絵に描くことはパワフルである。描いた後に、想像を絶する展開を体験したことを前回のブログに綴ったが、今回はそれとは異質な体験についてシェアしよう。 前回は、周りの環境が広がりをもって変化していく体験であったのに対し、今回は肉体を通した深い霊的な体験である。 それは、3月にシアトルで友人のマッサージを受けた時のこと。 だが、いきなりそこへ行く前に、順序を追って話す必要がある。というのも、日々の流れの中であったこと、自分がやったことなど、それ自体は個々に独立しているが、全てのことが数珠繋ぎのように繋がっているからだ。 そのような繋がりは、記憶の中で一貫したテーマのもとに吸い寄せられて繋がっていき、時を経て、プロセスであることに気づくものである。今回、私はアメリカから帰国したタイミングで、なんとも興味深い数珠繋ぎに気づいた。 その始まりは2月に遡る。 ある日、夫の仲間とのランチに参加したら、話が盛り上がり、ひょんなことからその後、みんなで鹽竈(しおがま)神社へ行くことになった。鹽竈神社は陸奥国一宮という由緒ある神社で、仙台から車で40分ほどの場所にある。 これまでに何度か参拝したことがあり、今回は何年かぶりで訪れたのだが、境内には二社あり、拝殿も左宮と右宮だけでなく別宮もあるので、全部回ると何が何だかわからなくなってしまう。 それでも、ここは他と違った確かな感覚がある、という場所があり、今回もなんとなくそこにエネルギーを感じた。何か温かいような、馴染みがあるような、そんな雰囲気である。その場に立つとしっくりくるし、ちょっと厳かな気分にもなる。 鈴を鳴らして丁寧に二礼。二拍手を終えるか終えないかのところで、突然声がした。 「道を開け」 その言葉は、外からと私の内からとの両方で響いたようだった。手を合わせてハートにフォーカスしようと思う前に不意を突かれ、それもあまりにも短い言葉だったので 私は「へっ?」となってしまった。 またしても鶴の一声だったわけだが、実はこの言葉は初めてではなかった。 かなり前に、三重の実家近くにある猿田彦大神を祀る椿大神社でも、同じ言葉を何度か受け取ったことがあった。 そのため「あれっ猿田彦さん?今の猿田彦さん?・・・でもここは鹽竈さんだよねえ」と混乱し、あなたは誰?と思わず青空を仰いでしまった。 そこは別宮で、主祭神の鹽土老翁神(シオツチオジノカミ)が祀られており、鹽土老翁神は潮路を司る神だと知った。 「そうか、猿田彦さんとこのおじいちゃん神様は『導く』というところで共通している。だから猿田彦さんと間違えそうになったんだ」と思った。 「それにしても、またしても来たか、この言葉。う〜ん、道を開けって、具体的に私は何をするのだろう」 数年ぶりにまた受け取ったこの言葉に重みを感じ始めると、緊張してきた。私は、こういう時に正しくやらねばと考える癖がある。 いやいや、そうではない。今の私は、その癖があることをよ〜くわかっている。 緊張に違和感を感じたので、考えるのをやめて、その後はただゆったりとくつろぐことにした。 翌朝、その「道を開け」という言葉について、ガイド霊たちに助言を求めると、ハートからこんな言葉が流れ出た。 「愛ある意図、それ自体が光の道。 何かをするということよりも、その光の道をイメージし、その上に自分が立ち、自ら光を放ち、光に包まれ、その道がずっと先まで伸びているイメージをしてごらん。 道はどんな色? そこから始めて、イメージを絵にしてみると良い。インスピレーションで付け足していってごらん」 そうして出来上がったのが、この絵だった。 3月1日、私はシアトルで友人のマッサージルームにいた。「ももちゃん」と呼んでいるその友人は、マッサージ歴24年で、今ではセッション回数述べ1万回を軽く超えるほどの大ベテランだ。 