絵に描くことはパワフルである。描いた後に、想像を絶する展開を体験したことを前回のブログに綴ったが、今回はそれとは異質な体験についてシェアしよう。 前回は、周りの環境が広がりをもって変化していく体験であったのに対し、今回は肉体を通した深い霊的な体験である。 それは、3月にシアトルで友人のマッサージを受けた時のこと。 だが、いきなりそこへ行く前に、順序を追って話す必要がある。というのも、日々の流れの中であったこと、自分がやったことなど、それ自体は個々に独立しているが、全てのことが数珠繋ぎのように繋がっているからだ。 そのような繋がりは、記憶の中で一貫したテーマのもとに吸い寄せられて繋がっていき、時を経て、プロセスであることに気づくものである。今回、私はアメリカから帰国したタイミングで、なんとも興味深い数珠繋ぎに気づいた。 その始まりは2月に遡る。 ある日、夫の仲間とのランチに参加したら、話が盛り上がり、ひょんなことからその後、みんなで鹽竈(しおがま)神社へ行くことになった。鹽竈神社は陸奥国一宮という由緒ある神社で、仙台から車で40分ほどの場所にある。 これまでに何度か参拝したことがあり、今回は何年かぶりで訪れたのだが、境内には二社あり、拝殿も左宮と右宮だけでなく別宮もあるので、全部回ると何が何だかわからなくなってしまう。 それでも、ここは他と違った確かな感覚がある、という場所があり、今回もなんとなくそこにエネルギーを感じた。何か温かいような、馴染みがあるような、そんな雰囲気である。その場に立つとしっくりくるし、ちょっと厳かな気分にもなる。 鈴を鳴らして丁寧に二礼。二拍手を終えるか終えないかのところで、突然声がした。 「道を開け」 その言葉は、外からと私の内からとの両方で響いたようだった。手を合わせてハートにフォーカスしようと思う前に不意を突かれ、それもあまりにも短い言葉だったので 私は「へっ?」となってしまった。 またしても鶴の一声だったわけだが、実はこの言葉は初めてではなかった。 かなり前に、三重の実家近くにある猿田彦大神を祀る椿大神社でも、同じ言葉を何度か受け取ったことがあった。 そのため「あれっ猿田彦さん?今の猿田彦さん?・・・でもここは鹽竈さんだよねえ」と混乱し、あなたは誰?と思わず青空を仰いでしまった。 そこは別宮で、主祭神の鹽土老翁神(シオツチオジノカミ)が祀られており、鹽土老翁神は潮路を司る神だと知った。 「そうか、猿田彦さんとこのおじいちゃん神様は『導く』というところで共通している。だから猿田彦さんと間違えそうになったんだ」と思った。 「それにしても、またしても来たか、この言葉。う〜ん、道を開けって、具体的に私は何をするのだろう」 数年ぶりにまた受け取ったこの言葉に重みを感じ始めると、緊張してきた。私は、こういう時に正しくやらねばと考える癖がある。 いやいや、そうではない。今の私は、その癖があることをよ〜くわかっている。 緊張に違和感を感じたので、考えるのをやめて、その後はただゆったりとくつろぐことにした。 翌朝、その「道を開け」という言葉について、ガイド霊たちに助言を求めると、ハートからこんな言葉が流れ出た。 「愛ある意図、それ自体が光の道。 何かをするということよりも、その光の道をイメージし、その上に自分が立ち、自ら光を放ち、光に包まれ、その道がずっと先まで伸びているイメージをしてごらん。 道はどんな色? そこから始めて、イメージを絵にしてみると良い。インスピレーションで付け足していってごらん」 そうして出来上がったのが、この絵だった。 3月1日、私はシアトルで友人のマッサージルームにいた。「ももちゃん」と呼んでいるその友人は、マッサージ歴24年で、今ではセッション回数述べ1万回を軽く超えるほどの大ベテランだ。 ももちゃんがマッサージスクールを卒業して間もない頃から、私は彼女のマッサージを受けており、長い付き合いになる。 私のマッサージの時に、彼女は必ず様々な情報を映像で受け取るらしく、終わった後で詳しく描写して教えてくれる。