「ママ? ママ?」 女の子は、私に言った。 母親は彼女の隣に立っていたが、その子は私を見つめていた。 「ママ?ママなの?」 私の目を覗き込みながら、確かめるように言った。 私が買い物帰りに、宿舎の中庭にある畑に寄った時のことである。そこにその子が母親と一緒にいたので挨拶をしたところ、いきなりそう聞かれたのだった。 私は沈黙のままだった。その後すぐに別の会話に切り替えたので、それはそこで終わってしまったが、後から私の内側から奇妙な感覚が現れた。 通常では知り得なく立証不能な何かが開示される瞬間を、私はこれまで何度か経験しているが、その時、五感を超えた別の領域から独特の感覚がやって来る。 何かの一部が奥の方から顔を覗かせ、頭の中が渦巻き、そこからスルスルと紐解かれて、遠い記憶や近い記憶のかけらがあちらこちらから一気に吸い寄せられ、パズルのピースががっちり合うような、ゾッと鳥肌が立つような瞬間。 「あっ!ひょっとしてこの子の目に映っていたのは!」 そう思うまでに至る道のりがあった。 隣の棟に今年引っ越してきた5歳のAちゃん。中庭で遊ぶのが好きで、私が畑で作業をしていると、必ず来るようになった。Aちゃんは畑の野菜を欲しがり、今では私も気前よくあげるようになったが、実はAちゃんとは否定的な出会いをしている。 最初に出会った時、Aちゃんは父親と一緒にいた。まだ、キュウリがなり始めの初夏のこと。Aちゃんは隣人のTさんと私がいる畑へやって来て、小さいキュウリを何本か石の上に置いて言った。 「白いキュウリ2本と緑のキュウリ1本採った!」 それはチェンおじいちゃんの畑のキュウリだった。おじいちゃんが天塩にかけて育てており、まだまだこれから大きくなる途中のものだったが、Aちゃんが畑から採ってきたのは明らかだった。 隣人のTさんも私も驚いた。近所に小さい子供はたくさん住んでいるが、そのようなことをした子供に今まで出会ったことがなかったので、ショックだっただけでなく、私たちはこのまま放置してはいけないと思った。 「他人のものを許可なく勝手にとってはいけない、という社会ルールを知らないのか、まだきちんとしつけられていないのかもしれない。ここで注意しなければ、この子は採り続けるだろうし、今度は私たちの畑も荒らすだろう」と思った。 私たちもチェンおじいちゃんからもらった種から同じキュウリを育てており、Aちゃんは、私たちのキュウリにも強い関心があった。 Tさんがそばにいた父親に声をかけて注意すると、父親は顔をしかめて言った。「あそこ、耕作放棄地じゃないんですか?」 どう見ても耕作放棄地には見えない。おじちゃんの畑は整然としているのだ。 「お子さんによく言い聞かせてください」というTさんに、父親はそっぽを向いて吐き捨てるように言った。 「わかりました」 不快な空気が漂い、嫌な思いだけが残った。 翌日、中庭でAちゃんの声がしていたので、私は部屋の窓から外を見ると、Aちゃんは母親と一緒だった。 気になったのでしばらく見ていたのだが、Aちゃんは、チェンおじいちゃんの畑の中に入り、キュウリに手を伸ばしたところを母親に注意され、畑から出た。しかし、すぐまた中に入った。 母親が慌てて抱き上げて外に出すと、Aちゃんはものすごい声で泣き叫び、母親が地面に降ろしても泣き続けていた。 その声は、どうしたらあの小さい女の子の体からこの声が出るのだろうと思うほど、びっくりするほどの大声だっただけでなく、子供の高い声とは程遠く、体から絞り出された声は地面から発せられたような太い音で、その異質な音が私の耳に残った。 Aちゃんは泣き終わると、地面に座り込んだまま、じっとキュウリを見ていた。炎天下、帽子もかぶらず、まるで体が固まってしまったかのように長い間全く動かず、キュウリだけを食い入るように見つめているAちゃんの姿に、私は異様なものを感じた。 子供は絶えず動くものだが、Aちゃんは草の上に置かれたお地蔵さんみたいになってしまっていた。 その翌日、私が畑で作業をしていると、またAちゃんが母親と一緒にやってきた。