ももちゃんがマッサージスクールを卒業して間もない頃から、私は彼女のマッサージを受けており、長い付き合いになる。 私のマッサージの時に、彼女は必ず様々な情報を映像で受け取るらしく、終わった後で詳しく描写して教えてくれる。彼女によると、そのように映像が現れる人はかなり限られているとのことで、彼女と私はよほど相性が良いのだろう。 今私は日本に住んでいるので、ももちゃんのマッサージは半年に一度シアトルに行った時だけになるが、毎回体験が深まっており、マッサージを受けている間に、私も体感とともにクリアーに映像を受け取るようになった。 この2〜3年の間に、マッサージは彼女自身の様々な体験や気づきを通してさらに進化しており、私の感覚も以前より開いてきているので、私が受け取る映像の質も高まっている。 ディープティシュー(深部組織)マッサージが軸で、そこに霊気、アキュトニックス音叉、カッピング(吸い玉)、精油を組み合わせ、クライエントに合わせて使うやり方は、彼女が独自に編み出した統合マッサージ。 心地よい音楽が流れる中で、彼女のマッサージを100%信頼して身を委ね、ただ受け取ることだけにフォーカスする心地よさは格別である。 毎回素晴らしいと思うのだが、今回のマッサージは、前回とは全く違ったパワフルな体験になった。レベルアップしたというか、次元が違うというか、それは、時間をかけてそしゃくする価値のある大切な体験であった。どこまで理解を深められるのか、おそらくさらに時間を経てこそわかることもあるのだろう。 そもそもマッサージって何? 調べてみると「血液やリンパの循環を改善し、新陳代謝を盛んにして、神経や筋肉の機能を促進する手技療法」とあるが、それはほんの入り口である、と思わざるを得ない。 というのも、こんなことがあるのか!ということが起こったからだった。 それは、マッサージの最後に差しかかった時のこと。 仰向けの腹の上に私の両手を持ってきて、置かれた私の手に重ねるように彼女が優しく触れた瞬間、彼女の手に続いて、私の足元までいくつもの手が置かれていったのだ。 私は、自分の脚に沿ってずらりと並んだ手を見ていた。白っぽく柔らかそうな手。一体何人の手だろう。眺めているうちに、足先へと向かって置かれる手は、増えていった。 その時、昔読んだバーバラ・ブレナン著の「光の手」を思い出した。そこには、施術台に横たわった人と施術者をサポートする複数の存在(スピリット)たちの姿、そして発せられているエネルギーを描写した挿絵があった。その絵を見た時に、私は衝撃を受けたのを覚えている。 まるでそれだった。その光景を今、自分が体験しているのだ。 見えない存在たちの手だけが見えている。それは奇妙な光景かもしれないが、私は感動した。 なぜなら、それらの存在が連帯して、この瞬間に、ももちゃんと並んで一緒に手を置いていたからだ。そのどの手にも、ひたむきな意図を感じた。それを愛というのだろうか。 ああ、やはり私たちを、こんなに多くの愛あふれる存在たちがサポートしてくれているのだ。 見えなければ知らないし、わからない。これらの存在たちは、自分たちのことを知ってもらいたくて、認めてもらいたくて、感謝されたくて、やっているのではない。私たちを見守っていて、常にただ無条件に愛を注いでいるのである。 そのことが伝わってくると、有り難くて胸が熱くなった。 するとその時、丹田のあたりから白い光のラインが現れ、両脚の間を通って足先へと向かって伸び、光はさらにその先へと伸びていった。 「これは、まるで道ができていくみたいだ・・・ああ、光の道!」 私は驚いた。 これらの手によって白い光の道ができ、それがずっと先へと伸びていたのだった。 その光のラインを眺めていると、大地を歩く私の足からまっすぐ光の道ができており、その先もずっと光で照らされ、私は導かれている、と感じた。 