彼女によると、そのように映像が現れる人はかなり限られているとのことで、彼女と私はよほど相性が良いのだろう。 今私は日本に住んでいるので、ももちゃんのマッサージは半年に一度シアトルに行った時だけになるが、毎回体験が深まっており、マッサージを受けている間に、私も体感とともにクリアーに映像を受け取るようになった。 この2〜3年の間に、マッサージは彼女自身の様々な体験や気づきを通してさらに進化しており、私の感覚も以前より開いてきているので、私が受け取る映像の質も高まっている。 ディープティシュー(深部組織)マッサージが軸で、そこに霊気、アキュトニックス音叉、カッピング(吸い玉)、精油を組み合わせ、クライエントに合わせて使うやり方は、彼女が独自に編み出した統合マッサージ。 心地よい音楽が流れる中で、彼女のマッサージを100%信頼して身を委ね、ただ受け取ることだけにフォーカスする心地よさは格別である。 毎回素晴らしいと思うのだが、今回のマッサージは、前回とは全く違ったパワフルな体験になった。レベルアップしたというか、次元が違うというか、それは、時間をかけてそしゃくする価値のある大切な体験であった。どこまで理解を深められるのか、おそらくさらに時間を経てこそわかることもあるのだろう。 そもそもマッサージって何? 調べてみると「血液やリンパの循環を改善し、新陳代謝を盛んにして、神経や筋肉の機能を促進する手技療法」とあるが、それはほんの入り口である、と思わざるを得ない。 というのも、こんなことがあるのか!ということが起こったからだった。 それは、マッサージの最後に差しかかった時のこと。 仰向けの腹の上に私の両手を持ってきて、置かれた私の手に重ねるように彼女が優しく触れた瞬間、彼女の手に続いて、私の足元までいくつもの手が置かれていったのだ。 私は、自分の脚に沿ってずらりと並んだ手を見ていた。白っぽく柔らかそうな手。一体何人の手だろう。眺めているうちに、足先へと向かって置かれる手は、増えていった。 その時、昔読んだバーバラ・ブレナン著の「光の手」を思い出した。そこには、施術台に横たわった人と施術者をサポートする複数の存在(スピリット)たちの姿、そして発せられているエネルギーを描写した挿絵があった。その絵を見た時に、私は衝撃を受けたのを覚えている。 まるでそれだった。その光景を今、自分が体験しているのだ。 見えない存在たちの手だけが見えている。それは奇妙な光景かもしれないが、私は感動した。 なぜなら、それらの存在が連帯して、この瞬間に、ももちゃんと並んで一緒に手を置いていたからだ。そのどの手にも、ひたむきな意図を感じた。それを愛というのだろうか。 ああ、やはり私たちを、こんなに多くの愛あふれる存在たちがサポートしてくれているのだ。 見えなければ知らないし、わからない。これらの存在たちは、自分たちのことを知ってもらいたくて、認めてもらいたくて、感謝されたくて、やっているのではない。私たちを見守っていて、常にただ無条件に愛を注いでいるのである。 そのことが伝わってくると、有り難くて胸が熱くなった。 するとその時、丹田のあたりから白い光のラインが現れ、両脚の間を通って足先へと向かって伸び、光はさらにその先へと伸びていった。 「これは、まるで道ができていくみたいだ・・・ああ、光の道!」 私は驚いた。 これらの手によって白い光の道ができ、それがずっと先へと伸びていたのだった。 その光のラインを眺めていると、大地を歩く私の足からまっすぐ光の道ができており、その先もずっと光で照らされ、私は導かれている、と感じた。 一歩一歩大地を踏み締めて歩くこと、この地球で生きること、光の中に留まり、その道を歩くこと。 「そうなんだ、やっぱりそれこそが私であり、私が望んできたことなんだ」 そう確信し、自分の深奥と一致した安堵感を味わったその時、さらに驚くべきことが起こった。 丹田が振動し始めると、今度はその振動とともにそこから垂直にググググッと何かが上がっていく感覚があり、丹田と空とを結ぶ細いエネルギーラインが現れた。 