前回(1)のストーリーはこちら 普段、私はサポートする存在の絵を描いているが、それは相手から感じとる微細なエネルギーを主に顔の形として表現するもので、相手に意識をフォーカスする。 今回は、夢で見た映像、つまり私の記憶から始めてみるということで、初めての試みだった。 なにしろ初めてのことなので、そこからどんなものが出現するのか興味があった。しかも、直感から思いついたことをやってみる、特に今までやったことがないことをやってみる、というのは、何がどうなるかわからないからこそ面白い。 紙を置いて、まず、夢で見た椅子に座っている影のような姿を大雑把に描いてみた。 そう、夢で突然モードが切り替わり、こんな風に現れたのだった。 距離があったので顔ははっきりしていなかったが、おばあちゃんだった。
トップにボリュームを持たせた髪が印象的だったので、まずそこから描き始めると、眉や鼻の形が浮かんできた。描き終わって紙を裏返してみると(それが表になるのだが)、意外にも若い女性の顔だったので、これはどうしたことか!と思った。 その反応は、自分が見たものとは違うじゃないか!という単純な思考からのものだった。 でも指には知性があり、ハートと直結している。 「待てよ、指は若い頃のミセス・ダバーを描いたのか?」と思い、では次はどうなるかと、もう一枚紙を用意した。 しかし、自分が見た夢の記憶から詳細を探ろうとすると、指が抵抗してどうしても描けない。夢で見たばかりに、それにこだわろうとしている自分がいた。思考を捨てろ!という声が内側から聞こえる。 髪の上部を丸く描いたところで手が止まり、苦しくなってきた。正確に描かなければとか、きちんとしたものにしなければとか、余計な考えが邪魔をしていた。 あっちへ引っ張られ、こっちへ引っ張られ、そんな風に思考とハートが綱引きをしているとき、これは結構苦しいのである。 「う〜ん、ええい!もうどうでもよい!」と思ったところで、スルスルと指が動き出した。大胆にデタラメに動き、そんな動きをすると変なラインが入ってしまうと焦る。でも、失敗したら描き直せば良いだけだと自分に言い聞かせ、紙の上を滑らかに指が動くに任せた。 眉や鼻は、1枚前に描いたものと同じような形のものが浮かび上がってきた。ほぼ描き終わったところで裏返し、前に描いた絵の横に置いてみると、若い頃の彼女と年老いた彼女のようであると思った。 2つの絵を見比べながら、次第に後の絵だけへと視線が移り、そこでぼーっと眺めていると、なぜかボロボロと涙がこぼれてきて、胸に何かが込み上げてくるのだった。 それが何なのか頭では理解できないが、明らかにハートが何かを感じていた。深いレベルで感じるとは、そういうものなのである。 ただ感じれば良い。言葉はいらない。 次に、また前の絵へと視線が動くと、懐かしいような感覚が浮上して、若い頃の彼女ではなく、彼女の娘なのではないか?という気がしてきた。すると、その娘は私なのではないか?という突拍子もない考えが浮かんで驚いたが、それは全く見当違いのことでもない気がしてきた。 それもあり得るのかも・・・。 「あり得ない」に意識をフォーカスするとそこで終わってしまい、そこからは何も生じない。しかし「あり得る」にフォーカスすると、扉が開く感覚があり、そこから母娘の絆のようなものがサーっと押し寄せてきて、ハートに広がる。その瞬間、今の夫と妻という関係に別の層が重なる。 すると、また出会って今ここに一緒にいること自体が奇跡であると感じられ、喜びと共に自然と感謝の気持ちが溢れ出る。その感覚は頭ではなく、ハートから湧き起こる。 そうなると、私が認識している夫という存在に違ったスペースができ、そこがエネルギーで満たされる。そのエネルギーとは、私の相手に対する以前とは違った意識なのである。 娘だなんて、それは私の全く勝手な想像なのかもしれない。しかし、「あり得る」にフォーカスするとハートが温かくなり、より「今」にフォーカスでき、夫に対して寛容になり、優しい視線を向けられるのである。では、そう思った方がお互いにとって得ではないか(苦笑)。 