私のそばまで来ると、キュウリがなっている奥まった場所を指差し、採りたそうにしていたが母親に叱られて、しぶしぶ手を引っ込めた。 「欲しかったらおばさんに言ってね、あげるから。でもまだキュウリは小さくてこれからもっと大きくなるから、今はまだ採る時期じゃないねえ」と私が言ったが、Aちゃんからは何の反応もなかった。 Aちゃんは、今度は隣のTさんの畑に移動した。畝が畑の端にあり、地面近くに何本かキュウリがぶら下がっているのだが、そばにしゃがんでじっとそれを見つめていた。その場から動かず、執拗なほどに見つめている姿は、やはり異様に感じられた。 母親はそばにいて、「採っちゃダメよ。見るだけね」と何度も言っていた。 私は畑を離れ、裏にある水道へ水を汲みに行った。水を張った一輪車を押して、中庭の通路をヨタヨタ歩いていると、母親が血相を変えてこちらに向かって走ってきたので、何事かと思った。 「すみません、すみません、すみません!」 「??」 「キュウリを採ってしまいました!」 見ると、もぎとられたキュウリが1本、石の上に置かれていた。それは、Aちゃんがじっと見つめていたキュウリだった。 どうしても我慢できなくて、母親の目を盗んで手を伸ばしたのだろう。 「ごめんなさい!ごめんなさい!」 母親は顔を真っ赤にしていた。そこまで謝らなくていいのにと思うほど、何度も私に謝った。 私は「いいえ、大丈夫ですよ」とは言えず、黙っているわけにもいかなかったし、やはり自分の考えを伝えるべきだと思った。 「こういうことが続くと、こちらとしても困ります」 そう言った時の私の表情が、強かったかもしれない。 母親は、ショックを受けたかのように目を見開いた。その表情は強烈で、私は彼女の反応に驚いた。 母親がAちゃんを抱き上げて激しく叱ると、Aちゃんはものすごい声で泣いた。爆発したような泣き声をすぐそばで聞くと、その凄まじさは半端ない。 その瞬間、気づいた。 あっ、ひょっとして世間でいう「発達障害」の子供? 思いつくことが次々と浮かんできた。 そういえば、Aちゃんとは会話のキャチボールがない。何か質問しても答えは返ってこず、Aちゃんは関係のない自分の頭の中にあることだけを一方的に言葉にする。同じことを何度も繰り返して言うことも多く、認知症の私の母親と話しているみたいだと思うこともあった。 Aちゃんは幼稚園には行っておらず、平日でも父親が付き添っていることが多かった。他の子供達には興味がなく、中庭で一人遊びをし、常に親が後ろから見守っていた。 私は、とんでもない思い違いをしていた。「このくらいの子供なら、これくらいのことを理解していて、こう行動するのが当たり前」だと。 当たり前だという考え方が、自分の中に固定されていた。どこでどう、そうなってしまったのか。 注意されてそっぽを向いた父親は、本当は言いたいことがあったのではないか。目を見開いたが何も言わなかった母親からは、恐怖の感情が感じ取られた。 私は反省した。彼らは、日常でこのような状況に何度も出会っているかもしれない。 この決めつけを捨て、私はAちゃんに対する私の視線や視点をリセットした。リセットは、コツを覚えれば案外簡単である。その考えへ行かないよう「通行止め」にして、ハートに意識を向け続けると、考えは力を失う。 発達障害のひとつに自閉スペクトラム症というものがあるが、「スペクトラム」とは、「境界線や範囲が明確ではない状態が連続しているさまを示すこと」と定義されている。ということは、幅が広い。 範囲は程度であるが、何をもって「ここからが正常でここからは正常ではない」などと言うのか?もともと、正常って何?普通って何? 私の中から、違和感がムクムクと湧いてきた。 私たちは皆ユニークな面を持っているので、それだったら全員が何らかのスペクトラムで、それがどれだけ表に出ているか出ていないかだけのこと、程度の問題に過ぎない、それも個性、と考えた方が心に余裕ができる。 実際、そんな風に考える人が一定数を超えたら、優しくて広がりのある社会になるなあ、と思った。 