<「財産管理」という代物>
「面倒くさいなぁ・・・」と思った瞬間、私は向きを変える。するとそれは去っていく。いつしか面倒と思うことはしないようになった。 ズボラになったわけではない。面倒 = やりたくない = やりたいと思う気持ちがない、ということで、私の気持ちと一致していないので選ばない、というだけのこと。 以前は全部自分でやろうとし、無理をしてでも頑張ってやってきた。面倒くさいと思うことさえ自分に許さず、自分自身にかなりのストレスを与えてしまっていた。随分長い間、このパターンをやってきたのだったが、最近は考えるより先に、この「面倒くさい」が来てしまう。 それだけ自分に正直になったということだ(笑)。 「面倒くさい」が強い味方となると、そこからハートはさらに教えてくれる。 「どちらに意識を向けるかが大事だよ。『自分の気持ちと一致していないので選ばない』にフォーカスするのではなく、『自分の気持ちと一致したことを選ぶ』に最初からフォーカスするんだよ。これも練習。日々実践しているうちに慣れてきて、自分の内側の感覚と一致した時間が徐々に増え、どんどん安定してくるよ。すると起こること、体験することにも変化が現れるよ」と。 それをやり始めると、実際面倒くさいと思うことが減ってくるので面白い。そう思う状況にならないのか?それとも、以前は面倒と思ったことを今は面倒と思わなくなったのか? 多分その両方が起こっているのだろうが、エネルギーが下がることが減ってきて、何かがきっかけで下がってもまたすぐに元に戻れる。感覚がどんどん開いてきて、面白い体験が増えるのは確かである。 そんな私に、突然面白くないものがやってきた。 「財産管理」という代物。 <面倒くさいものがやってきた?> 子供もいないし家も持っていない。ものを所有することに縁がなかった私に、この年になって回ってきた親の財産の管理。 財産と言っても、世間から見れば大した額ではないだろうが、私は自ら進んで関わろうとは思わなかった。お金のことに法律が絡んで、価値、損得、権利、規制、規則、責任など、堅苦しいものが勢揃いする。 それらを考えただけで気が重くなる。難しそうで面倒くさく、私は触れるのを避けてきたわけだが、今回父と母の入所と併せて、それがやってきた。 先日の投稿ブログで、幾つもの信じられない展開があり、父と母が有料老人ホームへ超スピード入所した話を綴った。その中で言及したが、私は介護施設について知識もなく、何もわからない状態だったにも関わらず、結果的には必要な情報がもたらされ、全部サポートされて、与えられるべきものが与えられた。 今回、財産管理についても、自分で調べたり勉強したりしなくても、ある日、そろそろタイミングかな?という気配が訪れ、それに従って行動すると情報が与えられる展開となった。 これも波のようにやってきたが、父と母の入所とは違った種類の体験をもたらした。 財産管理に対して私が感じていた重みは最初からどこかへ吹っ飛んでしまい、「こんな大事なことなのに、本当にこんなことで良いのか?」と戸惑ってしまうほどの軽さと不思議な繋がりに驚く結果となったのだ。 ケアマネージャーさんが案内人として情報の入り口で迎えてくれたので、私はその入り口をくぐったわけだが、そこに新しい人々がエキサイティングな形で登場し、宇宙の計らいのようなものを感じることとなった。 さて、何がどのようにエキサイティングなのか。 そのお話をしよう。 <このご縁、面白すぎる!> ケアマネージャーさんが、相続に精通している保険会社の人に最近たまたま会ったということで、私にその人を紹介してくれることになった。まずは話を聞いて、話の流れで必要になった場合は、司法書士などの専門家に相談すれば良いのではないか、というケアマネージャーさんのアドバイスに私は従うことにした。 その保険会社の人がどういう人か、私は全くわからない。ただわかりやすく説明してくれ、裏話なども知っている人、ということだけを聞いていた。 私の頭の中には、世慣れた、というよりも、ちょっと世間擦れした話好きな小太りの中年男性のイメージがあった。スーツ姿で年は50代くらい。私はまな板の上の鯉状態となり、きっとグイグイ押され、訳もわからないまま何かに加入させられるのかも、と思った。 ところが、私の目の前に現れたのは、ほぼ普段着姿の30代女性(以下Yさん)だった。笑顔が爽やかで、ビジネスの匂いがしない。というよりも、彼女の素人っぽすぎる雰囲気は、保険会社の営業員に対する私のイメージとかけ離れていた。 Yさんと会った瞬間にスッと引き合うものを感じただけでなく、向かい合った時にハートが開いて自分から発せられるエネルギーが広がったので、私は「おやっ?」と思った。 ケアマネージャーさんも同席してくれ、ミーティングは打ち解けた雰囲気で始まったのだが、始まるや否や、私の口から不意に出たのは夫のことだった。 「私の夫はもともと法律家なのですが、アメリカ人なので日本のことはわからなくて・・・」 「私は財産管理についてわからないので教えて欲しいです」と言えば良いのに、なんで夫のことが出て来たのだろう?と内心と思った。 すると「そうなんですか。実は私、仙台の大学で法律を勉強しました。何だかご主人と共通点がありそうに思います」とYさん。 「ええっ?仙台!?」 ここでいきなり仙台が出るとは! 「私、仙台に住んでいるんですよ。どちらの大学を卒業されたのですか?」 なんと、夫が勤めている大学だった。 「えっ、私たち、そのキャンパスの前にある宿舎に住んでいます」 「ええーっ、そうなんですか?!」とYさんは驚きながら、アハハハっと笑う。 「Yさん、ご出身は三重県のどちらですか?三重から東北の大学へ入るというのは、珍しいですね」 私はてっきり三重の人だと思っていた。 「いえ、山形です。山形から仙台まで電車通学していました」 「ええーっ、山形ですかぁ。山形のどちらですか?」 「山形市です」 「そうなんですかぁ、私は山形が大好きで、時々行くんですよ。緑町の歯医者にも通ってます」 「実家の近所です・・・」とYさんは苦笑。 「ええーっ?わあ、不思議なご縁!!」 本題へ入る前に、ケアマネージャーさんそっちのけで、二人で盛り上がってしまった。ケアマネージャーさんは、あっけに取られている様子だった。そりゃあそうだろう。 「来たぞ、来たぞぉ〜!ケアマネージャーさん、やるなあ、またまた不思議なご縁を運んできた」と私はワクワクした高揚感に満たされた。 このように、ハートは楽しんでいた。一方、マインドは、相続についての説明といえども結局は営業が目的なのだから、相手がどこでどう出てくるのか見守ろう、と慎重さを保っていた。 <こんなに軽くて良いの?> ライフプランナーという肩書きのYさんは、実際とても誠実だった。相続シミュレーションの書類を作成し、選択肢を再確認するために、後日私と姉がいる実家へ来てくれた。 「先日、夫と伊勢神宮へ行って来たんです」と言って、Yさんが手土産を差し出したので、私は驚いた。100%ビジネスなのに、個人的なお土産っぽい。 姉もYさんへのお土産を用意しており、お土産交換になってしまった。 お茶菓子に私が仙台から持ってきたずんだ餅を出すと、「ずんだ、大好きです〜」と言いながらYさんは嬉しそうに頬張った。相続というシリアスな話であるのに、姉も私と同様、当事者感が薄く、結局3人の女友達がおしゃべりするような雰囲気のまま話し合いは終わった。 こんな軽くて良いのだろうか? 良いのである。 親の預金も最後にはいくら残るかわからないし、この先夫の仕事も住む場所も、現時点ではどうなるか考えてもわからないので仕方ない。 「この家があるからホームレスにはならないでしょう、くらいのスタンスでいれば良いんじゃない?この家に焦点を合わせるのではなく、自分が何をしたいか、どのように生きたいかを優先させること」と私のハートは言う。 ハートに意識を合わせていると、心配や不安になったり、ごちゃごちゃ考えたりはしなくなる。余計なことを考えてエネルギーを浪費するということがないので、楽でいられる。 <司法書士に依頼する> 結局、Yさんが司法書士を紹介してくれ、土地・家屋の生前贈与の手続きを進めることとなった。 ここからは司法書士にバトンタッチされ、私はYさんの役割はこれで終わったと思ったが、Yさんはその後も取次ぎ役としてこまごまと世話をしてくれた。 私は司法書士は当然県内の人だと思っていたが、紹介されたのはYさんが所属する大阪地域の方だった。請求書を見ると、三重までの出張料が記載されており、これは想定外のことだった。 結構な金額なので、以前の私なら悩むところだったが、素直に自分の期待とは違っていることを伝えると、Yさんがこう言った。 「もちろん、県内の先生もご紹介できます。ただ、この大阪の先生は結構有名で、引く手あまたで全国を飛び回っていらっしゃる方です。司法書士の経験が浅く、後でトラブルになるケースも多い中、この先生ならご安心いただけるということで、自信を持ってお勧めできます」 司法書士の選択肢は私にあった。 Yさんは口がうまい営業レディーと取るのか、誠実な人だと取るのか、という解釈の選択肢も私にあった。 