一歩一歩大地を踏み締めて歩くこと、この地球で生きること、光の中に留まり、その道を歩くこと。 「そうなんだ、やっぱりそれこそが私であり、私が望んできたことなんだ」 そう確信し、自分の深奥と一致した安堵感を味わったその時、さらに驚くべきことが起こった。 丹田が振動し始めると、今度はその振動とともにそこから垂直にググググッと何かが上がっていく感覚があり、丹田と空とを結ぶ細いエネルギーラインが現れた。 そのラインは最初糸のような細さから、次にはロープほどになり、強まる感覚とともに回転しながら勢いを増してどんどん太くなっていく。最後には、土管くらいの太さになっていた。ヘソのあたりが振動しながら皮膚が吸い上げられていくような体感さえあった。 私は丹田から水平に伸びる光と、垂直に伸びる光の両方をはっきりとこの目で見た。 まずは地に、そして天に、私の体とエネルギーがその二方向とバランスよくきっちり繋がった感覚があった。 「道を開け」という言葉が浮かび上がった。二箇所の神社でそれぞれ受け取った言葉であったが、足先へ伸びる水平方向のエネルギーは、潮の路を司る鹽土老翁神を思い起こさせ、丹田から昇る垂直方向のエネルギーは、猿田彦大神を思い起こさせた。 「マッサージでこんなことが起こり得るのか!」 それは肉体を通した強烈な霊的体験だった。 マッサージとは何なのか? 体とは何なのか? どこまで深く体験できるのか? テクニックだけでは到底得られないものがあり、それは計り知れないほど奥深いものなのかもしれない。 今回のこの体験は、施術者であるももちゃんの意識・周波数と、受ける側である私の意識・周波数が引き合って、その対流の場の中で起こった。体感があり、実際に見たので、それは確かに起こったのだ。 いや、起こるというよりも、創造されたという方がしっくりくる。ももちゃんと私の通常意識を超えた領域を巻き込んだその場と、そこであったすべての体験が、宇宙とももちゃんと私との共同創造である、と私は思うからである。 肉体は決して下等なものではない。驚くほど高度に開かれた領域への入り口であり、その肉体を通して得られる霊的体験は、純粋な驚異と喜びであることを、私は体験により知った。 足先へと伸びていった光の道の光景に、見覚えがあった。 2月に自分が描いた絵だった。目の前に開ける道、同じ構図ではないか!さらに、道の両側には私を見守る存在たちがいて、私の頭上には私を導く鳥がいる。 この絵とマッサージでの体験が、実質的に一致した。絵描かれたエネルギーがそのまま肉体を通じて現れ、描いた世界を現実レベルで捉えることになった、とも言える。 そのことに気づいた時、存在たちと私のハートが一致した場所から、再び流れてくる言葉があった。 「愛ある意図、それ自体が光の道。光が道を開くのである。 何かをするということよりも、まずは、あなたという存在そのものが光であることを自覚し、自ら光を放ち続けなさい。 あなたは、肉体を持った創造し続ける霊的な存在。 あなたがそこにいるだけで、周りに光が及び、自ずと変化が起こる。一人一人が、もともとそれほどパワフルであるということを、決して忘れないで」 素晴らしい体験をくれた、ウノシマモモエさんに感謝を捧げます。
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<(1)のエピソードはこちら > 私が住む宿舎とその周辺の風景を絵にした後、驚くようなことが起こり始めた。