こうして私がAちゃんへの視点をリセットすると、驚くようなことが起こった。 私の頭の中には、何の脈絡もなく突然何かが浮かび、そこから引っ張られるように次々と記憶やイメージが浮かぶということがあるのだが、リセットしてから数日後、それが起こった。 突然「6」という数字が浮かんで、自分は幼い頃、数字の中では6が一番好きだったことを思い出した。すると次に、東日本大震災発生の翌日に描いた絵が頭に浮かんだ。 あの日、私は居ても立ってもいられず、シアトルの自宅で突き動かされるように絵を描いたのだった。日本に向けたヒーリングの絵を描かなければならない、という強い気持ちがあった。 日本に向けるのだから日本列島が出てきそうなものだが、描けたのは、地球の内部とそれを取り巻く宇宙のエネルギーの絵だった。 感覚だけで描いていったので頭では説明不能だが、地球の中にオタマジャクシのような、数字の6のような形が6つ描かれた。 その絵を思い返しながら数字の6を感じてみると、宇宙的なもの、星のエネルギーを強く感じた。 「ああ、私は子供の頃、自分は6が一番好きだとはっきり認識していたなあ。宇宙図鑑が大好きで、ボロボロになるまで見ていたなあ」と思い出したのだった。 そんな風に6が浮かんだ後、私は野菜を採りに畑へ行った。頭の中には、まだ6の余韻があった。 キュウリを数本収穫し、畑の裏の水道で手を洗っていると、突然向こうからAちゃんが走ってきた。興奮した様子だった。 「わたし、数字の6が好き!」 (私)「!」 「わたし、6が好きなの!6が好き!」 挨拶もせず、そう叫びながら、私の方へ走り寄ってきた。真っ黒に日焼けして、裸足で走ってきた。父親が、ゆっくりと後から歩いてきていた。 私はニッコリして「そうなんだぁ、私も6の数字好きよ」と穏やかに答えた。 Aちゃんは仁王立ちになって、じっとこちらを見ていた。不思議な会話。だけど完璧。二人の間に初めて何かが行き交ったのを感じた。 「Aちゃん、キュウリ好きだよね。たくさん採れたんだけど、欲しい?」と言うと、「うん、欲しい、欲しい」と答えたので、ちょっと曲がった太いキュウリを手渡した。 Aちゃんは嬉しそうに受け取り、小さな手で大事そうに持って、そのままキュウリを鼻に持っていき、目を閉じて思い切り香りを吸い込むと、今度は、目を閉じたまま少し顔を傾けて、弓のように曲がったキュウリを愛おしそうにじっと頬に当て、優しく微笑んだのだった。 「あっ!」 その瞬間、私の内側が震え、音が鳴ると、Aちゃんの体全体から目に見えない粒子のようなものが炸裂して広がった。 「この子・・・」 私は知っていた、この子のことを。 大地から知恵を受け、たくましく生きる、母なる大地の子だったかつての姿が、今のAちゃんと重なった。Aちゃんの真っ黒に日焼けしたがっしりした足は、しっかりと接地しており、いにしえの懐かしいエネルギーが大地から発せられ、Aちゃんを包んでいた。 ああこの感じ、この波動が懐かしい! 静止した空間の中で、私のハートが緩んで広がっていく。 私の目の前にいるAちゃんは5歳の子供ではなく、子供とか人間とかの範囲を超えた力強く大きな存在であった。手の中のキュウリが愛に包まれており、キュウリはこの上なくそれを喜び、Aちゃんが輝いて見えた。 それは、純粋に美しかった! 父親は、少し離れた場所からただじっと全てを見守っていた。 その後も、Aちゃんは頻繁に私の畑へやって来ては、野菜やハーブの名前を言い当てた。まだ苗の大きさであっても、葉の特徴を捉えていてそれが何の野菜であるかを言えるし、ルッコラやローズマリー、バジル、セロリも見ただけですぐに言い当て、香りを楽しんでいた。 Aちゃんは植物に強い関心があり、どこからこの知識が出てくるのだろうと思うほど、よく知っていたが、実際、植物のことになると、スイッチが入ったようにとても積極的になり、雰囲気が変わる。 「ああ、これは彼女の領域だ、彼女の世界だ」 そう思った。 Aちゃんは私を見ると嬉しそうに走ってくるようになり、ほぼ毎日会うようになった。