私は、うちのこんな小さな案件でも丁寧に扱ってくれているYさんの姿勢を素直に嬉しいと思った。 そう思った瞬間、彼女が言った。 「それと、出張は回避できます。私がオンラインでの面談をお世話しますよ」 ということで、出張費がなくなり、Yさんの余分な仕事が増えた。だが、Yさんからの手数料の請求は最初から一切ない。 面談の場所もすぐに決まった。ケアマネージャーさんは、父と母が通っているディサービスの施設長でもあり、ミーティングルームを快く提供してくれた。 ディサービスの途中で父を呼び出すだけで良く、休ませる必要がないので、双方にとって都合良かっただけでなく、私はそこで母にも会えるので有り難かった。 <素早く切り替える> 面接の前日、私は老人ホームの部屋で父に言った。 「お父さん、家のことで明日司法書士と会うからね。家のこと覚えてる?」 父の目が泳いでいた。 「家?ここが家と違うか?どこのことや?さあ、わからん」 「お父さん、自分の家を建てて、長い間そこに住んでいたんだよ」 「・・・・」父は首を傾げていた。 「俺は施設には行かない、家に残る」と常々言っていた父は、今施設を家だと思っていて、自分の家のことは記憶にない。 家に残りたいという言葉を聞いて、私は、父は最期まで家にいたいのだから、そこから引き離すことは残酷だ、という考えを持ち続けていたが、それにこだわっていたら、置いてきぼりになるところだった。 1から10までの連続するアナログから、1か0、オンかオフしかないデジタルへと変化するように、父と母の脳からは過ぎたことは次々と消去されていく。 そのため、以前がどうであれ私はそれをゼロにして、たとえ今この瞬間が10分前と真逆であったとしても、それへと素早く切り替えることを余儀なくされた。 ここ数年の間にその度合いも徐々に高まり、私がイライラせず安定した精神状態を保つためには、自分が状況や相手に対して持っていた考えを捨てて、一瞬で切り替えるのが最良だと体得した。 その切り替えの訓練のおかげなのか、私の日常にも変化が現れた。全体的に軽くなっていき、日々がより滑らかに流れていく。 切り替えに重い感情が入る隙はなく、軽いほど切り替え易くなる。そして、切り替えた瞬間に前へと押し出されるので、軽い状態を保ったまま体験の質が加速的に変化していく。 父と母は認知症という形で、私を困らせているのではなく、逆に、私が古いパターンを抜けて、次のステップへと進む助けをしてくれていると私は思う。認知症を私の味方にできる視点が、またひとつ増えた。 <意表を突く出会い> さて、司法書士との面談の日となった。 ディサービスを抜け出してきた父は穏やかな様子で、Yさんときちんと挨拶した。落ち着いて堂々としているので、状況を完全に把握しているように見えるが、実際はどうなのか疑問である。 YさんがパソコンでZoomを立ち上げ、司法書士と父と私のオンライン三者面談の準備が完了した。 この日司法書士と初めて会うわけだが、Yさんから「引く手あまたで全国を飛び回っている有名な方」だと聞いていたので、どんな偉い人かと思って私は緊張していた。 その「有名な方」は、私の頭の中でこんなイメージがあった。 完璧な身なり、肩幅が広くどっしりとしていて、髪はグレーできちんと分けている、威厳のある雰囲気、いかにも頭が切れそうな60代くらいの男性。 Yさんの「今、先生がお入りになりました」の一声で、私はそのイメージを再び頭に描いたのだが、パソコン画面に現れた司法書士に意表を突かれた。 完璧な身なり → ノーネクタイで、セミカジュアル 肩幅が広くどっしり → 小柄 髪はグレー → 黒々 威厳 → ない 頭が切れそう → そうなのだろうが、そう思わせないというか、邪魔が入る 60代 → 30代 と、私の想像とはかけ離れた方が現れたわけだが、それよりも何よりも、画面に現れた瞬間、その方はどうしてもお笑い芸人にしか見えなかった。そう、お笑い芸人。 俳優の大東俊介さんと吉村大阪府知事を足して2で割ったようなお顔で、ニコニコ微笑んでいる雰囲気は、ご本人は普通であるのに、まるでお笑い芸人なのである。 その雰囲気に大阪弁のイントネーションで説明されると、真面目なはずなのに、私はお笑いの世界へと引っ張られてしまい、どこかでオチがつくのを密かに期待してしまっているのを、ご本人は気づいているだろうか? 事務所名とロゴマークをZoom画面の背景にしてデスクに座っている司法書士が、ステージの休憩時間に控え室からインタビューする芸人に見えてしまうと、丁寧に慎重にお話しされているのに、言葉が大阪弁の音とともに、私の中で自動的に楽しく軽い感じに変換されてしまう。そうやって、軽いまま進行していくのである。 しかし、ヒヤッとする場面もあった。 父は司法書士から名前と住所、生年月日を尋ねられた時、住所のところで「住所、住所、どこやったかなあ、へへへっ」と照れ笑いをしながらキョロキョロ周りを見回した。 「あっ、まずい」と私が思った瞬間、父の口からスラスラ出てきたのは、自分の生家の住所で、得意そうにしっかりと番地まで言った。 その場の空気が一瞬凍りついた。 私は仰天し、父が自分が贈与する家の住所を言えなければ、手続きは完全にアウトになるのではないか、と焦った。 しかし、そこはプロ。司法書士は何事もなかったかのように、住所を穏やかに誘導してくれた。 それにしても、父は私を自分の妹だと思っていたり、93歳にして生家の正確な住所が出てきたりと、私は驚くことばかり。しかし、驚くたびに、父への人間としての愛おしさが増すのだから不思議である。 Zoomが終了した後に、私は思わず言った。 「司法書士さん、お笑い芸人に似ていません?」 Yさんが声高らかに笑い、途中で部屋に入ってきて進行を見守っていたケアマネージャーさんも笑いながら言った。 「そうそう、『吉本です』って言っても通用してしまいそうな感じでしたよね」 やっぱり私だけではなかった。 <さらに驚くことが!> 相続という重みを感じることなく、こんなに軽く楽しく進んでいって良いものか、と私のマインドは立ち止まるのだが、「重いものにも難しいものにもする必要は最初からない」とハートは言う。 今回の親の入所にしても財産管理にしても、私は意外な展開に驚くばかりなのだが、最後にもうひとつ驚くことがあった。 提出する登記済権利証は、父が家を建てた51年前に作成されたものであるが、テーブルの上に置かれたその権利証の表紙を見たケアマネージャーさんが、「あっ、うちのおじさん!」と叫んだ。 表紙には当時手続きをした司法書士の名前が記載されており、なんとそれがケアマネージャーさんの叔父さんだったのである。 目の前の空間が渦巻き、私は鳥肌が立った。 <そらのトンネル> ゴールデンウィーク過ぎに実家に行ったところから、まるで別次元に入ったかのように、親と家のことで思ってもみなかったことが矢継ぎ早に起こり、あれよあれよという間に、私ははるか遠い場所まで運ばれてしまった感がある。 この3ヶ月の間に起こった出来事は、どれも中身はシリアスなことなのに重みはなかった。新しい人々との出会いと不思議なご縁はエキサイティングで、私のハートは弾んでいた。 起こったことのひとつひとつは全てあらかじめ計画され、お膳立てされていたとしか言いようがない。 展開したストーリーは、ものすごいスピードで前進していったにも関わらず、最後に突然51年前へ引き戻し、ケアマネージャーさんの叔父さんの存在が登場したというオチになった。 その時、私は「目の前の空間が渦巻いた」と言ったが、それはまるでここまでの流れという時間がクルンとひっくり返り、51年前という時間と繋がって円を成したような感じだった。 司法書士との面談が終わった後、私は車を運転しながら、前方の空にある不思議な雲に気づいた。それは「実家の生前贈与という大事なことなのに頭が動かず、あんな軽い感じで署名捺印をしたが、本当にあれで良かったのだろうか?」と、ちょうど私が考えていた時だった。 青空が広がり周りに雲はなかったので、その雲は目立っていた。 ほぼ横向きの筒状の形をしている。 「そらのトンネル?」 トンネルは、大きな口を開けていた。 そのトンネルの入り口付近には、1本の糸のような水平の雲があった。 「あれはこれからトンネルに入っていくのだろうか、それともトンネルを抜け出ようとしているのだろうか?」 雲を眺めていると、1本の糸が自分を表しているように見えてきた。 「そらは次元のトンネルを見せてくれている。私は入るのか、出るのか・・・」 頭は答えを出したがって混乱していたが、ハートはクリアーだった。 それはどちらでも良かったし、重要なことではなかった。 全体から見れば、ひとつの通過点に過ぎないほんの小さなこと。 変化に終わりはなく、意識は拡大し続ける。
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<予告>