まず、敷地の除草作業の料金が突然2倍以上に跳ね上がり、共益費から捻出するのが困難になった。共益費の値上げも検討されたが、何も決まらないまま業者への依頼も止まり、草は伸び放題になって敷地はさらに荒れた。 その状態が1年ほど続いたある日、見かねた一人の住人男性が、小さなカマで草刈りを始めた。仕事を終えた後、毎日夕方になると、草刈りを始めるのである。よほどの雨でない限り、平日も週末も夏の暑い日も休むことなく、広い敷地を部分に区切って、毎夕黙々と草刈りをする。 大変なご苦労で気の毒に思うのだが、キッチンの窓から見えるその男性の作業をしている後ろ姿をじっと見ていると、草刈りはストレス発散になっており、瞑想のようでもあり、楽しんでいるようにさえ感じられた。 しかし、敷地は広すぎて一人では全く手に追えない。刈った場所もすぐにまた草に覆われ、イタチごっこになってしまう。 そのような一人での作業が1年以上続いた後、やはり限界なのだろう、共益費で草刈機が購入され、それからは以前よりも効率が上がった。 やがて、ボランティアを募ることになり、2名が加わり、担当場所を決めて交代で作業するようになった。 業者は年2〜3回であったのに対し、ボランティアチームは頻繁に草刈りをするので、以前腰の高さまで伸びた草は常に短くなり、芝生状態になった。 すると、中庭で子供たちが遊ぶようになった。今までは、一角で畑をしている人以外はほぼ立ち入ることはなかったので、いつもしいんとしていたが、少し活気が出てきた。 週末に、キャッチボールやバドミントンをする親子が現れた。コロナ期には、夏の夜に中庭にテントを張って、合同のキャンプをしたりする家族も現れた。自粛生活が強いられたその時期に、外で話す人の声や元気よく遊ぶ子供の声が聞こえるのは、どれほど癒しになったことだろう。 しかし、子供が集ってきてサッカーをするようになると、在宅勤務の住人や、ボールがバルコニーに飛んでくる可能性のある下の階の住人から、苦情が出るようになった。 そこで、草刈りを始めた男性が、中庭とは別の場所に砂場やベンチのある「子供広場」の設置を提案し、PTAの親たちも参加して作業が始まった。 その頃、以前より中庭で畑をしていた下の階のTさんから、畑ができるスペースが余っているがやらないかと、私は声をかけられた。シアトル時代に長い間市民農園で野菜作りをしており、こちらの周辺にはそのような場所はないので残念に思っていたが、チャンスが到来し、私は即OKした。 Tさんの畑の隣に3つほど畝を作り、畑作業をしていると、Tさんもやってきて、私たちは、一緒におしゃべりをしながら畑で時間を過ごすようになった。 あとでTさんが教えてくれたことなのだが、スポーツジムに合唱コーラス、生協の集まりなど、ほぼ毎日あった活動がコロナで全て中止になり、人と話すことがなくなってしまったそうだ。 その上、出張が多かったご主人が在宅勤務になり、家が窮屈になっただけでなく、ご主人が部屋から出られないほどオンライン会議で忙しくなると、Tさんは女中のように部屋まで食事を運ぶことに嫌気が差し、鬱状態になっていたところ、畑に出ると私がいておしゃべりできることが楽しくて、随分救われたとのことだった。 私は目の不調でそれ以前から自粛的な生活が続いていたし、夫は日中自分の研究室で過ごしていたので、Tさんのように鬱状態になることや、人と話すことを強く欲することもなかったが、活動的な人にとっては、この変化はかなりのインパクトだったことが、Tさんの気持ちを直に聞いたことでよくわかった。 中庭で遊んでいた子供たちが子供広場へと移ると、今度は、幼い子供が砂場で遊ぶのを見守る母親の姿も現れ始めた。 宿舎は入退去が多く、海外からの居住者も増えて、近所への関心も付き合いも薄い。毎日子供を遊ばせている間、ずっと一人でベンチに座ってスマホを見ている母親の姿は、私の目には孤独そうに映った。 すれ違っても目を合わさないようにして挨拶しない人もいる。住人数は多いが、それぞれがそれぞれの箱の中にいて、交わることがない。それは今や当たり前の光景なのだろうか。なんだか寂しい。 そこで、私は畑作業をしている時など、自分から声をかけることにした。