執着を手放す、過去を手放す、物を手放す。
ちまたで「手放せ」の大合唱。 新しいものが入ってくるためには、古いものが出ていかなければならない。 クリーンアップが必要。 確かに、物理的にもエネルギー的にも、これはその通り。 私も実践しているし、過去の経験からそれは間違いないと私は思う。 全てを手放す。 宇宙にゆだねる。 そういう言葉もよく聞かれる。 それを真面目に実践しようとした私。これも手放すのか、あれも手放さなければならないのかと、肩に力が入って頑張ってしまう。 そこへある時「へっ?」という出来事があって、「あららぁ、それでいいのね〜」と楽になった。 これは「全てを手放す」という意味を誤解し、手放す対象を間違えていたことを知って、そこから意識の立て直しが始まったというお話。 重い荷物をいくつも持って両手が塞がっていたり、今すぐその場を発たなければならないのに、そこらじゅうに散らばった荷物をまずかき集めてからでないと行けないと焦っている夢をよく見た時期があった。 その頃はちまたで断捨離という言葉が流行り、前進するためには、とにかく執着を手放さなければならないという考えが私の頭の中にあった。 両親の世話をするために数年間ほぼ毎月実家へ赴き、滞在する約1週間は全力疾走で頑張っていたが、やればやるほど負担は増えてきて、私は心身ともにかなり疲れてきた。 そこで、頻度を毎月から2ヶ月おきくらいにして、滞在日数も5日ほどに減らした頃、母が車を処分したいと言い出した。 実家の車は、滞在中私にとって欠かせないものだった。 父は85歳の時に免許を返上したが、実家は車がないと生活が不便な場所にあるため、そのまま保有して、私が滞在するときにだけ使っていた。 母の通院、買い物、遊びに来た姉の送迎、家族での外食、クリーンセンターへのゴミの運搬などに、車は欠かせない。家族の中で運転できるのは私だけなので、車があってこそできることは全て私が引き受ける。 しかし、車を維持するために必要な自動車保険や車検にかかる費用を実家が払い続けるのは負担になり、これからどれだけお金が必要なのかわからない状態で、そのような「無駄な」出費は迷惑だと、ある時母が言い出した。 何年生きるかわからない、この先病気になるかもしれない、将来施設に入所するとなると、かなりのお金がかかる。貯金はあるが、いくらあっても足りない。 元々その考えは父からなのか母からなのかはわからないが、二人に共通の不安であり、母の頭の中で膨らんでいったようだった。 「乗らない車の維持費を払い続けるのは馬鹿らしい。お金を捨てているようなもので、惜しい。前はもっと来てくれていたのに、最近あなたは年に数回しか来なくなったのだから、車を処分して、あなたにはその都度レンタカーを借りてもらう。それでいいよね」と電話越しに強い口調で言われて、私はショックを受けた。 心身ともにボロボロになるまで頑張って、やればやるほど頼られて、どんどん重くなっていくのを感じていたところに、「前はもっと来てくれていたのに、最近年に数回しか来なくなった」という言葉は恨みのようにも聞こえたし、感謝どころか足りないことの方に目が向けられるのは、なんとも残念なことで悔しい気持ちになった。 しかし、実はやってもやっても足りないとは、私自身が自分に対して感じていることだった。 根底に罪悪感があったからだった。 「将来ここに一緒に住んで、面倒を見る」と私は昔よく言っていた。その考えや価値観が日本へ移ってからどんどん変化してしまい、正直なところ、それはどうしてもする気になれなかった。 親に嘘をついた形になってしまった、親はあの言葉をあてにしていたのではないか、私は裏切った、と思うと、それは罪悪感になった。 毎月頑張り、全力疾走して心身ともにボロボロになっていたのは、そのような心理が働いていたからだろう。 しかしその当時、私はそれを感じながらも蓋をして、気づかないふりをしていた。 突然飛び込んできた、車を処分するという話に、この展開は何だ?と思った。そして、私はあることに意識を向けた。それは「手放す」というテーマだった。 そうか、宇宙から「手放す」という課題が出されたんだ、と私は思った。 私にとって実家で車は絶対必要なもので、それがないとかなり不便。一体どうなるんだろうと考えると不安の影が差したが、これを思い切って手放すということなのか? かなりの思い切りがいる。私は何に執着しているのだろう? 実家にとっては維持費用を支払い続ける負担が減る。レンタカーを借りるには少し遠い駅まで行く必要があり、その分時間と労力がかかり、私にとってさらに重荷が増えるが、それは私が頑張れば良いだけのこと。それもチャレンジであり変化である、と私は自分に言い聞かせた。 チャレンジと変化・・・うん、これはかなりの思い切りが必要。 執着しないということにこだわっていた私は、自分のエゴで決めない、このチャレンジを受けて立つぞ、実家に車があるという考えを手放すぞ、と思いながら、その一方、不安になる考えに対しては、親にとって楽になるのなら私が頑張れば良いだけのことだと、自分自身を説き伏せようとしていた。 そして最後には、「神様が決めたことに従います!」と心の中で叫んだ。 車を処分することに同意すると、母は早速ディーラーに連絡をして、売却する日が決まった。売却は、次に私が実家に行き、用事を済ませて帰る日の数日後に予定されていた。 行く都度レンタカーを借りるというのが楽なのか大変なのかは、やってみないとわからない。実家の車は走行距離も少ないので、思ったより高く売れるということで、それは宇宙がサポートしてくれている、やっぱり処分することになっているのだと私は思った。 