長い坂を自転車で下っていく。角度は20度くらい。坂は延々と続き、スピードがどんどん加速していく。恐怖を覚えるほど凄まじい。 バランスを崩すと勢いよく飛ばされて、空中分解してしまうのがわかるため、微動だにできない。丹田に意識を落として、前方一点集中。この中心から絶対にブレることはできない。しかし、しっかりと一点に集中していると、面白いことが起きる。さまざまな感覚が開いていき、緊張の中にも奇妙な弛緩感覚が訪れるのである。 これは、数ヶ月前に見た夢だが、夢の中でこのようなリアルな感覚を体験した。 私にとって、この夢は予告であり、学習して感覚を覚えるために与えられた、と今でこそ断言できる。 数年前から様々なレベルでの内面のリセットが続き、それと並行して「同じこと、同じやり方をしていても仕方ない」という言葉がハートから強く響いていたり、大事なものを失ってゼロになって、心細いがスッキリ感があるという夢を見たりしていた。 さらに、たまたま観た動画から極め付けのような、次のメッセージが流れた。 「これから起こる変化に対して、それを受け入れるか否かの選択を一人一人が迫られているが、受け入れる選択をした場合、あらゆる面で今までとは全く違う環境・世界の展開の扉を開くことにもなる。あなたはどうするか?」 私は受け入れると即答した。 そのすぐ後から実際に展開したことは、上に挙げた要素が具現化したようなものだった。 <巨大な波> 今回の変化のフォーカスは、ズバリ「土台・構造」。それも大元のところ。 私に提示されたテーマは、親と実家であった。 やって来た波は、まるで数年分のエネルギーが、2か月という時間の中に凝縮されたかのように濃くてパワフルなものだった。私は、短期間にこれほどまでに物事は動くのかと、驚くほどの変化を体験した。 これまで数年間、私は穏やかな凪のような日々を過ごしてきたが、今思うと、この時のためにエネルギーを溜めていたのかもしれない。圧倒されそうなほど強烈であったがしっかりと踏ん張っていられたのも、その穏やかな時期に自分の軸が着実に強固なものになっていったからだろう。 起こった出来事のひとつひとつを辿っていくと、全てあらかじめ計画され、お膳立てされていたと言える。波は巨大で凄まじかったが、私はそれに呑み込まれるのではなく、大波にできたトンネル空間の中をくぐっていくサーファーのごとく、波(物事の進度)の速度と合わせて滑っていった。 <球が投げられた> さて、何が起こったのか。 今年2月に私はアメリカへ行き、帰国してから風邪に似た不可思議な症状が1ヶ月ほど続いたため、実家へ行く予定を延期せざるを得なくなった。すると、3か月半ほど会えないでいた間に、父の認知症が進んでしまった。 ゴールデンウィーク明けに訪れると、父が私を見る目つきが変わってしまっており、なんとなく様子が変だった。夜中に混乱した様子で突然私の部屋へ入ってきて、大声で私に質問し始めることもあった。その目つきも口調も、見知らぬ人に尋ねているかのようだった。 翌日も父は私のことがわからない様子で、誰なのかとしばらく考えていたようだが、ニヤッと笑って自分の妹だと言った。自分に娘がいることは覚えていなかった。さらに、幻視や幻聴も始まっていた。前回1月末に会った時は今までの父だったのに、短期間にこれほど変わるのかと私は衝撃を受けた。 在宅介護も徐々にレベルアップしていき、今年に入ってヘルパーさんがほぼ毎日入るようになったが、母の物忘れも激しくなり、できないことが増えて、父と母二人での生活はかなり限界にきていた。 私は翌日、日常での変化など報告がてらケアマネージャーさんと会ったが、これがひとつの起点となったようだ。会話の流れが、ごく自然に介護施設と財産管理のことになった。 「やっぱりきたかぁ」と私は心の中で思った。 長年実家から離れて暮らしているというのもあり、地域の介護については無知で触れることに抵抗があったため、私は踏み込むことをずっと避けてきた。財産管理にしても夫は日本のことはわからず、私が自分で調べたり勉強したりすれば良いのだが、面倒臭くてその気にはなれない。考えるだけで気が重くなり、放置してあった。 ところが最近、今まであったその抵抗がごく自然に緩み、私の内側で何かがかすかに動き始めた感覚があった。 そろそろかな? そのような微細な感覚は、具現化できる。ケアマネージャーさんから施設と財産管理の話が持ち出された時、私は内心ニンマリした。 何かことが起こったり心配事があったりした時、それをどう解決するか? 以前の私なら、そして多くの人が、どうしたら良いかと、おそらく頭で一生懸命考えるだろう。 だが、今回確実にわかったことがある。 私は何をどうするかなど、詳細はわからなくてよい。一生懸命頭で考える必要などなく、内側の感覚をしっかり掴むと、そこに意識を向けるだけで良い。内側の感覚は高次の意識でもあり、ポジティブなエネルギーに満ちている。そのポジティブな感覚を味わい、強めていくのである。 意識を向けるというのは、バッターボックスに立つようなもの。やがて球がこちらに向かってやってくる。それを待っていて、ギリギリのところまで引き寄せてタイミングよく打てば、球は高く飛んでゆく。 内側で今まであった「抵抗」という名の鍵が外れた感覚に意識を向けると、軽やかさがやってきて、ケアマネージャーさんに会って話したいと思う気持ちが自然に強まった。 私は、バッターボックスに立ったのだった。 実際、まず私がすべきことは、ケアマネージャーさんに会うということだけだった。話すことをあらかじめ頭の中で組み立てる必要はない。ただ、会ったら会話の中でシグナルが発せられるので、整えておいたアンテナでそれをきちんとキャッチすること。 ケアマネージャーさんの口から、すぐに「介護施設」、「財産管理」というキーワードが出てきた。それをキャッチすると、私は知識がないというスタンスで、この二つのキーワードを使って短い質問をするだけで良かった。私はバットを構えたのである。 「施設はどういうところがあるのでしょうか?」 「財産管理について、専門の人に依頼するのが良いでしょうか?」 すると、ケアマネージャーさんの口からこんな返事が返ってきた。 「うんうん、実はですねぇ、お二人(父と母)に合うと思う住宅型有料老人ホームがひとつあるんですよ。企業経営で抱え込みになっていて、入るとどこへも出られない所が多い中、そこは家族経営で規模が小さいので自由度が高く、家にいるように今まで通りディサービスに通えるんですよ。そこに入った人は皆さん、前より元気になっているんですよね」 「財産管理は早く動いた方が良いですよ。先日、たまたま初めて会った人がいましてね。その人は保険会社の人なんですが、相続に精通していて、わかりやすく説明してくれますよ。行政書士や司法書士にお願いするのもいいですが、いきなりよりは、まずはその人と会って話してみるのはどうでしょう?話の流れで必要ということになった場合は、その人は専門家と繋がっているので紹介してもらえますよ」 私の内側で「ピン!」と音がして、合致する感覚があった。話を聞いていると、相手の口からさらなるキーワードが次々に飛び出て、その都度「ピン」「ピン」「ピン」と音が鳴っていく。 音とともに、過去の一場面が映像として浮かび、未来の起こり得る事柄や場面へと移動する。そうやって、言葉以外の方法で完璧な情報が運ばれてきて、一点が遠く離れた他の一点へと繋がれていく。ああ、この五感を超えた感覚こそ、私が拠り所としているものだった。 ケアマネージャーさんには数年以上お世話になっており、父と母の性格や生活の実情をよく把握してもらっている。おすすめに乗らない理由がない。 球がこちらに向かってやってきた。 「おお、来た来た。この球は逃さないぞ。でも急ぐことはないな。年内くらいに動けば良いかな」と、私は思った。 ところが、ゆっくりとした球は変化球だった。カーブしたり落ちたりするタイプのものではなく、途中でとんでもない速度に変化するものだった。 <急展開> 仙台に戻った翌週、私は畑で作業をしていると、突然ケアマネージャーさんから電話がかかってきた。 父が夜中に二階の部屋で倒れ、起き上がることができずに、翌朝母が発見するまで倒れた状態だったそうだ。臀部を痛めたようで、父は階段を降りられず、二階で寝たきり状態になっているとのこと。 救急車を呼ぶほどのことではないらしく、徐々に回復するだろうが、またこのようなことが起こる可能性があり、ケアも限界に来ているので、これがホームへ入所するタイミングになるのではないか、という話だった。 「そうなんですか、父が今そんな状態なんですね」と言うと、突然ケアマネージャーさんの声色が変わった。 「実は、あのおすすめの老人ホームに問い合わせたところ、今「たまたま」2つ部屋が空いていて、入れるって言うんですよ。ただし、まずはお父さんが歩けるようになって、階段を降りられるようになってからの話ですが・・・いつ歩けるようになるかは、はっきりはわからないですよねえ」 私の胸が少しドキドキし始めた。 「そうなんですね、今空いているんですね。それは、どれくらい待ってもらえるものなのでしょうか?」 「うーん、入りたいという人がいれば埋まってしまうので、何とも言えないです。先に契約して押さえてしまうという方法もありますが」 「そうですよねえ、こちらの都合に合わせて待ってもらうなんてことは、できないですよねえ・・・わかりました、なるべく早く決めるようにします。