実際、これまで声をかけられて迷惑そうにした人はいなかったどころか、ほとんどの人が嬉しそうに話をする。 私は、毎日子供を連れて中庭にやってくる母親と立ち話をするようになり、幼稚園の息子さんは、植物を観察したり、ダンゴムシや青虫を捕獲して家で育てたりするのが好きなことを知った。息子さんは妹と一緒にやってきて、私に虫を見せてくれたり、幼稚園で作ったものや、お母さんに買ってもらった手袋などを見せてくれたりした。 畑の畝の間を歩き回り、苗を指差して、「これはナス!」「これはピーマン!」などと名前を当てる男の子もいる。その子は、週末になると、父親と一緒に中庭に出てきてボール遊びをしたり、芝生状態になった草の上で見事な逆立ちを私に見せてくれたりする。 その後、同じ年くらいの子供を連れた親たちも交流するようになっていった。中庭のビワや柿を一緒に採ったり、分けたり。今では、子供同士が国境を超えて仲良く遊ぶ姿も見られるようになった。 春に、中庭の反対側で土を耕し始めた人がいた。隣の棟に住むドイツ人の男性で、花園を作るとのことだった。 「色々な花をここに住んでいる人に見てもらいたいんです。コロナでみんな外に出られなくて、毎日がつまらない。花を見て楽しんでもらいたいんです」と流暢な日本語で話した。 彼は、花だけでなく、クランベリー、ワイルドベリー、ラズベリー、その他ドイツで育つ日本では珍しい植物を育て、立派な花園にした。 「クランベリーの苗は1つ800円くらいします。インターネットで注文しました。10くらい買って、かなりお金をつかいました。でも、私はここを美しい場所にしたい」 苗だけでなく土も肥料も自費で調達し、草取りや水やりを欠かさず、労力を惜しまず、この中庭で黙々と花園を作り上げる。 「皆さんに綺麗だなと見てもらえれば、私はそれで満足です」 この男性の心の広さに私は感動した。 一方、チームでの草刈りが軌道に乗り始めると、あの草刈りを最初に始めた男性が、今度は敷地の至る所に花の苗を植え始めた。 各電柱の根本にパンジーやビオラの寄せ植え、フェンスに沿ってマリーゴールド、百日草、ダリヤ、マーガレット、チョウチンカズラ、アサガオなど。子供広場にはグラジオラス、タチアオイ、ユリをはじめ、色とりどりの様々な花が咲き誇るようになった。 すると、夏の早朝など、それらの花に自主的に水やりをするPTA の母親たちの姿を見るようになった。 変化はそれだけにとどまらなかった。 私の棟の2階に住む単身赴任のバングラデシュ人男性は、バルコニーでナスやトマトの栽培を始め、並べる苗の数が増えていった。 そのちょうど上に住む同じく単身赴任の日本人男性は、夫と私が引っ越してくる前からいたので、10年以上住んでいることになるが、突然バルコニーで花を育て始めた。 最初は数鉢だったのがいつの間にか3段の棚にぎっしり並ぶほどになり、広いバルコニーのスペース半分ほどが花でいっぱいになっている様子を、中庭から見ることができる。 この男性はTさんの隣に住んでおり、Tさんによると、最初に少し買ってバルコニーに置いていたら可愛くて仕方なくなり、もっと欲しくなってどんどん増えていったとのこと。 かくして、宿舎の植物男子ベランダー誕生。一人暮らしの中年男性が花を育てるなんて、素敵なことではないか! 私の畑も最初は3畝から毎年拡大していき、今では最初の3倍ほどの広さになっている。収穫する野菜の種類も量も増えて、有り余る野菜を小さな子供のいるご近所やあの草刈り男性のお宅に配るようになった。 昨年の春、私の畑のちょうど前に位置する号室に、中国人家族が引っ越してきた。若い夫婦と子供3人、ご主人の父親の6人家族だが、ある日、私が畑をしているとご主人が声をかけてきて、父が畑をしたいが許可はいるのかと尋ねた。 特に許可はいらないと答えると、それまでご主人の隣で硬い表情をしてモジモジしていた老人の目が輝いた。 