実家に到着して、いつものように私は忙しく働いた。3日目くらいの朝、玄関のチャイムが鳴るのでドアを開けると、ディーラーの亀田さんが立っていた。 「あれ?引き取り、今日でした?」と驚いて私が言うと、亀田さんは、「いえいえ、たまたま近くへ来たので、寄ってみました。事前に車をちょっと見せてもらおうと思いまして」と言った。 すると、私の中で何かがピンと鳴り、私はこう言っていた。 「車を売った後、私は毎回レンタカーを借りなければならないんですよ。保険とか車検とかが負担になるので、母はそうして欲しいみたいなんです。車を使うのは毎回1週間弱、2ヶ月に1回程度なので、レンタカーの方が安いでしょうね」 亀田さんは驚いた様子で言った。 「ええっ?そんなに乗るんだったら、レンタカーよりもこの車をキープした方が安いですよ。毎回レンタカー借りるのは面倒だし、大変ですよ。僕だったら、レンタカーにはしないなあ」 その亀田さんの驚いた様子に私も驚いて、ええっ?と思っているちょうどその時、私が誰と話しているのか様子を見に父が居間から出てきて、私の横に来た。 「ねっお父さん、レンタカーの方が高いって亀田さん言ってるよ」と私は言った。言葉が勝手に出ていた。 すると父はいとも簡単に「じゃあ、車は残そう」と言った。 鶴の一声だった。 「えっ?いいの?本当にいいの?」 「うん」 亀田さんは唖然として、「えっ?処分しないんですか?」 「はい、キャンセルします」と父。 私は気が抜けた。 不思議な力を強く感じた。この流れは面白すぎる。 そこには、目に見えないベルトコンベヤーがあった。 亀田さんが実家にやって来た、私が亀田さんに言った、亀田さんが返答した、その時父がそこにやってきていた、私が父に言った、父が答えたというこれらのことが、何にも遮られることなくスムーズに流れていったのだった。 今でもあの時のことを思い出すと、ベルトコンベヤーの存在がはっきりと感じられる。とんとん拍子とは、スムーズに動いているベルトベヤーに乗って抵抗なく自動的に流れていく状態のことで、ああ、それこそが宇宙と一致した流れなのだ。 あの日亀田さんが「たまたま」近くを通りかからなかったら、実家に寄ろうと思わなかったら、そしてその時私が外出していたら(通常その時間は外出していることが多い)、車は間違いなく処分されていただろう。 また、もし私でなく母がドアに出ていたら、こんなスムーズな展開になっていなかったかもしれない。 しかし、それらの事は起こらず、「たまたま」と言いたくなるようなことの方が、当然のように何の抵抗もなく数珠繋ぎに起き、驚くほど短時間で落ち着くところに落ち着いた。 それが私が受け取るべき結果だった。 気の毒に、呆気に取られた亀田さんは、これは一体何だったんだ?という面持ちで帰って行った。 そう、そういうことだった。車は手放さなくて良いというのが、神様・宇宙からの答えだった、と私は受け取った。 手放す必要のあるものは、気づきと共に自然に離れていく。自分の思考で手放そうと覚悟をしたとしても、手放さなくて良いものは残るし、残されるとわかったら、「ふふふ」と笑えてきた。 何も気張ることは最初からなかった。 保険も車検も今でも実家が支払っているが、全く問題ない。問題として上がることさえない。というのも、父と母は、お金の管理はほぼできなくなってしまったからだ。 姉が実家に毎週通って、手伝いをするようになった。姉に確かめたところ、本人には負担になっておらず、人に喜んでもらえることをやれることが嬉しいそうだ。 今でこそはっきり言えるが、「私が頑張りさえすれば良いだけ」という考えこそが、私が手放すべきことだったのだ。 私は、親のためなら死ねると幼い頃から真剣に思っていた奇妙な子供だった。常に親のことが優先で、助けなければならないと50歳を過ぎるまでずっと思い込んできた私が手放すべきことは、この考えだった。 なぜそれほどまでに執着していたのかはわからないが、私にとってそれは強烈で重く、その荷物を背負い続けて来たのだった。 自分の人生を生きて良い。軽くなって良い。 自分が親だったら、子供が親を守り続けるなんて考えをしていたら迷惑な話だよね、と今では思えるようになった。私は介入しないでも良い。頑張らなくて良い。 それを裏付けるかのように、事実は面白いことを教えてくれる。 施設の利用内容を見直したり、ヘルパーさんの訪問回数を増やすなど、少しでも親が楽になるようにとあれこれ私が気を回してお膳立てしても、結局父と母はキャンセルしてしまう。ケアマネージャさんの提案さえも断り、怒らせてしまうことも何度かあった。 とどのつまり、自分達が好きなようにしたいということなのだ。 そうだよなあ、と納得できる。 元々どの施設にいつから通うかも、私がアメリカで網膜剥離になって帰国できない間に、本人たちのところへタイミングよく話が転がり込んで自分達で決めてしまい、私は何もする必要はなかった。 それに、今まで私が無理してやって来たことは、本人たちは記憶に残っていないため、彼らにとっては私は何もしなかったことと同じである。 これまでのことを振り返ると、私は「たまたま」居合わせたタイミングで、家族にとって大事なことには漏れなく関わるようになっており、頭であれこれ考えてお膳立てしたことは、ことごとく必要ではなかったという結果になっている。 なので、必要な時にこそ、私は動かされているし動いており、結果的に必要なことがなされている、ということになる。 整然としているのである。 