とりあえず、まず実家に行って、父の様子を見に行きます」 私はそう言って、電話を切った。 今たまたま2部屋空いている・・・。たまたま、というのは、実はたまたまではないことを私は知っている。 ぼんやりと前方を眺め、「この状況」という空間に意識を向けた。すると、その奥の方から小さな扉が現れた。チャンスという扉・・・それがゆっくりと開いて、私をいざなっているように感じられた。 <認知症は味方> さあ、どうするか・・・。父と母の二人を一緒に入所させるタイミング・・・これは大きな決断なのである。自分のことなら自分で決めて責任を取るが、最後の段階にある親の人生を一変させるようなことを、私が親に代わって決めなければならない。そんなことは今まで一度もしたことはなく、緊張と不安が襲った。 父は家に執着があり、死ぬまで家で過ごしたいと兼ねてより言っていたが、認知症が進むにつれて、そのような執着は徐々に消えていった。母は早くから入所を希望していたが、2人で入所するのは経済的に無理だと決め込んで諦め、早く人生を終わらせたいとばかり言っていた。 母も認知症が進行しており、今では脳に残るものはほぼなく、説明を理解したとしても数分後にはゼロに戻ってしまう。何度試みても全く記憶に残らないため、話を積み上げることは不可能で、母自身も混乱して自分で判断できないことが多くなった。 1から10までの連続するアナログから、1か0、オンかオフしかないデジタルへと変化するように、過ぎたことは次々と消去され、父と母は常に「今この瞬間」にいる。 夜中に大喧嘩や騒動があったとしても、二人は翌朝には全く覚えていないことに私は驚いた。私が覚えている父と母の過去の多くが、すでに本人たちの記憶にないことに虚しさを感じたこともある。 しかし、それは私の感情であり、そこにとどまっていても仕方がない。その感情を受け止めて横に置くと、別のことが見えてくる。 実際、抜け落ちることで変化し続け、会うたびに二人は新しいバージョンの人になっている。私の父、私の母という定義を超えた存在へと変化していっているのである。 だからこそ、私は過去の父と母にこだわる理由はなく、今にフォーカスして、新しい選択をしていって良いのだと気づいた。それは、ずっと変われなかったことを変えるチャンスが与えられているということなのである。 私のハートが教えてくれるのは、「視点を変える」ということ。 認知症を敵ではなく「味方」と捉えると、視野が広がり、行動しやすくなる。過去の記憶や重い感情に引っ張られることなく新しく選択し、軽く前進できる。 さらに、それを後押ししてくれる出来事もあった。 <絶対的な愛と信頼> ある日、夢の中に父と母の魂が現れた。それは今の状態とは大違いだった。生命エネルギーで若々しく(40〜50代)肌が光り輝き、穏やかに微笑む愛に満ちた父と母だった。 二人の存在は絶対的な愛そのものであり、私たちの魂は常に絶対的な信頼の中にある。以前にも違った形でそれを見せられたことがあるため、私は知っている。それは懐かしく、三次元の世界で出会うことはないだろう心の底から安心できるエネルギー。 それこそが本当の姿。 例え父が私のことをわからなくなっても、母の頭が混濁しても、それは肉体レベルの父と母の表面的な状態に過ぎない。その部分だけを見ていると、否定的な感情に左右されがちになるが、本当の姿を知っているから、表面がどう変化しようと揺るぐことはない。 本当のことを知ることは、力を得ることである。 実家に到着すると、聞いていた通り父は二階で寝ていた。ここ10日ほどずっとほぼ寝たきりで、足腰がさらに弱くなって立つこともままならなかった。 寝込んでいる父の姿を見た時に、夢が見せてくれた魂のその絶対的な信頼のことを思い出し、私はその感覚で父に接した。 トイレに行きたいという父の両手を持って立つ介助をすると、立てなかった足に徐々に力が戻ってきて、父はゆっくり歩き始めた。寝込んでから一人で歩いてトイレに行けるようになったのは、この時からだったと後でわかった。 ちょうど姉も来ていたので、二階にお茶とお菓子を運んで、三人で父の実家や先祖の話をした。父は嬉しそうに聞いていたが、子供の頃のことを思い出したのか、私と姉を自分の妹たちだと思ったようで、こんな機会(きょうだいが揃うこと)は滅多にないことだと興奮した様子だった。 「さあ、もう寝とる場合やない。俺、下へ降りていくぞ」と言うと、父は自力でいとも簡単に階段を降りてしまった。 ケアマネージャーさんの穏やかな声で緩やかに飛んできた球が、途中でとんでもない速度に変化したと言ったが、物事が繋がりあって勢いを増し、結果的には関与した私たち全員が一体となって加速させたようなものとなった。おそらく、最初からそのように計画されていたのかもしれない。 それまでずっと動けなかったのに、父は私が会いに部屋へ入った後歩き始め、その2時間ほど後には一人で一階に降りた。父の内側で変化が起こり、意志が足を動かしたのだ。 こうして父が一階に降りたことで、物事が一気に動いた。 <不思議なご縁?> その翌日、私は姉と一緒に老人ホームを下見がてらに訪問した。施設というよりもアットホームな民宿のような落ち着ける雰囲気で、姉も私も気に入った。 施設長さんは年配の女性で、気さくで親しみやすい人だった。ニコニコしながら、「私の父もお父様と同じ名前なんですよ。しかも漢字まで同じ」と言った。 「!」 それが私の反応だったが、「!」はさらに続いた。 同席していた施設長の息子さんは、私の友人のパートナーと同姓同名だったのだ。それだけでなく、その息子さんの奥様はその友人に雰囲気がそっくりだったので、このカップル同志の繋がりはなんなのかと不思議な気持ちになった。おまけに、奥様の名前はみえさんで、友人の名前はりえさん。 これは宇宙のジョークか? それとも、「これでいいのだよ、ご縁があるのだよ」というサインなのか? みえさんと話していると、りえさんと錯覚してしまうほど雰囲気が同じで、相手も何かを感じてか、もう最初から知っているような親しみが互いの中に生まれた。 やっぱりご縁がある。 さらに、同席していたケアマネージャーさんが、決定づける言葉を発した。 「順子さんにはお知らせしていなかったのですが、実は、先日施設長さんを倉田さんのお宅へお連れして、お父さんとお母さんに会ってもらったので、もう既に全員が顔合わせをしているのですよ」 「あぁ〜」 腹にストンと落ちた。 ということで、施設長さんからの案内と説明を聞いた後、その場で仮契約になり、その9日後には父と母が入所という超スピード展開となった。 9日後の入所日は令和6年6月6日。父の部屋は6号室。 「全部6ですか!これ、なんかありますね!」契約書にサインしながら、私は思わず言った。 おまけに、その日は新月だったということを後で知った。 「新月までも来たかあ!!」 やっぱり宇宙は完璧!全ては順調に起こり、順調に進んでいるということ。 この後私は仙台に戻り、1週間後には、入所を手伝うためにまた実家へ行くことになったが、1ヶ月の間に3回往復することになる。 「なんだかすごい密だなあ〜」 <混沌の中から出ずる喜び> 父は状況を全く把握していない様子だが、母は何が何だかわからないながらも、自分たちが老人ホームへ入ることになったということだけはわかっている。入所日はいつなのかと毎日何度も聞いてくるが、教えても聞いたそばから忘れてしまうので、なすすべがない。 「それで、私たちはいつ入るの?」(20回目くらいの質問) 「・・・明日・・・」 「・・・・」 「そうだよねえ、お母さんにとってはその質問は初めての質問なのに、いきなり明日と言われたら黙ってしまうよねえ。突然すぎるよ、私もこの速さにびっくりしているんだもん」と、私は心の中で呟いた。 ケアマネージャーさんは、どんどん押してきた。 「今がタイミングです。あまり間は空けない方が良いでしょう。ディサービスの帰りにお二人を直接新しい場所へお送りします。とりあえず必要な身の回りのものだけを運んで、後からゆっくり整えていけば良いです」 施設長さんも素早く受け入れ体制を整えてくれ、私たちは急がされた。 なんでこんなに急に、と思っても仕方がない。今、これが流れなのだ。 実家のタンスをひっくり返し、持っていけるものを探す。洋服も下着も持ち物も全て古いものばかりで、買い替える必要がある。本人たちは「先が知れているのだから新しいものはいらない」と新調することを拒み続けてきたが、ツケが回ってきた。 入所までの準備は1日しかなかったが、何が必要かを素早く判断し、全てのものに名前を書かなければならない。これがかなり大変で、入所というと大抵は一人だが、うちは二人なので、作業が2倍になる。 「こういうのって、普通は何ヶ月も前にわかっていて、徐々に準備していくもんだよねえ」油性ペンで下着のタグに名前を書きながら、姉が言った。 家の中はひっくり返り、ほこりだらけ。父と母が出た家の中は、まるで夜逃げした後のよう。こんな展開になろうとは・・・。 それと並行して、財産管理についても具体的に動き出したため、目まぐるしさがさらにエスカレートし、現実が、坂を猛スピードで下っていく以前見たあの夢のようになってしまった。 