守り続けるなんて考えをしていたら迷惑な話だよね、と今では思えるようになった。私は介入しないでも良い。頑張らなくて良い。 それを裏付けるかのように、事実は面白いことを教えてくれる。 施設の利用内容を見直したり、ヘルパーさんの訪問回数を増やすなど、少しでも親が楽になるようにとあれこれ私が気を回してお膳立てしても、結局父と母はキャンセルしてしまう。ケアマネージャさんの提案さえも断り、怒らせてしまうことも何度かあった。 とどのつまり、自分達が好きなようにしたいということなのだ。 そうだよなあ、と納得できる。 元々どの施設にいつから通うかも、私がアメリカで網膜剥離になって帰国できない間に、本人たちのところへタイミングよく話が転がり込んで自分達で決めてしまい、私は何もする必要はなかった。 それに、今まで私が無理してやって来たことは、本人たちは記憶に残っていないため、彼らにとっては私は何もしなかったことと同じである。 これまでのことを振り返ると、私は「たまたま」居合わせたタイミングで、家族にとって大事なことには漏れなく関わるようになっており、頭であれこれ考えてお膳立てしたことは、ことごとく必要ではなかったという結果になっている。 なので、必要な時にこそ、私は動かされているし動いており、結果的に必要なことがなされている、ということになる。 整然としているのである。 整って秩序立っているところを、一人で騒いで右往左往しているのは、地平線が見える広い平原に、わざわざ高い塔を建ててしまい、何もないのに、わざわざ困難を作ってそれを乗り越えようと必死になっているようなもの。 そんな人生こそが古く、手放すべきもの。 「無理がなく容易で楽」を意識的に選択して、少しずつ習慣を塗り替えてゆく。 すると、少しずつ、今まで起こっていたことが起こらなくなる。起こったとしても、ポジティブな反応になり、やがて消えていく。 以前の価値観・考え方をベースにした風景には、そこらじゅうに超高層ビルが林立していて、空も見えず息苦しい。 それに対し、無理がなく「容易で楽」の立ち位置から意識を拡張していくと、全体が見渡せる広々とした風景がどこまでも続いている。 流れを遡るのではなく、ゆったりと心地よく大海へと向かって流れていく。 あらら〜、それでいいのね。 ラク〜でいいのね。 「そうそう、最初からそうだったんだけどね。やっと気づいたね」と内側で微笑む自分がいる。
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