整って秩序立っているところを、一人で騒いで右往左往しているのは、地平線が見える広い平原に、わざわざ高い塔を建ててしまい、何もないのに、わざわざ困難を作ってそれを乗り越えようと必死になっているようなもの。 そんな人生こそが古く、手放すべきもの。 「無理がなく容易で楽」を意識的に選択して、少しずつ習慣を塗り替えてゆく。 すると、少しずつ、今まで起こっていたことが起こらなくなる。起こったとしても、ポジティブな反応になり、やがて消えていく。 以前の価値観・考え方をベースにした風景には、そこらじゅうに超高層ビルが林立していて、空も見えず息苦しい。 それに対し、無理がなく「容易で楽」の立ち位置から意識を拡張していくと、全体が見渡せる広々とした風景がどこまでも続いている。 流れを遡るのではなく、ゆったりと心地よく大海へと向かって流れていく。 あらら〜、それでいいのね。 ラク〜でいいのね。 「そうそう、最初からそうだったんだけどね。やっと気づいたね」と内側で微笑む自分がいる。
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うちでは朝食にオムレツを作ることが多く、卵を一人1日1個というペースで使っている。そのため、ほぼ1週間で1パック消費する。 これは卵にまつわるエピソード。 食品の放射能レベルをチェックし、化学調味料無添加の食品、有機・無農薬または減農薬の野菜を扱い、地産地消を目指す「あいコープ」という宅配専門の生活協同組合に、私は仙台へ来てまもなく加入し、既にあった官舎内のグループに入れてもらった。 アメリカでは長年ナチュラル志向の生活をしていたため、仙台でも良質で安全な食品が手に入るのは有り難いことだった。 カタログから食品を注文し、グループで受け取るという仕組みで、注文品は隣の階段下に毎週配達される。 数年前のある日、配達された品物を取りに隣の階段へ行ってみると、積み上げられた宅配箱の横に、平たく大きな段ボールの箱が置いてあり、「卵」と書いてあった。 グループの誰かが頼んだのだろう。 「ダレや、こんなにたくさん卵を頼んだのは。店でも開くつもりか、それともPTAの行事で何かするのか?」と私は心の中で呟いた。 箱には名前が貼ってあり、見ると「倉田順子様」と書いてあるではないか! 「ウソっ!どういうこと??」 というのが最初の反応だった。 私のいつもの10個パックはどこにもない。 段ボール箱を前に、唖然とした。 何かの間違えでは?? 配達明細書を見てみると、「卵3キロ」と書いてある。 「3キロォ〜?」 これはジョークか。それとも、機械が注文書を読み間違えたか。 いや、私が記入欄を間違えたのだった。 注文書の卵は、6個、10個、3キロなど5種類あり、いつもの10個の隣の欄は3キロ卵になっていた。記入するときに、きっと間違えて隣の欄に数量「1」と書いてしまったのだろう。 これまで注文でそんな間違えはしたことがなかったが、6個に間違えるのならともかく、3キロだなんて! それにしても、それはよほど大家族でない限り、一般家庭で使う卵の量ではない。個人宅配で3キロ注文する人なんているのか?それが注文書にあること自体おかしい、と私の頭は抗議を申し立てた。 せめて返品をと考えたが、あいにく生鮮食品の返品はできないというルールがある。 家で恐る恐る箱を開けてみると、卵は2段になって、ぎっしり並んでいた。その数55個! “OH MY GOD!!” 思わず叫んだ(なぜかこういう時には英語が出る😅)。 2段を広げて55個を並べると、なかなか圧巻の光景になるのだが、それを呆然と眺めている自分の姿、これはもうコメディーで、自分の馬鹿さ加減に腹の底からわっはっはっと笑った。
宇宙のジョークか。いや、私が不注意だっただけ。 ひとしきり笑うと、さあ、ここからはこの卵をどう処理するかだ。 まずは賞味期間を調べた。あいコープの卵の賞味期間は2週間だが、ネットで調べてみると、夏以外なら1〜2ヶ月大丈夫とのことだった。通常、店の賞味期限の設定は、生卵を食することを考慮した日数らしい。 うちでは生卵は食べないが、こんなに長く大丈夫だとは思わなかった。 だとしても、1日2個のペースで1ヶ月近くかかってしまうし、そもそも冷蔵庫に入りきらない。 なんとしても、数を減らさなければならない。 ご近所のコープ仲間に事情を話すと、これは大変だと心配してくれて、1パック買ってくれた。隣の人も、私が必死だったので気の毒に思ってか、真剣に応対してくれた。 下の階に、引っ越してきたばかりの外国人の若い男性がいた。会ったこともなかったが、挨拶するには良いチャンスだった。 ドアベルを鳴らすと男性が出てきた。私は事情を話し、近所の歓迎として卵をもらって欲しいと頼んだ。男性はスペインから来たということで、一人暮らしだったが卵は使うので、10個を快くもらってくれた。 私たちはメールアドレスを交換し、私は部屋に戻ってから、彼に再度事情を文字にして説明し、受け取ってもらえたお礼メールを送った。 すると、彼から返信があり、そこにこう書いてあった。 「卵をありがとう。55個だなんて大変だねえ。それだけあれば、卵をかえしてヒナを一列に並べ、ひよこレースをさせれば楽しいんじゃない?はっはっは😁(笑いの絵文字まで入っていた)」 こっちは必死なのに、ひよこレース、はっはっはって・・・。 と思ったが、いやあ、この状況でこういうユーモアは、日本人にはなかなか出てこないだろう。むしろ、そんなことを言ったら相手に失礼だし、ひんしゅくを買う。さすがだ、と思ったし、こちらも苦笑した。憎めない。 はっはっは!という反応は、夫からも返ってきた。並べられた55個を見てニヤニヤし、楽しんでいる様子だった。私は真剣なのに、全く他人事! 