あの夢の中で私は一点集中を余儀なくされたが、本当にそうだった。他ごとを考えている暇などなく、目の前に現れることだけに集中して、ひとつひとつこなしていく。 だが不思議なことに、過密スケジュールに緊張が続いて心身ともにクタクタなのだが、深奥からワクワク感が湧き上がってくる。忙しすぎるが楽しい。 「私、こういうの好きかも」 離れたところからこの一部始終を見守り、面白がっている自分がいた。 <思いがけない癒し> 面白がっているのは、私だけではなかった。 普段落ち着いている姉も、キャッキャ言いながら何かしら楽しんでいる様子。 それを見ていて思った。私はこれほどまでに、姉と協力しながら一緒に何かをやったことは、今まであっただろうか?実家・自分たちの父と母というテーマで、これほどまでに姉と話が盛り上がったことはあっただろうか? この満ち足りた感覚はなんだろう?沸々と湧き上がってくる喜びは、なんだろう? 姉は子供の頃より家族から少し距離を置いた存在であり、私は姉のことはあまりよく知らなかった。その姉が今とても近く感じられる。 家族に起こる出来事で、家族がより親密になる。突然やってきたこの変化は、強力な癒しの力を持っていた。入所という出来事は表面的なことで、それにまつわる内面の変化こそが、私たち家族それぞれが求めていることなのかもしれない。 今までずっと父と母がいた家から、突然二人がいなくなった。この家は突然変わってしまったが、その空間に強く感じられるものがあった。 それは、家族に向ける愛、家族で分かち合う愛。 父と母がもう家にいなくても、そこにあり続け、消えることはないと私は思った。ハートが膨らんで、温かいものが込み上げた。 変化があってこそ気づくことがあり、内面が成長していく。だからこの変化はギフトなのだと思うと、ハートはさらに開いてゆく。 そしてさらに、信じられない変化が起きたのだった。 <変化はより良くなるために起こる> 日頃、父は朝10時過ぎまで寝ていることが多く、朝食を摂るのは昼近くの時間になっていた。起きた後も、部屋の片隅で椅子に座って一日中ほぼ寝ていた。ディサービスは週2回昼からの半日がやっとで、通所は億劫だが、母が行きたがるので従っていた。 ケアマネージャーさんは朝9時から始まる1日のディサービスを何度も勧めたが、父も母も断り続けた。二人とも就寝は夜中近く。全てが遅い時間にずれ込んだ生活を送っていたのと、体が思うように動かないので朝手早く支度ができないし、したくないということで、二人にとって1日のディサービスは絶対不可能となっていた。 それが、老人ホームでは朝食は7時開始。ディサービスは月曜〜土曜の週6日で、9時前には施設から迎えが来る。夕飯は4時半から5時の間というスケジュールになった。 二人にとって、これはもう天地がひっくり返るような変化だ。 通所は、まるで会社に出勤するようなもの。いや、会社は通常土日は休みなので、会社の方がまだ楽だ。 人生最後の段階で、こんなハードな生活になるなんて! 姉も私も驚いた。 毎日朝7時に起きるのも無理なのに、7時に朝食なんて、果たして二人はやっていけるのだろうか?と、私はふと心配になった。 入所して3日後くらいに、私はケアマネージャーさんに連絡すると、こんな返事が返ってきた。 「お二人は、毎日きちんといらっしゃっていますよ。私も大丈夫だろうかと最初心配だったのですが、非常に良い雰囲気です。思い切って動いて大成功です」 私は仰天した。 本人たちは、あれほど無理だ無理だと言っていたのに、きちんと起きて朝食を摂り、ディサービスには一度も休むことなく行けているなんて。一体、父と母はどうなってしまったのだろう? 「そこの老人ホームに入ると、皆さん家にいた時よりも元気になるようですよ」とは、本当のことだった。生活が正され、健康的になるのだ。 先週また両親に会ったが、二人とも元気そうで、雰囲気がなんとなくスッキリしていた。 「入所して2ヶ月近くになりますが、お二人はディサービスに1日も欠かさずいらっしゃっていますよ」とケアマネージャーさん。 「お父さん、お母さん、すごいじゃない!」と私は心の中で二人を称賛した。 <喜びを創造する> たまたま見た動画で、ある女性が「これから起こる変化に対して、それを受け入れるか否かの選択を一人一人が迫られているが、受け入れる選択をした場合、あらゆる面で今までとは全く違う環境・世界の展開の扉を開くことにもなる」と言い、私はそれを受け入れると即答したが、気づくとその通りになっていた。 変化は、今までよりも良くなるために起こる。 これは本当のことである。 実際、様々なことが変わった。 父と母が新しい場所に移り、新しい生活が始まり、ケアが行き届き、今までより安心できる環境になった。何よりも、二人の状態があらゆる面で以前より良くなった。 姉と私は、親や家のことで相談し合い協力し合うようになり、関係が密になった。 実家の近所の人々が見守ってくれており、縁が薄くなっていた人々との関係が戻ってきた。懇意にしてくれているおじさんは、私が実家に行くたびに駅まで車で送迎してくれたり、庭の除草をしてくれたりする。 ケアマネージャーさんとも施設長さんとも、いつでも気軽にやりとりし、相談できる関係になり、私は介護という新しいファミリーの一員になった。 今まで重荷にしか思っていなかった実家に対する意識に変化が現れ、綺麗に整えて大切にしてあげたい、有効に利用したいという前向きな気持ちになり始めた。 気づいたら、色々なことが既にそうなっていた。私は、今までとは違う環境・世界の展開の扉をくぐったのである。 新しい人々との新しい関係。 家族や馴染みの人との新しい関係。 新しい環境。 古い実家への新しいレベルの意識。 どれも、まさかこんな展開になるとは夢にも思っていなかった。 変化はより良くなるために起こることを知っていれば、恐れることはない。 開かれていく先には常に新しい喜びが待っており、喜びに意識を合わせることで、それはさらに拡大していくことを、私のハートは私に教えてくれる。 私たちは、喜びを創造する存在なのである。 絵に描くことはパワフルである。描いた後に、想像を絶する展開を体験したことを前回のブログに綴ったが、今回はそれとは異質な体験についてシェアしよう。 前回は、周りの環境が広がりをもって変化していく体験であったのに対し、今回は肉体を通した深い霊的な体験である。 それは、3月にシアトルで友人のマッサージを受けた時のこと。 だが、いきなりそこへ行く前に、順序を追って話す必要がある。というのも、日々の流れの中であったこと、自分がやったことなど、それ自体は個々に独立しているが、全てのことが数珠繋ぎのように繋がっているからだ。 そのような繋がりは、記憶の中で一貫したテーマのもとに吸い寄せられて繋がっていき、時を経て、プロセスであることに気づくものである。今回、私はアメリカから帰国したタイミングで、なんとも興味深い数珠繋ぎに気づいた。 その始まりは2月に遡る。 ある日、夫の仲間とのランチに参加したら、話が盛り上がり、ひょんなことからその後、みんなで鹽竈(しおがま)神社へ行くことになった。鹽竈神社は陸奥国一宮という由緒ある神社で、仙台から車で40分ほどの場所にある。 これまでに何度か参拝したことがあり、今回は何年かぶりで訪れたのだが、境内には二社あり、拝殿も左宮と右宮だけでなく別宮もあるので、全部回ると何が何だかわからなくなってしまう。 それでも、ここは他と違った確かな感覚がある、という場所があり、今回もなんとなくそこにエネルギーを感じた。何か温かいような、馴染みがあるような、そんな雰囲気である。その場に立つとしっくりくるし、ちょっと厳かな気分にもなる。 鈴を鳴らして丁寧に二礼。二拍手を終えるか終えないかのところで、突然声がした。 「道を開け」 その言葉は、外からと私の内からとの両方で響いたようだった。手を合わせてハートにフォーカスしようと思う前に不意を突かれ、それもあまりにも短い言葉だったので 私は「へっ?」となってしまった。 またしても鶴の一声だったわけだが、実はこの言葉は初めてではなかった。 かなり前に、三重の実家近くにある猿田彦大神を祀る椿大神社でも、同じ言葉を何度か受け取ったことがあった。 そのため「あれっ猿田彦さん?今の猿田彦さん?・・・でもここは鹽竈さんだよねえ」と混乱し、あなたは誰?と思わず青空を仰いでしまった。 そこは別宮で、主祭神の鹽土老翁神(シオツチオジノカミ)が祀られており、鹽土老翁神は潮路を司る神だと知った。 「そうか、猿田彦さんとこのおじいちゃん神様は『導く』というところで共通している。だから猿田彦さんと間違えそうになったんだ」と思った。 「それにしても、またしても来たか、この言葉。う〜ん、道を開けって、具体的に私は何をするのだろう」 数年ぶりにまた受け取ったこの言葉に重みを感じ始めると、緊張してきた。私は、こういう時に正しくやらねばと考える癖がある。 いやいや、そうではない。今の私は、その癖があることをよ〜くわかっている。 緊張に違和感を感じたので、考えるのをやめて、その後はただゆったりとくつろぐことにした。 