私は父親とも会話をするようになり、父親の表情も次第に柔らかく自然体になっていった。 変化を起こすために、私は何か行動をしたわけでも頭で考えたわけでもなかった。私が意識的にリセットしただけのことだった。 「リセットしたことで次元が開いた」と私のハートは言う。 それは転換点となる。物事が肯定的に目に映り始める。すると、ドミノ倒しのように、肯定的なことの連続になっていく。 それだけでなく、以前あったことはもう起きず、というよりも、それは存在しなかったかのように、新しい現実だけが目の前で起こった。 Aちゃんは私に大きな声できちんと挨拶するようになり、野菜を勝手に採ることはしないだけでなく、採りたいという素振りも見せない。欲しい時は、欲しいとはっきり言うようになった。 欲しいと言った時は、私は快くあげた。バジルの葉を1枚ちぎると、Aちゃんはすぐ鼻に持っていく。子供なら、すぐに飽きたり他ごとに気が移り、地面に捨ててしまったりするものだが、彼女はずっと大事そうに握っていて、家に持ち帰るのだった。 Aちゃんは、いつも裸足で中庭を駆け回っていた。あっちの植物、こっちの植物をチェックする様子は、まるで花から花へと飛び回る蝶のようだ。 「Aちゃんは裸足が好きだね。土がひんやりして気持ちいいね。草も柔らかくて気持ちいいね」 「うん、わたし裸足が好きなの。裸足気持ちいい!裸足好き!」 「Aちゃんは、畑が大好きね。野菜やお花が大好きだね。虫さんとも仲がいいね」 「うん、大好き!」 私は、振り返って後ろに立って見守っていた父親に言った。 「Aちゃんは妖精ちゃんみたいですね」 父親の顔がほころんだ。 「そうなんですよ、この子は特に植物が好きみたいですね」 その声は優しかった。 妖精だなんて、そんな言葉をかけられたら変に思う人も多いだろうが、父親のハートがその瞬間少し開いたのがわかったので、私は自分のハートからの言葉をストレートに言ってみてよかったと思った。 父親は、表情がほころぶ直前までは、娘を護る門番のように構えていた。娘の振る舞いを懸念し、他人からいつどんなことを言われるかと緊張しており、頭の中で色々考えていたようだった。 少なくとも、私に対しては、もう緊張しなくていいとわかってもらえれば嬉しい。 私の畑のキュウリが終わってから1ヶ月ほど経ったある日、Aちゃんと父親が畑にやって来て、「いつももらってばかりなので、どうぞ。今度はこちらから」と言ってキュウリを1本くれた。自分の家の前に、小さな野菜畑を作ったようだった。 「まあ、ありがたい!もううちでは終わってしまったので、ありがたいです」 それからAちゃんとも父親とも会わなくなった。 Aちゃんは秋から幼稚園へ通い始めたと、しばらくして隣人のTさんから聞いた。 この父娘との出会いはキュウリ事件で始まり、私はキュウリをあげて不思議な体験をし、キュウリをもらって終わった。それは、何かひとつの物語が幕を閉じたようであった。 と思いきや、最後にドドーンと大きいのがやってきた。 それはハロウィーンの日だった。 私が買い物帰りに、自分の畑に寄った時のことである。中庭にAちゃんが母親と一緒にいたので挨拶をしたところ、Aちゃんは真面目な顔で私をじっと見つめていた。 「ママ? ママ?」 母親は彼女の隣に立っていたが、Aちゃんは私から目を離さず、探るようにそう言った。 一歩近寄ってきて 「ママ? ママなの?」 と、私の目を覗き込みながら、確かめるように言ったのだった。 その時は黙ったままだったが、私はどこか遠いところでドアを叩かれているような感触があった。 今、私は心の中でそっと言う。 「わかってるよ。はるか彼方のあの星のときから知ってるよ」 日常が気づきと癒しと共にシフトし、豊かさを増していく。 今生きているこの世界は薄っぺらではなく、多くの層に包まれて、息づくように躍動しながら常に次へ、次へと展開していくのである。 そうやって加速して拡大していく日常での体験自体が、今までと異なる次元へと移行する中で、宇宙の流れと共に、現実はますます多次元的な色を帯びていく。