そのラインは最初糸のような細さから、次にはロープほどになり、強まる感覚とともに回転しながら勢いを増してどんどん太くなっていく。最後には、土管くらいの太さになっていた。ヘソのあたりが振動しながら皮膚が吸い上げられていくような体感さえあった。 私は丹田から水平に伸びる光と、垂直に伸びる光の両方をはっきりとこの目で見た。 まずは地に、そして天に、私の体とエネルギーがその二方向とバランスよくきっちり繋がった感覚があった。 「道を開け」という言葉が浮かび上がった。二箇所の神社でそれぞれ受け取った言葉であったが、足先へ伸びる水平方向のエネルギーは、潮の路を司る鹽土老翁神を思い起こさせ、丹田から昇る垂直方向のエネルギーは、猿田彦大神を思い起こさせた。 「マッサージでこんなことが起こり得るのか!」 それは肉体を通した強烈な霊的体験だった。 マッサージとは何なのか? 体とは何なのか? どこまで深く体験できるのか? テクニックだけでは到底得られないものがあり、それは計り知れないほど奥深いものなのかもしれない。 今回のこの体験は、施術者であるももちゃんの意識・周波数と、受ける側である私の意識・周波数が引き合って、その対流の場の中で起こった。体感があり、実際に見たので、それは確かに起こったのだ。 いや、起こるというよりも、創造されたという方がしっくりくる。ももちゃんと私の通常意識を超えた領域を巻き込んだその場と、そこであったすべての体験が、宇宙とももちゃんと私との共同創造である、と私は思うからである。 肉体は決して下等なものではない。驚くほど高度に開かれた領域への入り口であり、その肉体を通して得られる霊的体験は、純粋な驚異と喜びであることを、私は体験により知った。 足先へと伸びていった光の道の光景に、見覚えがあった。 2月に自分が描いた絵だった。目の前に開ける道、同じ構図ではないか!さらに、道の両側には私を見守る存在たちがいて、私の頭上には私を導く鳥がいる。 この絵とマッサージでの体験が、実質的に一致した。絵描かれたエネルギーがそのまま肉体を通じて現れ、描いた世界を現実レベルで捉えることになった、とも言える。 そのことに気づいた時、存在たちと私のハートが一致した場所から、再び流れてくる言葉があった。 「愛ある意図、それ自体が光の道。光が道を開くのである。 何かをするということよりも、まずは、あなたという存在そのものが光であることを自覚し、自ら光を放ち続けなさい。 あなたは、肉体を持った創造し続ける霊的な存在。 あなたがそこにいるだけで、周りに光が及び、自ずと変化が起こる。一人一人が、もともとそれほどパワフルであるということを、決して忘れないで」 素晴らしい体験をくれた、ウノシマモモエさんに感謝を捧げます。
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何が起こったのかわからないが、一瞬のうちに最高で完璧な空間へぶっ飛んだという経験はないだろうか?
何がそれを引き起こすのか? それは、発せられている波動・周波数である。 大学卒業後、就職した会社のクリスマスパーティで、バンド演奏が企画された。私はキーボードを担当し、ドラム、ギター、ベースも名乗り出る社員がいて、すぐに決まった。メンバーは、ギター以外は全員が新入社員だった。 歌うことが好きな同僚の女性が前座的に1曲歌うことになったが、メインとなるボーカルができる、またはやりたいという人は社内にはおらず、どこかから探してくる必要があった。 私は大学時代に音楽クラブに所属し、結成した女子バンドでアメリカやイギリスのポップミュージックを演奏していた。バンドのボーカルは、R&Bやソウルミュージックなどがぴったりな、かなりの声量で歌う先輩の小谷野純子さんで、仲間からは「コヤジュン」と呼ばれていた。 私は、コヤジュンさんを社外からの特別ゲストとして迎えるのはどうかと提案すると、他のメンバーは全員賛成してくれた。