翌朝、その「道を開け」という言葉について、ガイド霊たちに助言を求めると、ハートからこんな言葉が流れ出た。 「愛ある意図、それ自体が光の道。 何かをするということよりも、その光の道をイメージし、その上に自分が立ち、自ら光を放ち、光に包まれ、その道がずっと先まで伸びているイメージをしてごらん。 道はどんな色? そこから始めて、イメージを絵にしてみると良い。インスピレーションで付け足していってごらん」 そうして出来上がったのが、この絵だった。 3月1日、私はシアトルで友人のマッサージルームにいた。「ももちゃん」と呼んでいるその友人は、マッサージ歴24年で、今ではセッション回数述べ1万回を軽く超えるほどの大ベテランだ。 ももちゃんがマッサージスクールを卒業して間もない頃から、私は彼女のマッサージを受けており、長い付き合いになる。 私のマッサージの時に、彼女は必ず様々な情報を映像で受け取るらしく、終わった後で詳しく描写して教えてくれる。彼女によると、そのように映像が現れる人はかなり限られているとのことで、彼女と私はよほど相性が良いのだろう。 今私は日本に住んでいるので、ももちゃんのマッサージは半年に一度シアトルに行った時だけになるが、毎回体験が深まっており、マッサージを受けている間に、私も体感とともにクリアーに映像を受け取るようになった。 この2〜3年の間に、マッサージは彼女自身の様々な体験や気づきを通してさらに進化しており、私の感覚も以前より開いてきているので、私が受け取る映像の質も高まっている。 ディープティシュー(深部組織)マッサージが軸で、そこに霊気、アキュトニックス音叉、カッピング(吸い玉)、精油を組み合わせ、クライエントに合わせて使うやり方は、彼女が独自に編み出した統合マッサージ。 心地よい音楽が流れる中で、彼女のマッサージを100%信頼して身を委ね、ただ受け取ることだけにフォーカスする心地よさは格別である。 毎回素晴らしいと思うのだが、今回のマッサージは、前回とは全く違ったパワフルな体験になった。レベルアップしたというか、次元が違うというか、それは、時間をかけてそしゃくする価値のある大切な体験であった。どこまで理解を深められるのか、おそらくさらに時間を経てこそわかることもあるのだろう。 そもそもマッサージって何? 調べてみると「血液やリンパの循環を改善し、新陳代謝を盛んにして、神経や筋肉の機能を促進する手技療法」とあるが、それはほんの入り口である、と思わざるを得ない。 というのも、こんなことがあるのか!ということが起こったからだった。 それは、マッサージの最後に差しかかった時のこと。 仰向けの腹の上に私の両手を持ってきて、置かれた私の手に重ねるように彼女が優しく触れた瞬間、彼女の手に続いて、私の足元までいくつもの手が置かれていったのだ。 私は、自分の脚に沿ってずらりと並んだ手を見ていた。白っぽく柔らかそうな手。一体何人の手だろう。眺めているうちに、足先へと向かって置かれる手は、増えていった。 その時、昔読んだバーバラ・ブレナン著の「光の手」を思い出した。そこには、施術台に横たわった人と施術者をサポートする複数の存在(スピリット)たちの姿、そして発せられているエネルギーを描写した挿絵があった。その絵を見た時に、私は衝撃を受けたのを覚えている。 まるでそれだった。その光景を今、自分が体験しているのだ。 見えない存在たちの手だけが見えている。それは奇妙な光景かもしれないが、私は感動した。 なぜなら、それらの存在が連帯して、この瞬間に、ももちゃんと並んで一緒に手を置いていたからだ。そのどの手にも、ひたむきな意図を感じた。それを愛というのだろうか。 ああ、やはり私たちを、こんなに多くの愛あふれる存在たちがサポートしてくれているのだ。 見えなければ知らないし、わからない。これらの存在たちは、自分たちのことを知ってもらいたくて、認めてもらいたくて、感謝されたくて、やっているのではない。私たちを見守っていて、常にただ無条件に愛を注いでいるのである。 そのことが伝わってくると、有り難くて胸が熱くなった。 するとその時、丹田のあたりから白い光のラインが現れ、両脚の間を通って足先へと向かって伸び、光はさらにその先へと伸びていった。 「これは、まるで道ができていくみたいだ・・・ああ、光の道!」 私は驚いた。 これらの手によって白い光の道ができ、それがずっと先へと伸びていたのだった。 その光のラインを眺めていると、大地を歩く私の足からまっすぐ光の道ができており、その先もずっと光で照らされ、私は導かれている、と感じた。 一歩一歩大地を踏み締めて歩くこと、この地球で生きること、光の中に留まり、その道を歩くこと。 「そうなんだ、やっぱりそれこそが私であり、私が望んできたことなんだ」 そう確信し、自分の深奥と一致した安堵感を味わったその時、さらに驚くべきことが起こった。 丹田が振動し始めると、今度はその振動とともにそこから垂直にググググッと何かが上がっていく感覚があり、丹田と空とを結ぶ細いエネルギーラインが現れた。 そのラインは最初糸のような細さから、次にはロープほどになり、強まる感覚とともに回転しながら勢いを増してどんどん太くなっていく。最後には、土管くらいの太さになっていた。ヘソのあたりが振動しながら皮膚が吸い上げられていくような体感さえあった。 私は丹田から水平に伸びる光と、垂直に伸びる光の両方をはっきりとこの目で見た。 まずは地に、そして天に、私の体とエネルギーがその二方向とバランスよくきっちり繋がった感覚があった。 「道を開け」という言葉が浮かび上がった。二箇所の神社でそれぞれ受け取った言葉であったが、足先へ伸びる水平方向のエネルギーは、潮の路を司る鹽土老翁神を思い起こさせ、丹田から昇る垂直方向のエネルギーは、猿田彦大神を思い起こさせた。 「マッサージでこんなことが起こり得るのか!」 それは肉体を通した強烈な霊的体験だった。 マッサージとは何なのか? 体とは何なのか? どこまで深く体験できるのか? テクニックだけでは到底得られないものがあり、それは計り知れないほど奥深いものなのかもしれない。 今回のこの体験は、施術者であるももちゃんの意識・周波数と、受ける側である私の意識・周波数が引き合って、その対流の場の中で起こった。体感があり、実際に見たので、それは確かに起こったのだ。 いや、起こるというよりも、創造されたという方がしっくりくる。ももちゃんと私の通常意識を超えた領域を巻き込んだその場と、そこであったすべての体験が、宇宙とももちゃんと私との共同創造である、と私は思うからである。 肉体は決して下等なものではない。驚くほど高度に開かれた領域への入り口であり、その肉体を通して得られる霊的体験は、純粋な驚異と喜びであることを、私は体験により知った。 足先へと伸びていった光の道の光景に、見覚えがあった。 2月に自分が描いた絵だった。目の前に開ける道、同じ構図ではないか!さらに、道の両側には私を見守る存在たちがいて、私の頭上には私を導く鳥がいる。 この絵とマッサージでの体験が、実質的に一致した。絵描かれたエネルギーがそのまま肉体を通じて現れ、描いた世界を現実レベルで捉えることになった、とも言える。 そのことに気づいた時、存在たちと私のハートが一致した場所から、再び流れてくる言葉があった。 「愛ある意図、それ自体が光の道。光が道を開くのである。 何かをするということよりも、まずは、あなたという存在そのものが光であることを自覚し、自ら光を放ち続けなさい。 あなたは、肉体を持った創造し続ける霊的な存在。 あなたがそこにいるだけで、周りに光が及び、自ずと変化が起こる。一人一人が、もともとそれほどパワフルであるということを、決して忘れないで」 素晴らしい体験をくれた、ウノシマモモエさんに感謝を捧げます。 <(1)のエピソードはこちら > 私が住む宿舎とその周辺の風景を絵にした後、驚くようなことが起こり始めた。