翌朝、夫が母親とのオンライン中に卵事件の話をすると、義母は大笑いで、「いい案があるわ。ブロックパーティーを開いてオムレツパーティーしたら?」と言ったそうだ。 ブロックパーティーとは、近所の住民が野外に集って祝ったり交流を深めるために行うイベントのことだ。義母は80代だが、そんな斬新なアイデアを出すなんてすごい!と私は思った。 すぐに私の頭の中で、巨大な鉄板の上でオムレツを作って、みんなで食べているイメージが浮かんだ。 パーティーにしちゃえ!っというところがいかにもアメリカ的な発想で、アメリカでは大いにあり得るシーン。 実際、以前住んでいた場所ではそういうパーティーがあった。私の卵バージョンも簡単にイメージできる。 「Oh my god! 55個の卵が来ちゃった!○月○日オムレツブロックパーティーを××のガレージにて開催!飲み物は各自持参で」というようなチラシを作って近所のポストに投函したり、電柱に貼ったりしてみる。 当日ガレージにテーブルを設定すると、ポツポツと人が集まってくる。 「なになに?卵55個だって?一体何があったの?」と私や夫に話しかけてくる人。 「パイを焼いたわ」と持ってくる女性。 ビールのつまみにと、多めのスナックを抱えてやってくる男性。 赤ん坊を抱いてやってくる若い夫婦。 近所でなくても、たまたま通りがかって飛び込み参加する人。 結局誰でもウェルカム。 こっちでは挨拶程度だった隣の人たちと会話が弾んで相互理解が深まったり、あっちでは地域の問題点について議論するグループが出来上がったり、そのグループの後ろで近所の子供同士遊び始めたり。 実際、私もアメリカに住んでいた時に、そんなパーティーを見たことがある。何の集まりなのかわからないが、道を歩いていて通り過ぎようとしたら呼び止められて、飲み物を勧められたこともある。 そういった、やっていることが大雑把で、面白いことをやろう、さあ今を楽しもうよ!という雰囲気は、アメリカならではだなと、感じることが多々あった。 いや、アメリカだけではない。ひよこレースしたら?と言ったあのスペイン人男性のユーモアもその類に入る。 スペイン人といえば、私は湯布院でタッチドローイングのリトリートを開いて、熊本地震が起こり、被災したときのことを思い出す。参加者にスペイン人の若い男性がいたが、彼はミュージシャンでギタリストだった。 夜中に襲った地震の後もひっきりなしに余震が続き、私たち宿泊者数人は会場のダイニングホールに避難して朝まで一緒に過ごしたのだが、そのスペイン人男性は揺れに全く動じる様子もなく、そばでギターを弾き続けていた。 そのギターの音と軽快なリズムに、私たちはどれだけ平穏な心を保てただろう。彼には、弾き語りの地震の曲まで作ってしまうほどの余裕があり、そのおかげで私たちも、揺れている大地に寝転んでみたり、カメラに向かっておどけたポーズを取ってみたりするほどの余裕ができた。 そう、余裕なのだ。ユーモアなのだ。真面目になって緊張している時ほど、余裕が必要。 余裕はスペース。 そこには何もないけれど愛が充満している、と私は思う。人生は楽しむもの、人は愛すべき存在、生きることにもっとリラックスして良い、という緩く温かいものが詰まっている。 やれやれ55個の卵のエピソードから話が大きく逸れてしまったが、結局卵は無事に全て消費できた。 しかし、どうやら私はこの卵事件を書きたかったのではないようだ。文章を書いていくに従って、実は真面目すぎて躍起になっている自分に微笑みかけている、もう一人の自分が見えてきたことの方が大きい。 私のハートはこう言う。 生真面目だと窮屈なことが多い。余裕を持って生きたい。ざっくばらんにユーモア溢れる暮らしをしたい。人生は楽しむためにあるのだから。 「Oh my god! 55個の卵が来ちゃった!パーティーやるから来てよ〜。誰でもウェルカム」の掛け声で、人が集うような街に住みたい。 物もアイデアも自主的に持ち寄って、相互扶助がベースになるような、そんな場所がどんどん広がっていくといいね。 結局、私はそれが一番言いたかったことなのね。 「それをあなたはどう思う?」
少なくとも日本では、そう聞かれたことはほとんどない。ましてや議論や話し合いではなく、ちょっとした会話の場面では。 20年住んだシアトルを離れ、日本へ転居することになった時、私はシアトルの友人や知人に報告した。 日本人の友人からは 「ええっそうなの?こっちにまた戻ってくるの?」 「うわ〜日本かあ、いいなあ」 「えっ仙台?放射能は大丈夫?」 だいたいこういう反応が返ってきた。まあ逆の立場だったら、私も同じようなことを言っているだろう。 私はシアトルのコミュニティガーデンで1区画を借りて、11年間さまざまな野菜を作った。 広大な敷地が200を超える区画に仕切られ、そこを借りた市民が完全に農薬・化学肥料不使用という条件で、思い思いのものを作る場所であった。 メンバー全員が積極的に関わるコミュニティガーデンで、定期的にミーティングがあったり、共用部分の除草や整備を行う出合い、作業者への軽食の差し入れや収穫祭などがオーガナイズされたりで、活発なコミュニティだった。 ガーデニングのテクニックや情報を交換したり、取れすぎた野菜をあげたりもらったりで、いつも和気あいあいの楽しい場所は心地よく、畑を続けるに従って顔馴染みも増え、私も特定の人たちと仲良くなっていった。 しかし、日本への引っ越しで、その畑ともお別れになる。 ある日、畑で片付けをしていたら、いつもの畑仲間がいたので、私はこれが最後になるだろうと、挨拶をした。 「急な展開があり、実は夫の仕事の関係で日本へ引っ越すことになったんです。