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「この光は情報であり知性である」 それはどんな情報なのだろう?とは思ったが、頭でわかるものではない。無理に何かをするのは違う。スペースを与えておけば、必要なものはやってくる。 結局、それでよかった。その後、滞在中に具体的な形となって現れ、クリアーなメッセージとなった。 それは、世界各地で起こっている混沌とした状況を超える意識を指し示していた。 結論から言おう。 共通の善(深い部分で私たちが求めるもの)に向かって、互いに尊重し合い、手を取り合い、一緒に取り組む(創造する)喜びを共に分かち合う意識。 それは最初からあり、本来難しいことではないのに、世界で起こっていることを見ていればその逆で、負のエネルギーが際立ってきていることも明らかである。 メッセージは、この大地で起こった過去の出来事から発せられており、私はアメリカに滞在中に3つのものを見せられた。 <1. 燃える川> 今回、義母と義姉家族が2年前に転居したオハイオ州アクロン市に滞在した。私は、オハイオ州を訪ねるのは生まれて初めてなのだが、日本を出る前に、既に予感がしていた。 以前タッチドローイングで描いた、ある特定のサポートする存在の顔が頭に何度も浮かび、その存在のエネルギーが私の内側で強まっていた。そして、その顔と共に、目の前に広がる平原や木々のイメージが浮かんでいた。 この存在は過去の私であり、特に今回、私を導いていることを感じ取った。 実際、義姉の家に到着すると、その土地はイメージに浮かんだ風景と似ていた。周辺の自然のエネルギーが懐かしく、私の奥深くが喜んでいるのがわかった。 3泊4日で移動時間を除くと、正味2日の滞在。後で振り返るとその2日の間に、よくもまあきっちり組み込まれたものだと感心してしまうほど、必要なものが与えられた。 それは、こんな形でやって来た。 「カヤホガバレー観光列車の旅」を義母が予約し、私が到着した翌日にスケジュールが組まれていた。それは2時間ほどの乗車で、車窓からの風景を楽しむというものだった。 雄大な自然を楽しめるのかと思っていた私の期待は大きく外れ、列車は西部とは異なるなだらかな平地を流れるカヤホガ川に沿って走り、五大湖のエリー湖近くの終点で折り返す、というものだった。 線路にあった倒木を除去する作業で出発が2時間遅れて(これがとてもアメリカ的!)駅に入ってきた列車は古く、時速20キロほどの速度で進む。観光列車というと、窓が大きなワイドビューを想像しがちだが、古いからか窓が曇っていて、景色がはっきり見えない。 乗車の前日に夫が「明日、カヤホガ川に沿って走るトレインツアーに行く」と言った時、川の名前は英語ではなく、先住民が名付けたものだと思った私の直感は当たった。カヤホガとは、先住民の言葉で「曲がりくねった」という意味だという。 出発してから数十分後、川岸でカヌーを背負った先住民の男性の銅像が目に飛び込んできた。車内のツアーガイドによると、エリー湖へ注ぐその川は、かつてカヌーでの往来が盛んで、自然が豊かだったそうだ。 しかし、その場所はその後豹変した。下流部は流れが穏やかなこともあり、船舶の航行が可能であるため運河が設けられ、沿川には工業が発達し、多くの工場が設立された。 アクロン市は、「世界のゴムの都」と呼ばれており、グッドイヤー、ファイアストン、ゼネラルタイヤに代表されるタイヤ製造業が盛んとなった。 工場からの汚染物の排出に対する規制が全くない時代。日本でいうと水俣を思い出させるが、汚染はそれよりもはるかに酷いものだった。 工場から排出された廃油などが何かのきっかけで発火して、1800年後半から100年の間に火災が13回発生した。川が燃えるのである。 1969年に起きた火災はタイム誌で取り上げられ、同誌では「カヤホガ川は米国で最も水質が汚染されている」と紹介するとともに、「ここで溺れることはない、融けてなくなってしまう」という地元住民の冗談も紹介したという。 