以前ダバーという名前をインターネットで検索してみたら、存在すると言ったが、アイルランドかスコットランドか、ひょっとしたら何かヒントがあるかもしれないと思った。 世にはさまざまなものがあり、インターネットでほぼ何でも探せる時代。 苗字の由来や先祖を見つけるサイトというものが、あるのである! 保管されている移民記録にもアクセスできる。夢で見たミセス・ダバーは移民ではないが、アメリカへの入国記録から苗字について何かヒントを得られるかもしれないと思った。 実際、以前夫の苗字で探ってみたことがあり、プエルトリコに最初に入国した先祖?(同名の人)の記録が出てきた。先祖はスペインからプエルトリコへ入ったと義父から話で聞いていたので、私は驚いたのを覚えている。 そんなわけで、興味本位で ”Dubber” と入れてみると検索に引っかかるので、さらに詳細検索で国名アイルランドを選択してみた。結果はゼロ。スコットランドでやってみると引っかかる。 「もちろん、アイルランドからの移民情報がないだけで、その国にダバーという名前が存在しないということではないから意味がない」と思ったが、私の左上部から「スコット」と一言来た。 あらあら、そういえば夫のミドルネームはスコットだった。「だからって、そんなことあり得る〜?」と思ったら、「名前は全て、偶然でつけられているのではない」と来た。 確かに、以前同じことを沖縄の神人さんが言っていたのを思い出した。 そうなんだろうけれど、ほんとかなあ。 私は、夫のミドルネームは本人にしっくりこないとずっと思ってきた。違和感を感じ続けてきたのは、私の中で「Scott」という音と綴りから伝統的なイギリスのイメージがあり、それが夫の風貌とかけ離れているからなのだろうか。 まあ、それはどうでも良い。元々ミセス・ダバーが存在したこと、夫の過去世のひとつだったこと、スコットランドの人だったこと、それら全てが私の勝手な想像かもしれない。 ただ、あり得るとして受け入れると、見る世界が重層的になり、断然面白くなる。私たちは霊的で多次元的な存在であり、この肉体にさまざまなエネルギーが混じりあっていると私は思っているし、日常の中でそう感じることがますます多くなってきている。 例えば、相手が何か特定のトピックで話している時など、顔や雰囲気が変わったりすることがある。実際、見ている顔が突然ぐわ〜んと変化して、別人の顔が浮き上がったことが何度かあるが、それが今のその人を別の角度からよりよく理解できる情報であったりして、妙に納得してしまうのだ。 私も自分の内から「あっ、今この人が出てきて話してるな」とか「この人が歌ってるな」と感じることが多々ある。この人、何を表現したいのかな?と思うと、もっと言いたいこと、やりたいことが出てきたりする。 それは、結局今の自分をサポートしている存在(エネルギー)でもあり、自分の一部ということになる。自分にはさまざまな面があり、さまざまなエネルギーが混在していると理解するとどうだろう?もっと自分というものを知りたくなるのでは? 感覚が開いてくるにつれ、物事を見る視点も認識も新しいものに次々と塗り替えられていくのだろう。閉ざされていたものが、新しい理解と共に、より開かれていく方向へと向かっていく。 話が脱線してしまったが、ミセス・ダバーの絵を夫に見せてみようと思う。 そして、額に入れてキッチンに飾ろうと、密かに考えているのである。
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昨年の12月に、夫がパンを焼きたいと言い、オーブンを買った。 実は以前から焼きたかったが、台所が狭くて使用できるワット数にも制限があるため、我慢していたそうだが、さすがに10年目にして限界に来たのだった。 シアトルに住んでいた時、夫はコーンブレッドやフランスパンを焼いたこともあったが、たまのことだったので、まさかそんなにベーキングが好きだとは私は夢にも思わなかった。 うちには既にオーブンレンジはあり、食品を温めるためだけに使っていたが、マニュアルを見るとベーキングもできることが書いてある。実際、数年前にアメリカから訪れた夫の叔母がパイを焼きたいと言い、そのオーブレンジを使ってみたが、焼き色がつかなかった。 