仙台に住むんです」と私は状況を説明した。 東日本大震災があって、1年ほどしか経っていない時だった。 当時日本では「Fly-Jin(フライ人)」という言葉が生まれたが、放射能を恐れて飛行機で日本から逃げた外国人は、そう呼ばれた。 アメリカでも日本の放射能に対して警戒感が強く、私も外からの立場で日本を見ていた。なぜ、そんな危険な場所へわざわざ行くのか?とんでもないことだと、きっと誰もが思っていただろう。 彼女は私が話す間、じっと注意深く聴いていた。 調子良く合わせて相槌を打ったり、感情主体で流れたりする会話に慣れていたら違和感を感じるほど、相手は無表情だった。しかし無関心というのではなくその逆で、感情のないニュートラルな状態で、しっかりこちらに意識を向けて聴いているのが伝わってきた。 私が話し終わるのを待って、彼女は一言言った。 「それをあなたはどう思うの?」 このタイミングで日本へ引っ越すということを、私自身はどう思っているか?ということだった。 一瞬ビクッとした。大抵、会話の途中で相手から相槌や何らかの感情の反応、コメントがあり、そのようなやり取りの中で会話は積み上がっていくものだが、それが一切なく、私が話し終わるのを待ってからの最初の一言が、その質問だったからだ。 その一言の中に、 「この会話は最初から最後まであなたが主役よ。だからあなたの結論なしに、この話は成立しないの」という無言のメッセージが込められているように感じられた。 「私は、これは冒険のようなもの、新しい人生の旅の始まりだと捉えてます」 すると相手はニッコリ頷いて、両手を広げ、 「じゃあ、あなたのその素晴らしい冒険に祝福を!」と言って、ハグをしてくれた。 ハグには形だけの表面的なものもあるが、彼女のはそうではなく、広げた胸からバーンと祝福のエネルギーが放出され、私はそれに包まれた。 不思議な感覚になった。 彼女は私よりも若いのだが、コミュニティの中でも存在感のある人だった。 彼女には独特の威厳があった。私の目をじっと見つめ注意深く話を聴いている彼女は、私よりも年上で成熟しているように感じられ、なぜかふとその姿に師のような存在も重なった。 彼女なりの考えや意見もあっただろうが、それは完全に横に置いて、私の話を聴くことに徹していた。 相手が傾聴している時、私は、相手に向かって自分の考えや言葉が吸い込まれていく感覚がある。逆に、相手が適当に相槌を打っていて頭の中では違うことを考えている場合は、私の言葉はバウンスして、あちこちへと飛び散っていくのがわかる。 本当に傾聴している人は少ない。が傾聴されている時、それを感じれば感じるほど、こちらが緊張する。怖いとさえ感じる。 なぜなら、ゴミのようなどうでも良いことやネガティブな感情、考え、余分な発言が自ずとはばかられ、心の中の真実しか話せないようになるからである。 話している私の目を彼女が見つめている時、私は緊張した。私の発する言葉が、目の前にいる彼女の中に吸い込まれて行っていたからだ。 そのような空気感の中では、言葉は外に向かって発せられているのに、意識は逆に内側へと向かい、ハッとしたりすることがある。 「それをあなたはどう思うの?」との質問に答えている最中に、私は気づいたことがあった。 それは、答えという形で表明することで、自分の考えや意志、方向性がクリアーになり、強まるということ。 言葉を発してそれを自分自身の耳で聞くことは、実にパワフルなことであり、その言葉のエネルギーが自分の中で強まるということ。 だらだら愚痴を言うのではなく、フォーカスされた状態で自分の声を自分が聞くということは、人から言葉を受け取る以上にインパクトがあり、パワフルである。 「私は、これは冒険のようなもの、新しい人生の旅の始まりだと捉えているんです」と答えた時、自分の口から出る言葉を聞きながら、ああ、冒険が始まるんだ、私はそれを選んだんだと再確認し、その時初めて覚悟のスイッチが入った。 それは、頭の中でそう思っていたのとは違って、よりリアルで強烈に私の意識に打ち込まれた。 それを導き出すような質問を最後に1つだけするなんて、そんな会話は日本では経験したことがなかった。それゆえ、インパクトが強かった。 多くは家族も学校も会社も自分の考えを表明する環境ではなく、特に日本は集団意識や同調意識が強く、一つに固まる傾向があるので、その環境で育った人は、自分の考えを表明することに慣れていない。 その中に居続けると、いつの間にか自分が何を考えているのかもわからなくなる。私はそれもあり、日本を出たのかもしれない。 畑の彼女は私にスイッチが入るそのチャンスを与えてくれただけでなく、ご褒美のような祝福の言葉とハグをプレゼントしてくれた。私は温かさと共に、目の前に広がりを感じた。 これまた日本では経験したことがなかったので、彼女とのこの会話は私にとって新鮮で衝撃的で、今でも強く心に残っている。 もう一人、やはり畑でだったが、私の話を黙って最後までじっと聴いた後に、「それ(日本に行くこと)はあなたにとって良いこと?悪いこと?」と尋ねた人がいた。 そして私が「良いことです。ワクワクしています」と言うと、彼女は「では、幸運を祈るわ!」と言って手を差し出し、握手してくれた。その手からは、気持ちのよい力強いエネルギーが伝わってきた。この時も、私は目の前に広がりを感じた。 私が「日本へ行く」と最初に行った時、相手からほんの一瞬かすかな反応があったが、すぐにそれが消えたのを私は察知した。もちろん、二人ともそれぞれ個人的な見解はあったと思う。が、彼女たちの態度は終始ニュートラルで、私を尊重したものだった。 