この話をするツアーガイドが、さらにこう言った。 「水質は想像を絶するもので、ここで初めて環境保全という考えが生まれたのです。民主党と共和党が手を取り合って、環境保護庁を設立した。対立し合うのではなく、環境を守ろうという共通の目的で、力を合わせたのです」 この時、私のハートの奥でピン!という音がした。その話を聞いていた人たちも、「民主党と共和党が手を取り合って」というところで、目を見開いて反応していた。 非難し、対立し合っている場合ではない。二党制、与党と野党など、二つに分かれて互いに非難し対立するだけの中から、人類共通の善なるものが創造されるわけがない。 なんと馬鹿げたことだろう。なんと未熟なのだろう。 人間は、極限までいかないと変わらないのだろうか? そのような分断、対立、争いのエネルギーと混乱の波が世界各地を覆い、激化している。しかし、そこで忘れてはいけないことがある。 自分もこの地球の住人の一人であり、それを引き起こしているあらゆる要素から、自分を引き離すことはできない。なぜならば、気づかないだけで、それらは集合意識として今の自分を構成している一部となっているからだ。 私たちの中に深く染み込んでおり、日常の中で無意識にそれをやっている、ということに気づくことから始まる。家族の中で、職場で、地域で。それは外にない、ひとりひとりの中にある。 カヤホガ川に自然が戻ったのは、まだ最近のことだ。70年近く姿を消していた白頭鷲を最初に発見したのは、2006年とのこと。そこから、生き物たちが確実に戻りつつある。 私にとって、この列車の旅は単なる列車の旅ではなかった。経済優先と自然破壊という形で見せられた過去の一例は、メッセージだった。 よりよく生きたい、と思っているのに、近視眼的なものの考え方や振る舞いがもたらす破壊から抜け出せないで来たのは、意識が変わらないため。 しかし今、新しい方向性、新しい意識が変化の波となって、私たちを内側から押し出す力が強まっている。 <2. 栄華の世界> 翌日待っていたのは、広大な敷地と栄華を極めた大豪邸のツアーだった。英語では「エステート」という言葉が使われ、国の歴史的建造物に指定されている。 そこはアクロン市の観光スポットにもなっており、義姉が遠方からの来客のためにと、年間パスポートを持っていたので、夫と私も利用させてもらった。 グッドイヤータイヤ社の共同創業者フランク・A・セイバリング氏の屋敷である。敷地は東京ドーム130個に相当し、1910年代に建てられたチューダー式の屋敷の面積は、5,990 平方メートル。日本のお城のようなものなのか?ちょっと想像できないスケール。 音楽堂、室内プール、40席確保できるダイニングルームは、スケールも豪華さも際立っていた。有名歌手や音楽家、ダンサーなどが全国から招かれ、パフォーマンスを披露したという音楽堂には、壁にパイプオルガンが埋め込まれ、大理石で作られたプールは家族全員が楽しめるように、場所によって深さが異なっていた。 富と繁栄・栄華の世界と、死にゆくカヤホガ川。それは、あまりにも対照的だった。 虚しかった。 「地球に降りかかることは、地球のすべての子どもたちに降りかかる。大地は人間のものではなく、人間は大地のものなのだ」 シアトル酋長の言葉が響く。 オハイオ訪問の目的は義母に会うことだったが、それ以外にもあることは、日本を出発する前から薄々感じていたが、これだったか、と思った。アクロン市で見せられたものは、私にとっては意味あるメッセージだった。 だが、それで終わりではなかった。 <3. 酋長の墓にて> オハイオから友人宅に戻り、日本に帰る2日前のこと。 ダイニングルームで友人とお茶を飲みながら話をしていると、突然、友人が「明日チーフ・シアトルの墓へ行こう!」と言い出した。 「なんか突然浮かんだのよ〜。順子さん、今行くときみたい。一緒に行こう!」 20年住んだ間に一度も訪れなかった機会が、その時突然やってきた。 