そのことも、きちんとしたオーブンを買いたいという気持ちを駆り立てる要因になっていた。 とはいえ、日本のオーブン事情など、私たちには皆目見当もつかない。アメリカでは、賃貸であってもよほど小さなアパートでない限り、オーブンはキッチンに必ずフルサイズのものが備わっている。 日本の通常のオーブンの4倍くらい、またはそれ以上あるが、機能は至ってシンプルだ。それしか知らない私たちには、日本でコンパクトにまとめられた多機能のオーブンを買うのは、ちょっとした冒険であった。 クリスマス前、ケーズデンキのオーブンセクションに行ってみると、値段も機能もさまざまなものが並んでいて、私たちだけでは混乱してしまい、決められそうになかった。 ところが、すぐそばに女性店員が立っており、私たちに「オーブンをお探しですか?」と声をかけてきた。 「はい」 「オーブンで何を作りたいのですか?」 「パンを焼きたいんです」 ストレートな質問に、ストレートに答えた。声をかけられたタイミングといい、商品の説明といい、これはもう、宇宙がサポートしてくれているとしか言いようのない流れだった。 いとも簡単に決まった。天井がカーブしており、通常のタイプにはない350度までOKという「石窯ドーム」を売りにしたものは高価ではあったが、パン焼きには最も適しているということで、買って家に持ち帰った。 それから約1年。その間、夫は実に30回以上パンを焼いた。 自分が持っていた過去のレシピから始まり、最近では youtube でいいなと思ったものを試している。 ベーキング用品も徐々に揃い、回を重ねるうちに腕も上がってきた。寝る前に仕込んで、早朝に焼く日も増えた。そんなある日、楽しそうにパン作りをする夫の姿を見ていると、ふと、過去に見た映像が浮かんできた。 もう十数年前にもなるが、ある日私は夢を見た。というか、「見せられた」という方がしっくりくる。 寝ていたら、突然スイッチが切り替わるようにモードが変わり、目の前に映像が現れた。 それは通常のごちゃごちゃした内容の夢とは違う類いのもので、今でもクリアーかつ正確に思い出せるほど強烈な印象を与えるものだった。というのも、単一の静止映像で、場面が変わらないものだったからだ。 一人の女性が椅子に座っていた。写真館で撮るときのように、背景はブルーグレーである。それ以外には何もない。まるでポートレイト写真のようだ。 白髪に近いグレーの髪を、トップにボリュームを持たせて後ろで束ねた、70代くらいのぽっちゃりとした女性。灰色のドレスを着ており、それは今の時代ではないことが伝わってくる。 それを見るなり、「あっ〇〇(夫の名前)!」という声がした。それは外から入ってきたのか私の内側から出たのかはっきりしないが、確かに自分の声だった。 寝ている私はその声を聞いて、「もちろんそう、疑う余地もなくその通り」と納得しているから不思議である。 少し遠めなので詳細は見えないが、服装から18という数字が浮かび上がり、18世紀なのか1800年代なのか。アイルランドかスコットランドの人っぽく、なぜだかわからないがイングランドではないと強く感じた。 私にはアイルランドもスコットランドも馴染みがなく、特に知りたいとも思わなかったので、それっぽいというだけで十分だった。 ただ「名前は?」と思った瞬間、「だ・ば・あ」という音と共に、綴りが頭の中に入ってきた。 D・U ・B・B・E・R ダバーという苗字の女性が、ロッキングチェアーのような(?)椅子に座り、こちらを向いている。刺繍なのか縫い物なのか、何かの手仕事をしており、手を止めて顔を上げた時の姿を私は見せてもらった格好になった。 料理をするのが好きで、家事の大ベテラン。いつも何やら手を動かしていて、作ることが好きだというのが伝わってきた。 その映像が消え、目が覚めてから思った。 「Dubberって初めて聞く名前と綴りだけど、そんな名前存在するのだろうか?しかもアイルランドかスコットランドで・・・」そんな名前を思いつくこと自体不可能なので、私が勝手に作り出したとは考えにくい。 インターネットで検索してみると、その名前は存在する。