相手を尊重して受け止め、エールを送るという姿勢に、成長した大人を感じた。 そういえば、夫が私にそれをしてくれたことを思い出した。 14年前に私は日本である養成講座を受講し、第1回だけに参加のつもりが最後まで続けたくなった。私は、滞在していた実家から夫に電話をして打ち明けた。 それは、帰る予定だったのに帰らず、そのまま8ヶ月間家を空けることになり、夫は一人になるということを意味していた。 夫にとっては全く寝耳に水! 私は話した。私だけが話し、夫はただ聴いていた。そう、畑であった会話の時のように。 説明をし終えたところで、受話器の向こうはしばらくしぃんとしたままだった。不気味に長く感じられた。 その沈黙の後、 「それは君が本当にやりたいことなの?」 と一言質問があった。 「そんな8ヶ月だなんて、とんでもない!ダメダメ、絶対許さない!」 てっきりそんな返事が返ってくるかと思っていただけに、私はその質問に驚いた。 「・・・はい、それは私が心から望むこと、絶対にやりたいこと」 私がそう答えると、穏やかで柔らかい声が返ってきた。 「じゃあ俺は君のその望みをサポートするよ。幸運を祈る!」 畑の時のような言葉だった。そこで会話が終わり、夫自身の意見や感情をぶつけられることは一切なかった。 感謝で胸がいっぱいになった。体全体がふんわりと温かいものに包み込まれた。その瞬間、私の中で夫は夫を超えた存在であった。そして、またしても、私の目の前に広がりがあった。 そんな包み込まれる感覚や広がりを与えてくれた夫も畑の彼女たちも、一体何者なのか。 相手を尊重して傾聴し、肯定し、讃え、励ます。 コミュニケーションの根底に、きらりと光るものがある。 「俺は死んでいたかもしれない。今日、ラヴィ・シャンカールにアヴ(シアトルのとあるストリートの名前)で命を救われたんだ」と、帰宅した夫がキッチンにいる私に言った。
「えっ?ラヴィ・シャンカールがアヴにいたの?!」私は内心びっくりした。 ラヴィ・シャンカールは、インドのシタール奏者でレジェンドともいうべき人。 この会話を日本版にするならば、楽器ではないが年齢・知名度で相当するところで、 「俺は死んでいたかもしれない。今日、青葉通り(仙台のストリート)で矢沢永吉に命を救われたんだ」 「えっ?えーちゃんが青葉通りにいたの?!」 となるだろう。 命を救われた? 一体どういうこと? こういうことだった。 シアトルに住んでいた頃のこと。 夫が通りを歩いていたら、店の窓に貼ってあるラヴィ・シャンカールのポスターが目に飛び込んできた。学生のときに行ったニューヨーク マジソン・スクエア・ガーデンでのシャンカール・コンサートが人生初だったそうで、夫は以来大ファンになったとのこと。 そのシャンカールのポスターを突然目にし、立ち止まった。シャンカールがシアトルに来るのか?コンサートがあるのか?と、近づいて詳細を読んでいた。とその時、少し前方で激しい衝突音がしたそうだ。 見ると、交差点の角にトラックが突っ込んで、そこにあったATM機がぐしゃぐしゃに潰れていた。 自分はその交差点に向かっていて、もし手前の店にポスターがなければ、赤信号で交差点に立っていただろうとのこと。 事故は、時間にして1分も満たない間に起きた。トラックはATM機に向かって突っ込んだ。自分はATM機の横に立っていたであろうから(歩行者が立つ位置は、ほぼそこになる)、そこにいたら、トラックとATM機の間に挟まれ、間違いなく即死していただろうと言った。 それが起こっていたならば、私は今仙台にはいないだろうし、これを書いてもいない。全く違った人生になっているだろう。 「あれは、なにか不思議な力が働いたとしか思えない」と夫が言った。 その店はそんなポスターを貼る類の店ではなかったし、ポスターがあったとしても、本人が気づかない場合だってある。 ラヴィ・シャンカールが救ったわけではないが、結果的には救ったかたちになる。 不思議な力が働いた。 夫はまだ死ぬタイミングではなかったのだ。 ** シアトルの友人が、こんな話をしてくれた。 その友人は、大学卒業後、アメリカでマッサージの資格を取ろうと渡米を計画していた。準備は順調に進んでいるように思えたが、出発の半年くらい前から、体調を崩したり、住んでいたアパートが長期間停電になったりなど、次々と出来事が起こり始めたという。 今思うと、それは「行くな」というサインだったと彼女は言った。それをなんとなく感じていたが、思考が排除し続けたそうだ。 そのような数々の障害を「乗り越え」、計画通り彼女は飛行機に乗ってシアトルへと出発したが、目的地の空港に到着して入国審査のカウンターに立つと、審査官から「書類不十分」と入国を拒否され、そのまま空港から成田行きの飛行機に乗せられて、日本へ戻ってきたという。 実は、アジアからの留学生は彼女が初めてのケースで、迎える学校側も手続きに慣れていなかったためか、書類に手落ちがあったそうだ。 彼女の入学は1年遅れた。 しかし、1年遅れたために、彼女は今のご主人と出会えて結婚した。 アメリカでの生活が困難になり、日本へ帰るべきだろうかと悩んでいた時に、たまたま行ったパーティでご主人に出会ったという。 「あの時問題なく入国して入学していたら、旦那とは出会っていないだろうし、こうして息子がいて、アメリカにも住んでいないだろう」と彼女は言った。 「それにしても強烈だなあ。それほどまでして、止めなければならなかっただなんて。予定より1年早いから、上で導いている方も焦ったのかな。まだだ〜って。