まず、敷地の除草作業の料金が突然2倍以上に跳ね上がり、共益費から捻出するのが困難になった。共益費の値上げも検討されたが、何も決まらないまま業者への依頼も止まり、草は伸び放題になって敷地はさらに荒れた。 その状態が1年ほど続いたある日、見かねた一人の住人男性が、小さなカマで草刈りを始めた。仕事を終えた後、毎日夕方になると、草刈りを始めるのである。よほどの雨でない限り、平日も週末も夏の暑い日も休むことなく、広い敷地を部分に区切って、毎夕黙々と草刈りをする。 大変なご苦労で気の毒に思うのだが、キッチンの窓から見えるその男性の作業をしている後ろ姿をじっと見ていると、草刈りはストレス発散になっており、瞑想のようでもあり、楽しんでいるようにさえ感じられた。 しかし、敷地は広すぎて一人では全く手に追えない。刈った場所もすぐにまた草に覆われ、イタチごっこになってしまう。 そのような一人での作業が1年以上続いた後、やはり限界なのだろう、共益費で草刈機が購入され、それからは以前よりも効率が上がった。 やがて、ボランティアを募ることになり、2名が加わり、担当場所を決めて交代で作業するようになった。 業者は年2〜3回であったのに対し、ボランティアチームは頻繁に草刈りをするので、以前腰の高さまで伸びた草は常に短くなり、芝生状態になった。 すると、中庭で子供たちが遊ぶようになった。今までは、一角で畑をしている人以外はほぼ立ち入ることはなかったので、いつもしいんとしていたが、少し活気が出てきた。 週末に、キャッチボールやバドミントンをする親子が現れた。コロナ期には、夏の夜に中庭にテントを張って、合同のキャンプをしたりする家族も現れた。自粛生活が強いられたその時期に、外で話す人の声や元気よく遊ぶ子供の声が聞こえるのは、どれほど癒しになったことだろう。 しかし、子供が集ってきてサッカーをするようになると、在宅勤務の住人や、ボールがバルコニーに飛んでくる可能性のある下の階の住人から、苦情が出るようになった。 そこで、草刈りを始めた男性が、中庭とは別の場所に砂場やベンチのある「子供広場」の設置を提案し、PTAの親たちも参加して作業が始まった。 その頃、以前より中庭で畑をしていた下の階のTさんから、畑ができるスペースが余っているがやらないかと、私は声をかけられた。シアトル時代に長い間市民農園で野菜作りをしており、こちらの周辺にはそのような場所はないので残念に思っていたが、チャンスが到来し、私は即OKした。 Tさんの畑の隣に3つほど畝を作り、畑作業をしていると、Tさんもやってきて、私たちは、一緒におしゃべりをしながら畑で時間を過ごすようになった。 あとでTさんが教えてくれたことなのだが、スポーツジムに合唱コーラス、生協の集まりなど、ほぼ毎日あった活動がコロナで全て中止になり、人と話すことがなくなってしまったそうだ。 その上、出張が多かったご主人が在宅勤務になり、家が窮屈になっただけでなく、ご主人が部屋から出られないほどオンライン会議で忙しくなると、Tさんは女中のように部屋まで食事を運ぶことに嫌気が差し、鬱状態になっていたところ、畑に出ると私がいておしゃべりできることが楽しくて、随分救われたとのことだった。 私は目の不調でそれ以前から自粛的な生活が続いていたし、夫は日中自分の研究室で過ごしていたので、Tさんのように鬱状態になることや、人と話すことを強く欲することもなかったが、活動的な人にとっては、この変化はかなりのインパクトだったことが、Tさんの気持ちを直に聞いたことでよくわかった。 中庭で遊んでいた子供たちが子供広場へと移ると、今度は、幼い子供が砂場で遊ぶのを見守る母親の姿も現れ始めた。 宿舎は入退去が多く、海外からの居住者も増えて、近所への関心も付き合いも薄い。毎日子供を遊ばせている間、ずっと一人でベンチに座ってスマホを見ている母親の姿は、私の目には孤独そうに映った。 すれ違っても目を合わさないようにして挨拶しない人もいる。住人数は多いが、それぞれがそれぞれの箱の中にいて、交わることがない。それは今や当たり前の光景なのだろうか。なんだか寂しい。 そこで、私は畑作業をしている時など、自分から声をかけることにした。実際、これまで声をかけられて迷惑そうにした人はいなかったどころか、ほとんどの人が嬉しそうに話をする。 私は、毎日子供を連れて中庭にやってくる母親と立ち話をするようになり、幼稚園の息子さんは、植物を観察したり、ダンゴムシや青虫を捕獲して家で育てたりするのが好きなことを知った。息子さんは妹と一緒にやってきて、私に虫を見せてくれたり、幼稚園で作ったものや、お母さんに買ってもらった手袋などを見せてくれたりした。 畑の畝の間を歩き回り、苗を指差して、「これはナス!」「これはピーマン!」などと名前を当てる男の子もいる。その子は、週末になると、父親と一緒に中庭に出てきてボール遊びをしたり、芝生状態になった草の上で見事な逆立ちを私に見せてくれたりする。 その後、同じ年くらいの子供を連れた親たちも交流するようになっていった。中庭のビワや柿を一緒に採ったり、分けたり。今では、子供同士が国境を超えて仲良く遊ぶ姿も見られるようになった。 春に、中庭の反対側で土を耕し始めた人がいた。隣の棟に住むドイツ人の男性で、花園を作るとのことだった。 「色々な花をここに住んでいる人に見てもらいたいんです。コロナでみんな外に出られなくて、毎日がつまらない。花を見て楽しんでもらいたいんです」と流暢な日本語で話した。 彼は、花だけでなく、クランベリー、ワイルドベリー、ラズベリー、その他ドイツで育つ日本では珍しい植物を育て、立派な花園にした。 「クランベリーの苗は1つ800円くらいします。インターネットで注文しました。10くらい買って、かなりお金をつかいました。でも、私はここを美しい場所にしたい」 苗だけでなく土も肥料も自費で調達し、草取りや水やりを欠かさず、労力を惜しまず、この中庭で黙々と花園を作り上げる。 「皆さんに綺麗だなと見てもらえれば、私はそれで満足です」 この男性の心の広さに私は感動した。 一方、チームでの草刈りが軌道に乗り始めると、あの草刈りを最初に始めた男性が、今度は敷地の至る所に花の苗を植え始めた。 各電柱の根本にパンジーやビオラの寄せ植え、フェンスに沿ってマリーゴールド、百日草、ダリヤ、マーガレット、チョウチンカズラ、アサガオなど。子供広場にはグラジオラス、タチアオイ、ユリをはじめ、色とりどりの様々な花が咲き誇るようになった。 すると、夏の早朝など、それらの花に自主的に水やりをするPTA の母親たちの姿を見るようになった。 変化はそれだけにとどまらなかった。 私の棟の2階に住む単身赴任のバングラデシュ人男性は、バルコニーでナスやトマトの栽培を始め、並べる苗の数が増えていった。 そのちょうど上に住む同じく単身赴任の日本人男性は、夫と私が引っ越してくる前からいたので、10年以上住んでいることになるが、突然バルコニーで花を育て始めた。 最初は数鉢だったのがいつの間にか3段の棚にぎっしり並ぶほどになり、広いバルコニーのスペース半分ほどが花でいっぱいになっている様子を、中庭から見ることができる。 この男性はTさんの隣に住んでおり、Tさんによると、最初に少し買ってバルコニーに置いていたら可愛くて仕方なくなり、もっと欲しくなってどんどん増えていったとのこと。 かくして、宿舎の植物男子ベランダー誕生。一人暮らしの中年男性が花を育てるなんて、素敵なことではないか! 私の畑も最初は3畝から毎年拡大していき、今では最初の3倍ほどの広さになっている。収穫する野菜の種類も量も増えて、有り余る野菜を小さな子供のいるご近所やあの草刈り男性のお宅に配るようになった。 昨年の春、私の畑のちょうど前に位置する号室に、中国人家族が引っ越してきた。若い夫婦と子供3人、ご主人の父親の6人家族だが、ある日、私が畑をしているとご主人が声をかけてきて、父が畑をしたいが許可はいるのかと尋ねた。 特に許可はいらないと答えると、それまでご主人の隣で硬い表情をしてモジモジしていた老人の目が輝いた。 それから2〜3日後、この老人は息子さんの手を借りて、土の掘り返し作業を始めた。楽しくて仕方がないという風に満面の笑みを浮かべ、作業する背中がイキイキと動いていた。70歳ということだが、40代の背中にしか見えなかった。石はきれいに取り除かれ、あっという間に立派な畝ができてしまった。 息子さんによると、父親は日本語も英語も全くわからないということだったし、息子さんもガーデニングの道具や種をどこで入手できるか知らないと言った。 畝が完成した後に、私はこの老人に「有機肥料」と書かれた袋を見せて、別の小袋に入れた肥料を差し出すと、「シェイシェイ!」と言って受け取り、本当に嬉しそうに笑ってくれた。これが、私とおじいちゃん(と呼ぶことにした)との最初のコミュニケーションだった。 言葉がわからなくても、通じることがある。「ニーハオ!」と挨拶から始まり、顔を合わせる回数が増えるに従って、おじいちゃんは、支柱の強化の仕方を教えてくれたり、苗をくれたり、私の作業や畑の様子を見にくるようになった。 その後私は、おじいちゃんは小さな村の出身なので、訛りがあって中国人同士でも言葉が通じないということを知った。 息子さんによると、おじいちゃんはテレビも見ないし友達もいない。話せるのは家族だけ。趣味はなく、ただ野菜を育てることだけが好きということだった。日本に来て5年になるが、ずっと孫の世話と家事に追われ、楽しみもなく、気分が沈んでいたのだそうだ。 おじいちゃんの畑の野菜は、Tさんと私より2ヶ月ほど遅れて始まったにも関わらず、生育スピードが凄まじく、すぐに私たちの野菜を追い抜いただけでなく、無農薬でも虫に食われない丈夫で大きなものが育った。 おじいちゃんは、畑にいる時本当に嬉しそうでイキイキしており、その喜びが畑に反映されていた。おじいちゃんの畑は明らかに植物の色もエネルギーも違っていた。何を作っているのか、どうしてこんなに大きいのかと、興味津々で見に来る人々が現れるようになった。 トマト、きゅうり、インゲン、空芯菜、青梗菜など、おじいちゃんは、できた大量の野菜を大袋に入れて、気前よく私や近所の人に分けてくれる。 元気な野菜がたくさんできる。採っても新しいのがまた出てきて、食べるのが追いつかないので、皆さんにも食べてもらう。