早速コヤジュンさんに連絡してみると、「社会人になってから歌う機会がなくなり、懐かしいので是非歌いたい」と快く引き受けてくれた。 曲を決めて各メンバーが家で練習し、最後の週末に一度だけ集まって音合わせをすることになった。 音合わせは社員メンバーで2時間ほどやってから、最後にコヤジュンさんに来てもらうというスケジュールだった。 まずは、それぞれが自分のペースで音出しを始めたが、久々ということもあるのか、初めてのメンバーだからか、皆おそるおそる音を出していて心許ない。 ギターは、たまたま私と同じ音楽クラブの先輩だったが、クラブの仲間からは「あいつは下手だ」と言われていた人だった。私には、どう下手なのかはわからなかったが。 ベースはまもなく調子を取り戻し、体全体でリズムを刻み出した。おそらく学生時代にバンドにいたのだろう。 ドラムは体格も良くて、派手にパフォーマンスをしたがっているようにも見えるが、途中で何度もリズムが大きく乱れたり、止まってしまったりする。全体を支えるドラムのテンポが乱れると、演奏には致命的な打撃になるので、大丈夫かなあと心配になってきた。 音合わせをしてみるとバラバラなままで、間違いも目立ち、ギターは途中で申し訳なさそうに肩をすぼめて後ろ向きになって弾き始め、ドラムも自分が間違うたびに悲惨な表情になっていった。 みんな内心イライラしていて、室内がどんどん険悪な雰囲気になっていくのがわかった。私も決して上手いわけではないが、こんなに合わせづらいメンバーは初めてだった。 何度か練習して、最初よりはマシになった頃、前座で歌う同僚が松任谷由実の「恋人がサンタクロース」を歌った。私は、これはカラオケみたいだなあと思ってしまった。よく歌えてはいるが、正直、どうしてもカラオケとしか感じられなかった。 私は責任を感じた。「わざわざ呼んだのに、こんなド素人の演奏ではコヤジュンさんに申しわけない。こんなのでは歌えないだろうなあ。不愉快な思いをして途中で帰ってしまうのではないだろうか・・・」 などと考えていたところへ、コヤジュンさんがドアを開けて「どうもー、はじめましてぇー」と元気よく入ってきた。 その瞬間、部屋の空気が変わった。開けた扉から、彼女の満面の笑みと元気な声とともに、陽の光が差し込んだ。 大きなステージで歌うことに慣れている彼女は、初対面の人たちでも気後れすることなく、和やかで親しみのある態度で接し、それでは練習を始めましょう、となった。 少したどたどしい感じで前奏が始まり、「コヤジュンさん大丈夫かな?入れるかな?」と思ったところで、彼女の第一声が発せられたその瞬間、 私を含めたメンバーと室内全体が一瞬ビクッとして、ギアが変わったのをはっきりと感じた。 それはバカン!と爆発したようだった。 コヤジュンさんの声量が半端ないだけでなく、素人では到底出ない響きが、それまであった室内の空気を吹き飛ばしてしまった。 そのインパクトはあまりにも強いためショックでもあり、私は鳥肌が立った。演奏が控えめで躊躇さえしていたメンバーも、私と同じように感じているのが伝わってきた。全員の血相が変わったからだった。 第一声で、全員が部屋ごとぶっ飛んだ。 ぶっ飛んで、突き抜けて、全員がプロ並みになってしまった。 おそるおそるは完全にどこかへ消えてしまい、演奏は突如気持ちよく楽しくなっただけでなく、楽器と自分がひとつになり、メンバーとひとつになり、演奏そのものになっていたからだった。 コヤジュンさんの声と私たちの演奏がひとつになると、私は肉体をそこに置いたまま、感覚全体がワーっと波立って広がっていくと同時に、完全に静止しているような異空間へと滑り込み、マインドが抜け落ちて、勝手に手だけが動いていた。 他のメンバーも、一緒にその異空間にいた。全員が一種の興奮と高揚状態にあり、演奏はイキイキとしていた。それまでの練習には一度もなかったテクニックやアドリブが、力むのではなく当然のように軽く楽しく入っていく。 全てがスムーズに流れて心地よく、質は高まり続け、演奏はクライマックス、恍惚状態へと入っていった。 それは、ドラムに最も顕著に現れた。 