あの手この手で行くな、行くなってサインを送り続けていたのに、Mちゃんが無視し続けるから、これはまずい、最後の手段、奥の手を使うしかないってんで、これでもわからんかぁっ、観念しろ〜って、入国審査でバーンとMちゃんの目の前でシャッターを下ろしたようなもんだよね」と、私は言った。 出来事として送られてきたサインも次第にエスカレートしていき、ついには飛行機で太平洋を往復しただけになってしまったなんて。よほどご主人と出会っていなければならない、という計画があったのだろう。 強制終了が入るとは、なんとも強烈でわかりやすく、それだけ外れても決められたコースに戻されるから、ある意味頼もしい。 目的達成志向で一生懸命頑張る性格であると、そっちじゃなくてこっちだよ、という声が聴こえない可能性があるし、本筋から逸れたところでがむしゃらになってしまったりすることがある。私もこれまでそんなことが多かった。 目的にも種類があり、思考を超えたレベルの目的の方こそが本当で、それが本流であり、それに乗ると深奥からの喜びを味わえる。 その思考を超えたレベルで、友人Mちゃんの入国拒否のような強烈なことが、夫と私にも実際に起きた。ただ、拒否とは反対の出来事であったが。 2011年の冬に、突然それはやってきた。 仕事を探してもいなかった私の夫に、本人の夢の仕事の話が舞い込んだ。日本に住むアメリカ人の友人が仕事の後任を探しており、夫に声をかけたのだった。 私の帰省に同行した夫が先にアメリカに戻る日、飛行機に乗る前に数時間の余裕があったので、友人をたまたま夕食に誘ったことが事の始まりだった。友人は2年も前から後任を探していたが、適任者が見つからないとのことだった。 夫はその分野の学位を取得しているわけでもなく専門は畑違いなのだが、たまたま趣味で続けていたことが、職務内容そのものであった。 その趣味的なことは、自分の仕事が疎かになるほど好きで、長年かなりの時間とエネルギーを費やしてきていた。これが収入になれば申し分ないが、それはただの夢、あり得ないだろう、と本人は思っていたのだった。 自分の仕事は順調だったので不満はなく、特に問題もなく平穏に日々が続いていた。そこへ友人の一声。それはまさに青天の霹靂だった。 実は夫は私にこのことを話す前に、すでに友人に引き受けるとの返事をしていたそうだ。 しかし、後日夫からこの話を聞いた私は動揺することもなく、「ああ、来たな。このタイミングかあ」と、ゆったりとした心の状態で受け入れた。 二人とも全く迷うことはなかった。 この新たな冒険は最初から決まっていたことだと、私のハートは知っていた。おそらく、夫もそのように感じ取っていたのだろう。 それを受け入れた結果、私たちに与えられたものは、今までとはあらゆる面で違った設定の人生であった。誰一人知らない土地に移り、まっさらな状態で始める生活。 そこには、本当に頭では何一つ計画できないほど、一つ一つが完璧に用意されており、住居が古いという以外は、あらゆる面で以前よりも条件的に良くなっていた。 このような新しい人生が待っていたとは! それが友人の一声で始まるとは! 夫はラビ・シャンカールに命を救われ、そしてまた、一人の友人によって人生が大きく動かされた。そう言うと、命も人生も外的なものに左右されるように聞こえるが、そうではない。 一方、私は妻として伴走しているように見えるが、私の人生も完璧に私のタイミングで動いているのである。夫と私の歯車がきっちり合いながら、それぞれに回っている。 それは巨大で複雑な仕組みに思えるが、蓋を開けてみればきっとシンプルなのだろうと私は思う。しかし、頭では到底知り得ない仕組みであり、そこには目に見えない壮大な流れがあり、それを司る力は神秘に満ちている。 2012年の秋に仙台へ移り、昨年秋には11年目に入った。この道も、また曲がり角に近づいている。 夫の定年が来たら、その後はどうなるのだろう? 私たちはどこに住んで、何をしているのだろう? 何がどうなるかなんてわからないが、全ては完璧なタイミングで起こっており、全て順調なことだけはわかっている。だから、恐れない、慌てない、心配しない。 物事は自然な流れで展開してゆくし、友人のMちゃんの例のように、高次の自分がメッセージを発しながらきちんと導いているから安心していて良い。 一体私の魂はどう計画してきたのだろうか?この先何が待っているのだろうか?とワクワクしながら、大小さまざまなサインやメッセージがちりばめられた日々を、自分のハートの感覚に従って過ごしていこう。 それが、私にとって最も自然で心地よい。 アメリカに住んでいた頃のこと。帰省中の実家に、上坂さんのおばさんが遊びに来ることになった。
上坂さんは私がまだ5歳くらいの頃、社宅の隣に住んでいた。社宅と言っても二世帯が隣り合わせになったいわゆるデュープレックスが一棟あるだけで、庭は大人の腰の高さから上がトタンのフェンスで仕切られていた。 私が庭で遊んでいたりすると、よく上坂さんはフェンスの下から覗き込んで「じゅんこちゃん」と声をかけて、庭で生ったグミやザクロの実やお菓子をくれたものだった。 まだ若かった母を妹のように可愛がってくれたそうで、母も慕っていた。1年ほどして私たちは引っ越し、上坂さんは近くに家を建てたが、時々遊びに行くと、当時は高級品でうちでは飲めないコカコーラを毎回出してくれたのだった。 大人になってからは会う機会がなくなり、私はアメリカへ移ったこともあり、二十数年ご無沙汰していた。 ある時、上坂さんのご主人が急死されたことを知った。それから数ヶ月経ったある日、アメリカからの帰省中に、実家に上坂さんから電話があった。娘と一緒に暮らすようになったという報告だった。 