その時はそれで十分だった。 ミセス・ダバーは今の夫とは性が違い、ヨーロッパで時代も古く、年齢もかなり差があった。私は十数年前に突然夢で見せられて、その時はなぜそんなものを見たのか意味不明で、夫にどう関係しているのかなど全くわからなかったし、ほぼ忘れていた。 ところが、夫のパン焼きへの意欲が強まるにつれ、私の中で彼女が再び蘇ってきたのだった。 そして、そこから芋づる式に過去の出来事が次々と浮かんできた。 夫は昔から店で服を買うことには興味がなく、入ろうものならソワソワしてすぐに出たがり、イライラして怒ることもあった。よほど店での買い物が嫌いなのかと思ったが、キッチン用品や古い家具・調度品に限っては見るのが好きで、やたらと店を覗きたがる。 入ると興奮して楽しそうに色々見始め、長時間いても平気で、私は不思議に思った。キッチン用品をあれこれ見て楽しそうにしている夫の姿は、なんだか作るところを想像しながら楽しんでいるオバさんみたいだなと思ったものだった。 サンディエゴで結婚したとき、夫はシングル時代からのキッチン用品が既に多数あったので、私は新しく買う必要はなかった。その時も、こんな小物まで持っていて、オバさんみたいだなと思ったのだった。 その後シアトルに移ってからは、夏にベリー狩りに行き、ジャム作りにのめり込んだ。夫は瓶の選び方、煮沸消毒、真空の仕方などきちんとした行程を全て知っていて、私は驚いた。 ブルーベリー、ブラックベリー、マリオンベリーなど、ベリー狩りに行くと、面白くてバケツ2杯、重さにして10キロほど採ってしまう。真夏の夜中近くまでジャム作りの作業をするのだが、ジャムを煮詰める火と蒸気で高温になったキッチンで、エプロンをして汗だくになりながらも、楽しそうに手際よく20本ほど仕上げていく夫の姿は、私の目にはオバさんにしか写らなかった。 「オバさん、オバさん」と何度も言っているが、キッチンで何かを作っている夫から醸し出されるエネルギーは、私の頭には、家事に長けた有能な中年女性を思わせるのであった。 夫に、子供の頃母親がそのように色々作ったのかと尋ねたら、そうでもないようで、「どうしてそんなに好きなの?」と聞くと、「自分でもわからないけれど好きなんだよねえ」と言った。 これらのことを次々と思い出し、私にはどうもミセス・ダバーの特徴が出てきているように思えて仕方なかったので、冗談っぽく夫に夢の話をした。 「何バカなこと言ってるの?」とか、「ま〜た、変なことを言い始めた」、「ナンセンス!」とか言いそうなものだが、夫はじっと黙って聞いていた。無視するわけでもなく、聞き流しているという風でもなく、何も言わないが、否定はしていない様子だった。 これは意外な反応だった。 ある日、夫は作ることが楽しくて仕方ないと言った。新しいレシピに挑戦したいと次々と焼くので、冷蔵庫の中がパンでいっぱいになる。私は、夫の中でクリエイティブなエネルギーが急激に高まって、溢れ出しているのを感じずにはいられなかった。これは、圧倒的なデスクワーク型・思考タイプの夫から、今まで感じたことのない新しいエネルギーだった。 秋頃になると、夫はパンの仕込みが終わった後に、突然、勢いよく両手を前に突き出し、掌を上に向けて激しく揺らしながら「これはすごいことなんだ。なんて素晴らしい!この手から生み出されるんだ〜、この手から〜!!」と、頬を紅潮させ興奮した様子で叫んだ。 そんな風にジェスチャーで表現するなんて、それまで見たことがなかったので、一瞬驚いたが、それほどこの新しい創造エネルギーが溢れてきていたのだった。 手から生み出される。それは、私自身がタッチドローイングを通して感じることでもあり、自分の手から何かが創り出されるとき、喜びが溢れる。人間の手は創造するために与えられていると、私は強く思う。 その「創造する手」に感動している夫の中で、ミセス・ダバーが微笑んでいるように感じられた。私の勝手な想像かもしれないが、そう思えてならないのだ。 パンを焼いているところで夫にミセス・ダバーの名前を出すと、ニヤニヤするようになった。 最近は、夢中になっている夫の後ろから 「ミセス・ダバー全開になってない?」 と冗談ぽく声をかけると、夫はこちらを向いてニコッと笑う。 一度も否定しないし、それどころかそう言われて嬉しそうで、夫の中からフワッと何かが出てくるような感じさえ受け取った。 そんな時、ふと、ミセス・ダバーをタッチドローイングで描いてみようと思いついた。 <続きはこちら> コロナ前、まだスポーツジムへ通っていた時のこと。