野菜を育てることは、収穫を分かち合うということでもあるのだと、気付かされる。 屋外で過ごす時間が増えると、人の動きがよくわかる。赤ちゃん、子供、若い親、中高年の人、散歩で敷地を通る近隣の高齢者。中庭の通路を通るドイツ人、ウクライナ人、ロシア人、アメリカ人、エストニア人、エジプト人、中国人、バングラデシュ人、ベトナム人など、私は様々な人と中庭や通路で挨拶をするようになった。 色とりどりでなんと面白い環境に住んでいるのだろう。草ぼうぼうの荒地だったところが、面白いと思える場所になるなんて! また、この冬は、いつも野菜をもらっているお礼にと、近所の人たちからいただいた土産や果物で、キッチンの棚がいっぱいになってしまうという現象が起きた。 中庭の絵を描いてから、気づいたらこのように様々なことが変化していた。 あの絵に込められたものは、その場所で私が見つけた「小さなこと」のひとつひとつと、そのひとつひとつに包含される夢のような世界(物語)だったが、それは私が感じる自然界と私自身との関係であった。 しかし、物語はそれをはるかに超えた領域からさらなる物語を運んできて、目の前で展開し拡大していった。 出来事として起こった、料金値上げによる業者の草刈りの終了とコロナ。それらは一見悪いことのように思えるが、それは素晴らしい変化のために必要なことだった。それが、ポジティブな事柄へと転換する流れの起爆剤となったのではないだろうか。 これらの変化を起こすために、誰かが何かを無理に始めたことはあるだろうか? 私はそうは思わない。 自発的に取り組む人々が現れ、それが拡大して、自然に子供たちや大人の交流が増えた。 このように、誰の関心もないような荒地だった場所が変化し、小さいながらもコミュニティらしきものが出来上がっていく過程を自ら目撃とともに体験するとは、私は夢にも思わなかった。 自分が住む場所への関心、他の住人への関心、交流、分かち合うという精神は、目覚めると、個人にも集合意識にも影響を与えて拡大していく。 拡大していくところに、豊かさの循環が生まれる。 それは、お金では得られないもの。 マインドが見た荒れた土地を心の目が楽園に変えたその絵に、私は “Home”というタイトルを付けたが、そのHomeの奥には、さらに拡大した心の世界があったのだ。 楽園が描かれると、次に、絵はそこに住む人間を巻き込み始めた。 荒地のままにするのか、それをどう扱うか、どう生きたいか。 そのことが突きつけられ、動き出したものが拡大していった。 この絵の奥には、人間がこの地上に実現できる楽園とその可能性が、それはまだほんの小さな始まりであるが、示されているのだと私は思う。 そこは荒地だった。
私の住んでいる宿舎の敷地は広く、通路と駐車場以外、地面は土である。その土の部分は、当然植物に覆われる。人が植えた木や花の部分以外は、野草や雑草で覆われている。 12年前にアメリカから引っ越して、夫の勤務先が提供するこの宿舎へ到着した時、私はお化け屋敷に来たのかと思った。まだこんな建物が存在するのかと思うほど古く、中の階段と通路は暗くて、敷地は草が生い茂っていた。 それでも全く知らない土地へ来たわけで、住居が準備されていたことは有り難く、家賃も極めて低かったため経済的な助けにもなり、夫も私も更なる引っ越しは考えなかった。 仙台の中心まで歩いて行ける距離にありながら、自然豊かな山地に位置し、敷地は広いため、恵まれた環境だと言える。 だが、管理が行き届かず野生化した場所に人が住んでいるような印象を与える。なぜなら、中庭や建物周辺は、業者が来て年に2〜3回ほど除草するが、草はすぐに腰の高さくらいまで伸びてしまうからである。 そんな草の中から、幾度もの地震に耐え、壁のあちこちにシミや汚れが目立つ古い鉄筋コンクリートの建物がニョキっと顔を出しているのを想像してみて欲しい。きっと、お化け屋敷みたいだと思うだろう。 そんな場所で、夫と私は一気に昭和に逆戻りしたような生活を送っていたが、住み始めてから数年が経ったある日、私は家でボーッとしていた時に、ふと宿舎と中庭を絵にしてみようと思いついた。 当時、私はイギリスのシャーマン・アーティストFaith Noltonの本が気に入っており、よく開いていた。個性的な作品と、各作品にまつわる魂の物語がジャーナル形式で書かれているその本には、彼女の心が捉える自然の神秘的な力と、魂のパワフルかつ奥深い世界が詰まっており、私は魅了された。 宿舎の風景を絵にしてみようとふと思ったのは、彼女のような表現をしてみたいと思ったからだった。 ペンを持つと、私の内側からある考えが浮かんだ。 「私が住んでいるこの場所を心の目が観たら、どんな風に描くだろう?」と。 古く汚れたお化け屋敷のような建物と、草ぼうぼうで荒れた土地。それは、私の頭が見たままの姿から判断した風景であるのに対し、心が観ているのは、その場所で私が見つけた「小さなこと」のひとつひとつと、そのひとつひとつに包含される夢のような世界(物語)だった。 中庭にはアザミ、野菊、ヒナギク、シロツメクサ、ツユクサ、オオバコ、ハコベなど、子供の頃摘んで遊んだ野草がある。アジサイ、チューリップ、クロッカス、スイセン、レンギョウ、アヤメ、ツルギキョウ、ムスカリなどが季節になると花を咲かせる。 ビワの木、柿の木、いちじくの木、梅の木、クリの木、桜の木、ネコヤナギ、タラの木、杉の木、月桂樹、ネコヤナギ、ハナミズキ、その他名を知らない数々の木々。 カラスやスズメ、トビがいつも周りにいて、春になるとヒバリ、ウグイス、ホトトギスなどが鳴き初め、野バト、シジュウカラ、メジロ、カケス、モズ、オナガなど、一年を通して様々な鳥がやって来る。 様々な種類のハチやカメムシ、テントウムシ、コガネムシ、カナブン、カミキリムシ、ゴミムシ、セミ、トンボ、クモ、蛾や蝶、カマキリ、バッタ、コオロギなどなど。実家では子供の頃、庭先などでよく見かけたが大人になってあまり見なくなったような虫を、こちらではまだよく見かける。 住人から聞いた話によると、ネズミ、タヌキ、アナグマ、ハクビシンもいるそうだが、それらの動物に私はまだ遭遇していない。 今こうして挙げてみると、ここには様々な生き物が棲んでいることがわかるが、なんとなく過ごしていると日常の中に吸収されて消えてしまい、特に気づくことはない。 私は心の目で、少し離れた上空から私が住む場所とその周辺を観てみた。 私が住む号棟と敷地の出口へと続く通路を描くと、そこから私の意識は、引っ越して来てからそれまでに気づいた様々な小さなことのひとつひとつへとフォーカスされていった。 そこには、必ず感情が伴っていた。ああ、心とは、そうやって観るのだ。記憶には、必ず感情が伴っているということを、私たちは気づいているだろうか。 買い物からの帰りに、鮮やかなアザミで両側が赤紫に染まった通路を歩くとウキウキした。初夏になると、中庭の広い範囲が腰の高さほどになるジョチュウギクの白い花で埋め尽くされ、草原の花畑に滑り込んだような感覚になった。 のびのびと太陽に向かって開いている可愛らしいクローバーの葉を見ると、思わずしゃがんで四つ葉を探してみたくなる。 玄関近くには大きな桜の木があり、4月上旬には玄関に淡いピンク色の傘がかかったようになる。階段通路の窓を開けると、青い空とピンクの花が目に飛び込んでくる。キッチンの窓から見える街灯の光を受けた夜桜は、幻想的で美しい。 北側の窓から見える大きな杉の木には、毎年春になるとカラスが巣を作る。夏至の頃に卵が孵ってヒナが生まれるが、それまでに幾度となく訪れる強風に木が大きく揺れて、卵が落ちてしまうことがある。そんな年が何度もあった。 今年もカラスはまたそこに巣を作ったかと観察し、大風になるたびに私はハラハラして、どうか乗り切って欲しいと祈るのだった。 長い坂を下まで降りていくと、佐藤宗幸さんの「青葉城恋歌」に出てくる広瀬川の清らかな流れに出会う。最初の2年は、初秋に橋の上から鮭の遡上が観察できた。 そこから西へと進むと山々と里山が広がっており、空間に広がっているその緩くのどかな波動に初めて触れた時、私の深奥が震えたことを思い出した。 それらをひとつずつ描いていき、最後に、キッチンの窓から眺める変わりゆく夕空の色を添えて全体を見ていたら、ここは実は命あふれる美しい場所なのだと気づいた。 再び中庭に視線を戻すと、何かが足りないと感じたので、意識をフォーカスしてみた。浮かび上がって来たのは、精霊のような存在だった。それは、木々や花々の命を輝かせている存在だった。 それを描き加えると、しっくりきた。 マインドが見た荒れた土地を、心の目が楽園に変えた。 心の目は表面ではなく、そこから中へと入っていき、さらにその奥に息づくものまでをも捉えることができる。 心の宝箱から、豊かな感情に伴った目に見えないものが織り込まれていた。それを物語というのだろう。 絵が完成して、物語が織り込まれ、私はそれに “Home”というタイトルを付けた。 それで終わった。 終わった、と思っていた。 ところが、終わったどころではなく、始まったのである。 それも想像を絶する展開で! <(2)へつづく> |