それから2〜3日後、この老人は息子さんの手を借りて、土の掘り返し作業を始めた。楽しくて仕方がないという風に満面の笑みを浮かべ、作業する背中がイキイキと動いていた。70歳ということだが、40代の背中にしか見えなかった。石はきれいに取り除かれ、あっという間に立派な畝ができてしまった。 息子さんによると、父親は日本語も英語も全くわからないということだったし、息子さんもガーデニングの道具や種をどこで入手できるか知らないと言った。 畝が完成した後に、私はこの老人に「有機肥料」と書かれた袋を見せて、別の小袋に入れた肥料を差し出すと、「シェイシェイ!」と言って受け取り、本当に嬉しそうに笑ってくれた。これが、私とおじいちゃん(と呼ぶことにした)との最初のコミュニケーションだった。 言葉がわからなくても、通じることがある。「ニーハオ!」と挨拶から始まり、顔を合わせる回数が増えるに従って、おじいちゃんは、支柱の強化の仕方を教えてくれたり、苗をくれたり、私の作業や畑の様子を見にくるようになった。 その後私は、おじいちゃんは小さな村の出身なので、訛りがあって中国人同士でも言葉が通じないということを知った。 息子さんによると、おじいちゃんはテレビも見ないし友達もいない。話せるのは家族だけ。趣味はなく、ただ野菜を育てることだけが好きということだった。日本に来て5年になるが、ずっと孫の世話と家事に追われ、楽しみもなく、気分が沈んでいたのだそうだ。 おじいちゃんの畑の野菜は、Tさんと私より2ヶ月ほど遅れて始まったにも関わらず、生育スピードが凄まじく、すぐに私たちの野菜を追い抜いただけでなく、無農薬でも虫に食われない丈夫で大きなものが育った。 おじいちゃんは、畑にいる時本当に嬉しそうでイキイキしており、その喜びが畑に反映されていた。おじいちゃんの畑は明らかに植物の色もエネルギーも違っていた。何を作っているのか、どうしてこんなに大きいのかと、興味津々で見に来る人々が現れるようになった。 トマト、きゅうり、インゲン、空芯菜、青梗菜など、おじいちゃんは、できた大量の野菜を大袋に入れて、気前よく私や近所の人に分けてくれる。 元気な野菜がたくさんできる。採っても新しいのがまた出てきて、食べるのが追いつかないので、皆さんにも食べてもらう。野菜を育てることは、収穫を分かち合うということでもあるのだと、気付かされる。 屋外で過ごす時間が増えると、人の動きがよくわかる。赤ちゃん、子供、若い親、中高年の人、散歩で敷地を通る近隣の高齢者。中庭の通路を通るドイツ人、ウクライナ人、ロシア人、アメリカ人、エストニア人、エジプト人、中国人、バングラデシュ人、ベトナム人など、私は様々な人と中庭や通路で挨拶をするようになった。 色とりどりでなんと面白い環境に住んでいるのだろう。草ぼうぼうの荒地だったところが、面白いと思える場所になるなんて! また、この冬は、いつも野菜をもらっているお礼にと、近所の人たちからいただいた土産や果物で、キッチンの棚がいっぱいになってしまうという現象が起きた。 中庭の絵を描いてから、気づいたらこのように様々なことが変化していた。 あの絵に込められたものは、その場所で私が見つけた「小さなこと」のひとつひとつと、そのひとつひとつに包含される夢のような世界(物語)だったが、それは私が感じる自然界と私自身との関係であった。 しかし、物語はそれをはるかに超えた領域からさらなる物語を運んできて、目の前で展開し拡大していった。 出来事として起こった、料金値上げによる業者の草刈りの終了とコロナ。それらは一見悪いことのように思えるが、それは素晴らしい変化のために必要なことだった。それが、ポジティブな事柄へと転換する流れの起爆剤となったのではないだろうか。 