新聞や雑誌を開くと、広告にやたらと目立つ言葉があった。それは「お悩み」という言葉。「お悩み解決」「あなたのお悩み」「〇〇にお悩みのあなたに」などなど。一体いくつ見ただろう。 おまけにテレビのニュースでは、アイデア商品の紹介で「〇〇にお悩みだった△△さんは・・・」と始まり、1つのストーリーの中で何度も「お悩み」という言葉が使われていた。別に悩むほどのことではない、ほんの些細なことがテーマだったが。 それにしても、この言葉ブームなの?と思うほど、巷に「お悩み」という言葉が溢れていた。 私が通っていたジムも然り。 「お悩み解消」という文言とともに、痩身プログラム、スキンケア商品、サプリメントなどの販売情報が壁の至るところに貼られていた。 ふーん、悩んでるの?そんなことで悩むの? そんなある日、ジムのトイレのドアに貼ってある、「誕生月の方はマッサージ半額」という広告に目が留まった。ちょうど私の誕生月でもあり、しかも実家から戻ってクタクタになっていたので、すぐに予約して行ってみた。 ジムに併設のサロンはちょっと高級な感じで、ドアの入り口でスタッフが笑顔で迎えてくれた。 まず、簡単な問診票のようなものを渡された。マッサージを受ける理由の項目があり、該当するものにチェックマークを入れるようになっていた。 腰が痛い、肩が凝っている、首が硬い、疲労感がある、筋肉痛、頭が重い、リラックス 私がチェックしたのはこれらで、項目の80%くらいを占めていた。 私の家から実家へ行くには、地下鉄、電車、飛行機、電車、乗り換えてまた電車、そして最後はタクシーで、移動だけで数時間ほどかかる。当時は1〜2ヶ月おきに数日滞在するというパターンで、行けば、今しかない!と、休む間もなく動き続けていた。 料理、掃除、洗濯、買い物、母の通院の付き添い、片付け(物のない時代を生きてきた世代、壊れていても捨てられずに何十年も置いてあるものなど、とにかくモノが多い)、家具などの粗大ゴミ出し、庭の草抜きなど、私が一手に引き受けるが、少しでも整えたいと頑張り過ぎてしまうので、かなり体に負担がかかる。 おまけに、感情が不安定でネガティブに偏る傾向にある母の話を聴くのは、精神的にかなりキツイ。 これらのことをかなりきっちり真面目にやっていた私は、実家にいてもくつろげないのもあって、動きづめに動いてしまい、実家から戻ると体も心もかなり疲れた状態になっていた。なので、リフレッシュが必要だった。 腰が痛い、肩が凝っている、首が硬い、疲労感がある、筋肉痛、頭が重い、リラックス 問診票を受け取るや否やスタッフの人は、「まあ、随分お悩みが多いんですね!」と言った。 「いえ、悩んではいません」と私はクールに返した。 「・・・・」(相手は無言) 悩んでなどいなかった。それは、寒い日に外で冷え切ってしまった体を風呂に入ってゆるめて、じんわ〜りほっこり心地よくなりたいと思うように、働きづめで疲労した肉体をマッサージで癒して、スッキリ気持ち良くなりたかっただけである。 スタッフは受付デスクへと私を案内し、問診票を受付係に渡した。 それを見た受付係は、項目に目を通しながら、「あら〜、お悩み7つもあるんですか!」と驚いたように言った。 「いえ、悩んではいません・・・」 「・・・・」(またしても相手は無言) 悩みという言葉の意味は「思い煩い苦しむ」である。私はただ肉体に症状があるだけで、苦しんではいなかった。それに、これらの症状は体を休めればなくなる。 あるものはただあるだけのことで、そこにわざわざ思考や意識を向けて自分で作り出さない限り、悩み・苦しみというものはない。 「お悩み、お悩みってしつこいなあ」 内心そう思ったが、私は何も言わなかった。 部屋に通され、感じの良いマッサージセラピストがやって来て挨拶をした。 