チーフ・シアトル(1786年-1866年)は、その地域に居住していたスクワミッシュ族とドゥワミッシュ族の長であり、シアトルという市名は、チーフ・シアルス(シアトル)の名にちなんで付けられた。 墓は、シアトルの街から湾を隔てた島にあり、友人が車を運転し、フェリーで渡ることにした。 フェリーで出発するときにダウンタウンには霧がかかり始めていたが、エリオット湾を進むにつれて霧が濃くなり、視界が遮られた。 海の上に広がる霧を見つめていると、そこから異次元の空間が現れ、先住民の魂がそこに集まってきているのを私は感じ取った。 やがて、霧が晴れ始め、反射した光が薄い虹色の弧となって目の前に現れた。友人と私は、黙ってそれを見つめていた。 「私たちは祝福されている、招かれている」と思った。 島に到着すると、これ以上ないというほどの青空が広がっていた。この地域は雨や曇りが多く、9月の終盤となると空は灰色の雲に覆われ寒いのだが、この日は朝から夏のような気温になっていた。 墓に到着して車から降りた瞬間、涙が出た。ほんの一瞬、奥深くから押し出されるような感情があったが、すぐに消えた。それは悲しみではなく、私のハートだけが知っている酋長への敬意のようなものだった。 墓の中央には白い十字架があり、それを挟むように二本のトーテムポールが立っていた。 それは異様な光景だろう。先住民の中には、腹を立てる人が多いかもしれない。「コロンブスが来た時に、全ての悲劇が始まった」という言葉を何度か耳にしたことがあるが、彼らの怒りと恨みは根深い。
以前の私がここを訪れていたら、私も不快に思ったことだろう。 しかし今、チーフ・シアトルのスピリットに意識を向けると、私が感じ取ったのものは、そういったレベルを超えていた。 トーテムポールと十字架がそこに並び、真っ青な空を仰いでいるように、そこには過去の出来事にまつわる否定的な感情はなく、こだわりがなく、全てを包み込んでいた。 (日本に帰国してから知ったことだが、チーフ・シアトルはのちにフランスの宣教師によってキリスト教に改宗し、ローマ・カトリック教会で洗礼を受けた)。 異なる信条、あらゆる異なるものがそのまま存在し、互いを尊重し合い、ひとつに溶け合う。私はそれを空間に感じた。それは、やがて来る未来へと続いていた。 空を見つめた。上へ上がれば上がるほど、視界が広がる。視界が広がれば、小さな違いにフォーカスはされず、違いが吸い込まれてひとつになっていくような感覚になる。 ひとつになった時、眼下には地平線が果てしなく広がる。 私たちは、その地平線上に生きている。 「生きとし生けるものがひとつの家族であり、空気にも海にも木々にも丘にも、足が触れるその大地にも、あらゆるものに祖先の魂が宿り、眼差しが満ちている。私たちは決して孤独にはならない」 チーフ・シアトルの墓から伝わってきた。 それぞれ違っている。違っているのが当たり前。しかし、違っていても、結局みんな同じ。それは人間だけではない。生きとし生けるものに上も下もなく、みんな等しく、全てが繋がっている。 その感覚は、決して外から得られるものではない。内側からのみ感じられ、それを理解した時、その繋がりの中に溢れる豊かさを見出だす。そこには恐れはなく、愛が満ちている。 その豊かさは経済の繁栄とは違うもの、金銭では得られないもの、減るものではなく拡大するもの。そこには恐れはなく、愛が満ちていることを知るだろう。 その豊かさから生み出されるものには、喜びに満ちた可能性が潜んでおり、その未来を選択する意志がその未来を創造する。 救世主は自分の中に存在する。 <終わり> |
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私の体験談やエピソード、日々の中で感じたことなどを画像を交え、多次元的な感覚で縦横無尽に語ります。 アーカイブ
1月 2025
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