これらの変化を起こすために、誰かが何かを無理に始めたことはあるだろうか? 私はそうは思わない。 自発的に取り組む人々が現れ、それが拡大して、自然に子供たちや大人の交流が増えた。 このように、誰の関心もないような荒地だった場所が変化し、小さいながらもコミュニティらしきものが出来上がっていく過程を自ら目撃とともに体験するとは、私は夢にも思わなかった。 自分が住む場所への関心、他の住人への関心、交流、分かち合うという精神は、目覚めると、個人にも集合意識にも影響を与えて拡大していく。 拡大していくところに、豊かさの循環が生まれる。 それは、お金では得られないもの。 マインドが見た荒れた土地を心の目が楽園に変えたその絵に、私は “Home”というタイトルを付けたが、そのHomeの奥には、さらに拡大した心の世界があったのだ。 楽園が描かれると、次に、絵はそこに住む人間を巻き込み始めた。 荒地のままにするのか、それをどう扱うか、どう生きたいか。 そのことが突きつけられ、動き出したものが拡大していった。 この絵の奥には、人間がこの地上に実現できる楽園とその可能性が、それはまだほんの小さな始まりであるが、示されているのだと私は思う。 そこは荒地だった。
私の住んでいる宿舎の敷地は広く、通路と駐車場以外、地面は土である。その土の部分は、当然植物に覆われる。人が植えた木や花の部分以外は、野草や雑草で覆われている。 12年前にアメリカから引っ越して、夫の勤務先が提供するこの宿舎へ到着した時、私はお化け屋敷に来たのかと思った。まだこんな建物が存在するのかと思うほど古く、中の階段と通路は暗くて、敷地は草が生い茂っていた。 それでも全く知らない土地へ来たわけで、住居が準備されていたことは有り難く、家賃も極めて低かったため経済的な助けにもなり、夫も私も更なる引っ越しは考えなかった。 仙台の中心まで歩いて行ける距離にありながら、自然豊かな山地に位置し、敷地は広いため、恵まれた環境だと言える。 だが、管理が行き届かず野生化した場所に人が住んでいるような印象を与える。なぜなら、中庭や建物周辺は、業者が来て年に2〜3回ほど除草するが、草はすぐに腰の高さくらいまで伸びてしまうからである。 そんな草の中から、幾度もの地震に耐え、壁のあちこちにシミや汚れが目立つ古い鉄筋コンクリートの建物がニョキっと顔を出しているのを想像してみて欲しい。きっと、お化け屋敷みたいだと思うだろう。 そんな場所で、夫と私は一気に昭和に逆戻りしたような生活を送っていたが、住み始めてから数年が経ったある日、私は家でボーッとしていた時に、ふと宿舎と中庭を絵にしてみようと思いついた。 当時、私はイギリスのシャーマン・アーティストFaith Noltonの本が気に入っており、よく開いていた。個性的な作品と、各作品にまつわる魂の物語がジャーナル形式で書かれているその本には、彼女の心が捉える自然の神秘的な力と、魂のパワフルかつ奥深い世界が詰まっており、私は魅了された。 宿舎の風景を絵にしてみようとふと思ったのは、彼女のような表現をしてみたいと思ったからだった。 ペンを持つと、私の内側からある考えが浮かんだ。 「私が住んでいるこの場所を心の目が観たら、どんな風に描くだろう?」と。 古く汚れたお化け屋敷のような建物と、草ぼうぼうで荒れた土地。それは、私の頭が見たままの姿から判断した風景であるのに対し、心が観ているのは、その場所で私が見つけた「小さなこと」のひとつひとつと、そのひとつひとつに包含される夢のような世界(物語)だった。 中庭にはアザミ、野菊、ヒナギク、シロツメクサ、ツユクサ、オオバコ、ハコベなど、子供の頃摘んで遊んだ野草がある。アジサイ、チューリップ、クロッカス、スイセン、レンギョウ、アヤメ、ツルギキョウ、ムスカリなどが季節になると花を咲かせる。 