そして、問診票を見て言った。 「お悩み、@#*@$&」 お悩みの後の言葉は頭に入ってこなかった。 イラッと来た。「そんなに悩みにしたいんかぁぁぁ!!」と内心叫んだが、サラリと「はい、そのような症状はありますが、悩んでいません」とだけ言った。 またしても無言だけが返ってきた。 通じているのかいないのか。 マッサージが始まると、体が不快感を感じ始めた。 何やらベタッとするものに、体が嫌だと言っていた。 「あの〜、そのオイルはどんなものですか?」 当店自慢の、というような声で「はい、こーぶつけーミネラルです!」と返ってきた。 その音の響きはショックだった。 「精油とか植物オイルはないのですか?マッサージは当然植物オイルだと思っていました。私はマッサージは植物オイルでしか受けたことがないので、それでお願いします」 「えっ植物オイル?植物オイルは料金が高くなりますが・・・よろしいですか?」 「もちろん構いません!」 背中に塗ったオイルを拭き取り、精油を入れたオイルに変更してもらって、ホッとした。その後は順調だった。 最後に、セラピストが言った。 「他にお悩みの箇所はありますか?」 もうこうなると笑えてくる。 「・・・ありません」 ということで、お悩みという言葉を連発され、違和感を感じながら、チグハグな時間を過ごした感が残った体験だった。 日本中に溢れていたこの「お悩み」という言葉、今はあまり目にしない。 と思って今日の新聞広告を見てみたら、キャッチフレーズにこそなってはいないが、いやいやまだ数件あった。 新型コロナ流行の初期の頃、テレビのニュースでは「不安」という言葉が異常なほど連発されていた。 コロナ以外の内容でも、ストーリーの中に不安という言葉が織り込まれており、受身的に聴いていたら、気づかぬ間に脳内にプログラムされてしまい、その不安のエネルギーの中にどっぷり浸かってしまうだろうほど、しつこく使われていた。 30分間の放送で何度この言葉が使われるだろうか数えようとしたほどだったが、内容のトーンやエネルギーに嫌気がさした。 メディアが煽っている、悪意がある、陰謀だ、という声もあるが、私はそこには興味がない。貴重なエネルギーは、もっと別なところに使いたい。 ただ、今は本当にさまざまなものが表面化しているので、やはり自分の頭で考えて自分自身の舵をとっていないと、混乱するだろうなと思う。 不安もお悩みも存在し(いや蔓延している)、そこに意識を向けて問題視したとき、それは人の心の中で何倍にも力を増す。 それを認識して、そこに足を突っ込むことなく眺めることができたら楽になる。 が、これからはそこからさらに一歩進んで、「私にはもうこれは必要ない」と決めると、実際にそれが減少し始め、気づくとそれがなくなっている現実へとシフトしていくのではないかと感じ始めた。実際、個人的な経験から、どうやらそうなって行っているように思える。 この「そうなって行っているように思える」と思うことは大切で、ある時「もしかしたら、ひょっとして」程度で始まっても、それが「どうもそうみたい」から次第に「やっぱりそうみたい」、さらに「間違いなくそうなのだ」へとシフトしていく。 自分にはもうこれは必要ない、これはいらない、と決めると何かが動き出す。そのような新しい流れの中に身を置くことを選択するとき、自分が体験する現実の中で、今までとは違った質の面白さや喜びが始まるのではないだろうか。 誕生日を過ぎた頃からか、以前描いたある存在の顔が、何度も何度も頭に浮かんでいた。 1年以上ずっと本棚の隅にしまい込んであったのだが、あまりにもしつこく浮かんでくるので、これは放っておけなくなった。 大抵わずかな気配で始まり、それに気づいているが「いや、まだまだ〜」と、その程度では動かないのが私のパターンで、この時も素知らぬフリをしていた。 しかし、気配は次第に強くなり、内側で膨らみ始めた。頻繁に頭に浮かぶようになってきて、いよいよ押し出されるような、我慢していると苦しいような感覚にさえなってきた。 「早く出してくれよぉ〜」という内側の声がはっきり聴こえるようになってくると、もうじっとしてはいられない。 