演奏がエンディングに向かっていく時、最後はドラムだけが派手になっていくので、私はじっと見ていたのだが、エンディングの連打、かき回し、締めは完璧だった。 手足をフルに動かしてドラムもシンバルも全部を叩きこなし、彼の顔面は紅潮していた。完全に「ゾーンの中にいた」と言えるだろう。どんどん高みへと昇っていき、プロ級というべく息を呑むようなパフォーマンスだった。 終わった瞬間、全員が放心状態でかなり長い間沈黙のままだった。 もう、それ以上のものはなかった。 完璧だった。 信じられない。これはなんだったのか? 心が震えた 驚嘆した 感動した 完璧すぎる それはなんと美しいのだろう! こんなことが起こりうるのか? 誰も何も言わなかった。言えなかった。 練習はそれで終わった。 もう、それ以上何も必要なかった。 最後に誰かが言った。 「コヤジュンさんって何者なのですか?あれは、あんなすごいのは、経験したことがなくて、もうすごいとしか言えない」 そう、すごいことが起こった。一瞬で全体が引き上がった。 コヤジュンさんが引き上げた。彼女の持つエネルギー、声の周波数で次元が一瞬で変化した。私たちは一瞬にして、一緒にその次元へとシフトした。 実は、私は昨年だったか、あるメッセージ(インスピレーション)を一定期間受け取り続け、この出来事を思い出すに至ったのだった。 それはこういうメッセージだった。 水は高い所から低い所へ流れる。エネルギーについても同じである。 他人や周囲に変化をもたらすために、外に対して意図的に何かをしなければならないということはなく、自分がどのようなエネルギーの状態か(波動が発せられているか)で、自ずと周りにも影響が及ぶ。 だからこそ、中心に留まりブレない高次の状態、つまりハートの泉から平安・喜び・感謝が溢れ出ているような状態であれば、溢れたものが流れて広がり、自ずと周りにも変化が起こる。 地球も世界も大変化の中にあり、混沌とした状態であるからこそ、それがとても重要となる。 「私一人では微力で何もできない、自分には何の力もない」と思うことはとんでもない誤解であり、一人の純粋な心から発せられるエネルギーは、とてつもない力を持っていることをほとんどの人がわかっていない。 そのことが私の心の中で何度も響いていた時に、たまたま読んでいた本(それはチャネリング本だったが)に、こんな言葉を見つけた。 「一人の高いエネルギーが1,000のネガティブなものを打ち消す」 ネガティブとは、おそれ、不安、競争、不足、欠乏、足りないという心理がベースになった構成を表しており、純粋なハートには、全てはひとつで、意識が拡大し続ける確固たるベースがあるのだ。 確かに、演奏しているみんなが楽器だけでなくその空間とひとつになり、演奏のレベルも体験の感覚自体も拡大していった。 プロにはプロのエネルギーがあり、影響力も大きいが、コヤジュンさんはプロではない。いや、何をもってプロとするかなど、本当は測れないものである。プロとか素人とか、そういう定義はどうでも良い。 コヤジュンさんが何か特別なことをしたというよりも、彼女は歌うことが好きでそれが喜びであり、そこから一心に歌うことそのものから発せられたものが、それまでそこにあったものを一瞬にして変化させ、周囲に内在していたものを最大限まで引き上げたということなのだろう。 大切なことは、それはコヤジュンさんだからできたということではなく、誰にでもできる、本来誰もが持っている能力であるということだ。 そして、コヤジュンさんの波動に触れるまでは、私だけでなく、おそらくメンバーそれぞれが、どうせ自分はこの程度だと思っていただろう。自分自身が、普段知っている自分を超えて、あんな完璧な演奏ができることに驚いただろう。 そのような偉大な能力もまた、本来誰にでも備わっているということだ。 イキイキのびのびと、喜びの中で一心に好きなことをやっている時間とそれをする人が増えれば増えるほど、本人の意識と並行して集合意識のレベルでも高いエネルギーが循環するようになる。 |