久しぶりだったので、母は上坂さんを家に招くと、上坂さんはすぐにやって来た。父が車を運転して、みんなでランチを食べに行ったのだが、80歳になった上坂さんはとても嬉しそうで、おしゃべりに花が咲いた。 その後家でお茶を飲みながら、さらにおしゃべりをし、あっという間に時間が過ぎた。夕方近くになり、母は上坂さんに夕食もうちで食べて、今夜は是非とも泊まっていってくださいと言った。 上坂さんは嬉しそうな顔をして一瞬迷った様子だったが、お勤めがあるから帰らなければならないと言って断った。朝夕、ご仏前にご飯とお茶をお供えして読経するのが日課となっているというのだ。 しかし、母も譲らなかった。そこからは、しばらく二人の押し問答が続いた。 「こんなチャンスは二度とないかもしれないから、ねえ上坂さん、泊まってってくださいよ」 「ええ、そうしたいのは山々だけど。でも、ご飯を炊いて御仏前に出さなきゃいけないし」 「そんな、1回くらい休んだっていいじゃないですか。ねっ、うちでぜひ夕飯食べてってくださいよ。お父さんがお宅まで送って行くから」 「家に帰らないと主人が寂しく思うだろうから、ダメダメ、そんなことできない〜」 と、こんな具体。これじゃあらちが明かないなあ、と私は母の隣に座ってぼんやりしていた。 すると突然、私の左前方で何かがチカっと光った。 1回だけチカっとしたのだが、とても小さく一瞬だったので、目の錯覚かと私は特に気にしなかった。 母と上坂さんは、まだ平行線を辿っていた。上坂さんはもっと居たいというのが本心のようで、何度も揺らぎそうになるのだが、決まってそれを打ち消すように断るのだった。 「いや〜、やっぱり帰ります〜」 とその時、また私の左前方で何かが光った。今度はチカチカっと2回。 ん?なんだ? どうやら錯覚ではないらしい。 虫?なんの虫? それは、私の向かい側に座っている上坂さんの胸の高さで、体から20センチほど離れたところで瞬いた。ちょうど座っている私の目線の位置でもあるから、いやでも目に入ってくる。 白っぽい銀色のような発光体で、3〜4ミリくらいの小ささなのだが、光は強かった。 私はハッとした。 思い出したのだ。 35の声を聞くと、突然様々な神秘体験が始まった。そのうちの一つは、時々青い発光体が目に付くようになったことだった。 当時様々なことが起こっていたので、友人が知り合いのチャネラーを紹介すると言ってくれた時、すぐにセッションを申し込んだ。 発光体について、チャネラーはこう言った。 「その青い光はスピリットです。ずっとあなたのそばにいて、あなたを見守ってきました。長いなが〜い間、ずうっとです。ようやくあなたは、それに気づくようになったのです。あなたに気づいてもらって、スピリットは喜んでいます。練習が必要ですが、意識をフォーカスすれば、やり取りすることもできますよ。相手が何か必死になってあなたに伝えようとするときは、チカチカっと瞬いて、あなたの注意を引こうとします」 そう、それだ!と思った。 青くはなかったが、チカチカっと瞬いているのは、私に何かを訴えかけているからなんだ。 すると、それを読み取ったかのように、またチカチカチカっと光った。今度は、光の芯の部分まで見えるほどはっきりしていた。 それは亡くなったご主人だった(と私は感じた)。ご主人が妻に伝えたくても伝わらないので、必死になってチカチカやって、私に合図を送っていたのだ(と私は解釈した)。 そう気づいた後、思うと同時に口から言葉が出ていた。 「おばさん、おじさんは仏壇の中にいるんじゃなくて、今隣にいるんですけど〜。仏前にご飯とかの心配はしないで、今日は遊んで行きなさいって言ってますよ。おばさんに今楽しんでもらうことが、おじさんにとっても嬉しいことなんですって。今を楽しんで、思いきり楽しんで!って言ってますよ〜」 上坂さんはじっと聴いていた。 突然こんなことを言うなんて失礼だし、おばさん面食らってしまうよな、と私は思ったが、意外にも、上坂さんはふっと楽になった様子で、「じゃあ、お言葉に甘えて」と言った。 あんなに拒んでいたのに、私(おじさん)の一言で、ころっと変わったのには驚いた。やっぱりおじさんの力が働いたんだ、と思った。 夕食の後、父は上坂さんを送って行った。 翌日、上坂さんからお礼の電話があり、久しく人と話すこともなかったので、もう楽しくて楽しくて、大はしゃぎしてしまったそうだ。 あの後、家に帰るなり、よろよろと自分の部屋に入るとバタンと布団に倒れて、そのまま昼近くまでぐっすり寝てしまったとのこと。いつもならあまりよく眠れず、夜中に何度も目を覚ましてしまうのに、昼まで寝続けてしまい、自分でも驚いたのだそう。 楽しくて大はしゃぎして、疲れてぐっすり眠って、翌日も気分爽快だったという上坂さん。 その後連絡は途絶えてしまい、上坂さんに会ったのはそれが最後だったが、おばさんの笑顔を見られてよかったし、うちの母も良いことをしたなあと思った。 あのチカチカっは本当におじさんだったのか? そうだと思う。 「仏壇の中にいるんじゃなくて、隣にいる」 よくそんなこと言えたなあ。自分でもプッと吹き出してしまいそうになるが、お勤めをきっちり真面目にやる毎日、その習慣の奴隷になってしまわないで、自由に楽しんで欲しいということなのだろう。 上坂さんのこのエピソードと共に、スピリットたちが私に伝えてくるメッセージがある。 ** あなたが楽しいとき、私も楽しい。 あなたが嬉しいとき、私も嬉しい。 だから、悲しんでいないで、寂しがっていないで、今を思いきり楽しんで。 生きている今を思いきり楽しんで。 常に共にあり、常に大きな愛で包まれていることを忘れないで。 |