ビワの木、柿の木、いちじくの木、梅の木、クリの木、桜の木、ネコヤナギ、タラの木、杉の木、月桂樹、ネコヤナギ、ハナミズキ、その他名を知らない数々の木々。 カラスやスズメ、トビがいつも周りにいて、春になるとヒバリ、ウグイス、ホトトギスなどが鳴き初め、野バト、シジュウカラ、メジロ、カケス、モズ、オナガなど、一年を通して様々な鳥がやって来る。 様々な種類のハチやカメムシ、テントウムシ、コガネムシ、カナブン、カミキリムシ、ゴミムシ、セミ、トンボ、クモ、蛾や蝶、カマキリ、バッタ、コオロギなどなど。実家では子供の頃、庭先などでよく見かけたが大人になってあまり見なくなったような虫を、こちらではまだよく見かける。 住人から聞いた話によると、ネズミ、タヌキ、アナグマ、ハクビシンもいるそうだが、それらの動物に私はまだ遭遇していない。 今こうして挙げてみると、ここには様々な生き物が棲んでいることがわかるが、なんとなく過ごしていると日常の中に吸収されて消えてしまい、特に気づくことはない。 私は心の目で、少し離れた上空から私が住む場所とその周辺を観てみた。 私が住む号棟と敷地の出口へと続く通路を描くと、そこから私の意識は、引っ越して来てからそれまでに気づいた様々な小さなことのひとつひとつへとフォーカスされていった。 そこには、必ず感情が伴っていた。ああ、心とは、そうやって観るのだ。記憶には、必ず感情が伴っているということを、私たちは気づいているだろうか。 買い物からの帰りに、鮮やかなアザミで両側が赤紫に染まった通路を歩くとウキウキした。初夏になると、中庭の広い範囲が腰の高さほどになるジョチュウギクの白い花で埋め尽くされ、草原の花畑に滑り込んだような感覚になった。 のびのびと太陽に向かって開いている可愛らしいクローバーの葉を見ると、思わずしゃがんで四つ葉を探してみたくなる。 玄関近くには大きな桜の木があり、4月上旬には玄関に淡いピンク色の傘がかかったようになる。階段通路の窓を開けると、青い空とピンクの花が目に飛び込んでくる。キッチンの窓から見える街灯の光を受けた夜桜は、幻想的で美しい。 北側の窓から見える大きな杉の木には、毎年春になるとカラスが巣を作る。夏至の頃に卵が孵ってヒナが生まれるが、それまでに幾度となく訪れる強風に木が大きく揺れて、卵が落ちてしまうことがある。そんな年が何度もあった。 今年もカラスはまたそこに巣を作ったかと観察し、大風になるたびに私はハラハラして、どうか乗り切って欲しいと祈るのだった。 長い坂を下まで降りていくと、佐藤宗幸さんの「青葉城恋歌」に出てくる広瀬川の清らかな流れに出会う。最初の2年は、初秋に橋の上から鮭の遡上が観察できた。 そこから西へと進むと山々と里山が広がっており、空間に広がっているその緩くのどかな波動に初めて触れた時、私の深奥が震えたことを思い出した。 それらをひとつずつ描いていき、最後に、キッチンの窓から眺める変わりゆく夕空の色を添えて全体を見ていたら、ここは実は命あふれる美しい場所なのだと気づいた。 再び中庭に視線を戻すと、何かが足りないと感じたので、意識をフォーカスしてみた。浮かび上がって来たのは、精霊のような存在だった。それは、木々や花々の命を輝かせている存在だった。 それを描き加えると、しっくりきた。 マインドが見た荒れた土地を、心の目が楽園に変えた。 心の目は表面ではなく、そこから中へと入っていき、さらにその奥に息づくものまでをも捉えることができる。 心の宝箱から、豊かな感情に伴った目に見えないものが織り込まれていた。それを物語というのだろう。 絵が完成して、物語が織り込まれ、私はそれに “Home”というタイトルを付けた。 それで終わった。 終わった、と思っていた。 ところが、終わったどころではなく、始まったのである。 それも想像を絶する展開で! <(2)へつづく> |