こりゃあ、まるで出産だ。 ということで、店に行き額を買ってきて、絵を入れてみた。 なんだか、嬉しそう。 いや、私が嬉しいのか😆 お久しぶりでございます・・・。 この存在と改めてご対面。 すると、絵からバーっとエネルギーが押し寄せてきて、私のハートの声が言った。 「この絵から感じられたエネルギーは、感じ取った人の内側で強まると同時に、それは宇宙空間に広がる。それ自体がクリエーションであり、それをやるとやらないとでは、結果的に現実として体験するエネルギーが全く異なってくる」と。 なるほど〜。 それを想像すると、そこに広がりを感じた。 そこで、私はFacebookでシェアをして、この絵から感じることをコメント欄に書いていただいた。 ・清々しきかな この世この時 デンと構えて居ればよし ・安心して好きなことをすればよい ・「ぶらぶらしてんじゃねえ いくぞ、動きな」 (私の答え)「分かります?いくっきゃないですよね よし行くぞ」 うふふ、楽しそう ・まっすぐでおおらかで生き生きとたくましい ・福福と、どっしり地について、がんばれよと言われている感覚 ・太陽の光が復活するという力強いイメージ 一つ一つを読みながら、皆さん素晴らしい感性だなあと、なるほど〜と納得したり、内心クスクス笑ったり。選ばれた文字や言葉から、その人から醸し出される「色」のようなものを感じ取ると、心に温かいものがじんわりときた。 さらに、これらのコメントから気づいたことがあった。それぞれのコメントは、その人がその時に感じ取った個人的なものだろうが、どれもが私の心にストレートに響いた。 なぜなら、それは全部これまで私自身が日常で強く感じたり気づいたりしたものであり、そのどれもが私の中にあるどころか、軸のように中心的な位置にあるからだ。 しかし、それは当然といえば当然だ。絵として表れた存在(のエネルギー)は自分の一部であり、自分は存在の一部でもあるのだから。 そして、肉体を持つ個体としての私たちは、離れていても皆意識でつながっており、究極的にはひとつなのだから。 振り返ってみると、この絵を描いたのは2021年3月3日だった。 3月3日って、女の子の成長を祝うひな祭りの日じゃない。でも、これはどう見ても日本男児・・・一体どういうこと? きっと、理由や意味はあってもなくても良いだろう。が、エネルギーの質が顔の絵というかたちになって、そのタイミングで表出したことは確かだ。 あえて自分のために意味づけるとしたら、それは私の成長のために必要なエネルギーであり、それに気づき自覚することは自分への祝福であるということ。 このエネルギーはその後一旦意識の奥の方へしまい込まれたが、種火のようにずっとそこにあり、私がいよいよ必要と自覚する時まで、じっと出番を待っていたのだろう。 今、この額はリビングルームの棚に飾ってあり、テーブルの自分の席につくと、この存在がこちらを向いている格好になる。 存在の強い眼差し、背後から立ち上る炎のようなエネルギー。
新たな創造のエネルギーが押し寄せてくる。 それを体全体で感じ取ると、またもや内側から膨らむような押されるような感覚が訪れた。 じっとしていられない。何かを始めたい。 その内側で強さを増しているものは、好きな時に書きたいことを自由に書きたいという気持ちだった。 というわけで、このブログを始めることとなったのである。 頭で理解できるレベルを超えた意図を持ったエネルギーが次第に膨らんできて、内側から押してくる。特定のイメージが頭に浮かぶ頻度が上がるのは、陣痛の間隔が次第に短くなってくるのに似ている。 新たな創造の始まりのプロセスは、まるで出産のよう。 しかし、内側から溢れ出た創造は痛みを伴うことはなく、不安もなく、ワクワクいっぱいで、純粋に「よろこび」なのである。 この文章を書いた数時間後、テレビをつけると、地元のニュースでベートーベンの「歓喜の歌」の合唱が流れた。それを聴いた夫が、それからしばらくの間、何度も口笛でメロディーを吹いたので、私は内心クスッと笑った。 はいはい宇宙さん、「そうだよ、創造は喜びだよ」と言ってくれてますね。 ありがとう、私はその祝福を受け取ります。 |