<(1)のエピソードはこちら > 私が住む宿舎とその周辺の風景を絵にした後、驚くようなことが起こり始めた。
まず、敷地の除草作業の料金が突然2倍以上に跳ね上がり、共益費から捻出するのが困難になった。共益費の値上げも検討されたが、何も決まらないまま業者への依頼も止まり、草は伸び放題になって敷地はさらに荒れた。 その状態が1年ほど続いたある日、見かねた一人の住人男性が、小さなカマで草刈りを始めた。仕事を終えた後、毎日夕方になると、草刈りを始めるのである。よほどの雨でない限り、平日も週末も夏の暑い日も休むことなく、広い敷地を部分に区切って、毎夕黙々と草刈りをする。 大変なご苦労で気の毒に思うのだが、キッチンの窓から見えるその男性の作業をしている後ろ姿をじっと見ていると、草刈りはストレス発散になっており、瞑想のようでもあり、楽しんでいるようにさえ感じられた。 しかし、敷地は広すぎて一人では全く手に追えない。刈った場所もすぐにまた草に覆われ、イタチごっこになってしまう。 そのような一人での作業が1年以上続いた後、やはり限界なのだろう、共益費で草刈機が購入され、それからは以前よりも効率が上がった。 やがて、ボランティアを募ることになり、2名が加わり、担当場所を決めて交代で作業するようになった。 業者は年2〜3回であったのに対し、ボランティアチームは頻繁に草刈りをするので、以前腰の高さまで伸びた草は常に短くなり、芝生状態になった。 すると、中庭で子供たちが遊ぶようになった。今までは、一角で畑をしている人以外はほぼ立ち入ることはなかったので、いつもしいんとしていたが、少し活気が出てきた。 週末に、キャッチボールやバドミントンをする親子が現れた。コロナ期には、夏の夜に中庭にテントを張って、合同のキャンプをしたりする家族も現れた。自粛生活が強いられたその時期に、外で話す人の声や元気よく遊ぶ子供の声が聞こえるのは、どれほど癒しになったことだろう。 しかし、子供が集ってきてサッカーをするようになると、在宅勤務の住人や、ボールがバルコニーに飛んでくる可能性のある下の階の住人から、苦情が出るようになった。 そこで、草刈りを始めた男性が、中庭とは別の場所に砂場やベンチのある「子供広場」の設置を提案し、PTAの親たちも参加して作業が始まった。 その頃、以前より中庭で畑をしていた下の階のTさんから、畑ができるスペースが余っているがやらないかと、私は声をかけられた。シアトル時代に長い間市民農園で野菜作りをしており、こちらの周辺にはそのような場所はないので残念に思っていたが、チャンスが到来し、私は即OKした。 Tさんの畑の隣に3つほど畝を作り、畑作業をしていると、Tさんもやってきて、私たちは、一緒におしゃべりをしながら畑で時間を過ごすようになった。 あとでTさんが教えてくれたことなのだが、スポーツジムに合唱コーラス、生協の集まりなど、ほぼ毎日あった活動がコロナで全て中止になり、人と話すことがなくなってしまったそうだ。 その上、出張が多かったご主人が在宅勤務になり、家が窮屈になっただけでなく、ご主人が部屋から出られないほどオンライン会議で忙しくなると、Tさんは女中のように部屋まで食事を運ぶことに嫌気が差し、鬱状態になっていたところ、畑に出ると私がいておしゃべりできることが楽しくて、随分救われたとのことだった。 私は目の不調でそれ以前から自粛的な生活が続いていたし、夫は日中自分の研究室で過ごしていたので、Tさんのように鬱状態になることや、人と話すことを強く欲することもなかったが、活動的な人にとっては、この変化はかなりのインパクトだったことが、Tさんの気持ちを直に聞いたことでよくわかった。 中庭で遊んでいた子供たちが子供広場へと移ると、今度は、幼い子供が砂場で遊ぶのを見守る母親の姿も現れ始めた。 宿舎は入退去が多く、海外からの居住者も増えて、近所への関心も付き合いも薄い。毎日子供を遊ばせている間、ずっと一人でベンチに座ってスマホを見ている母親の姿は、私の目には孤独そうに映った。 すれ違っても目を合わさないようにして挨拶しない人もいる。住人数は多いが、それぞれがそれぞれの箱の中にいて、交わることがない。それは今や当たり前の光景なのだろうか。なんだか寂しい。 そこで、私は畑作業をしている時など、自分から声をかけることにした。実際、これまで声をかけられて迷惑そうにした人はいなかったどころか、ほとんどの人が嬉しそうに話をする。 私は、毎日子供を連れて中庭にやってくる母親と立ち話をするようになり、幼稚園の息子さんは、植物を観察したり、ダンゴムシや青虫を捕獲して家で育てたりするのが好きなことを知った。息子さんは妹と一緒にやってきて、私に虫を見せてくれたり、幼稚園で作ったものや、お母さんに買ってもらった手袋などを見せてくれたりした。 畑の畝の間を歩き回り、苗を指差して、「これはナス!」「これはピーマン!」などと名前を当てる男の子もいる。その子は、週末になると、父親と一緒に中庭に出てきてボール遊びをしたり、芝生状態になった草の上で見事な逆立ちを私に見せてくれたりする。 その後、同じ年くらいの子供を連れた親たちも交流するようになっていった。中庭のビワや柿を一緒に採ったり、分けたり。今では、子供同士が国境を超えて仲良く遊ぶ姿も見られるようになった。 春に、中庭の反対側で土を耕し始めた人がいた。隣の棟に住むドイツ人の男性で、花園を作るとのことだった。 「色々な花をここに住んでいる人に見てもらいたいんです。コロナでみんな外に出られなくて、毎日がつまらない。花を見て楽しんでもらいたいんです」と流暢な日本語で話した。 彼は、花だけでなく、クランベリー、ワイルドベリー、ラズベリー、その他ドイツで育つ日本では珍しい植物を育て、立派な花園にした。 「クランベリーの苗は1つ800円くらいします。インターネットで注文しました。10くらい買って、かなりお金をつかいました。でも、私はここを美しい場所にしたい」 苗だけでなく土も肥料も自費で調達し、草取りや水やりを欠かさず、労力を惜しまず、この中庭で黙々と花園を作り上げる。 「皆さんに綺麗だなと見てもらえれば、私はそれで満足です」 この男性の心の広さに私は感動した。 一方、チームでの草刈りが軌道に乗り始めると、あの草刈りを最初に始めた男性が、今度は敷地の至る所に花の苗を植え始めた。 各電柱の根本にパンジーやビオラの寄せ植え、フェンスに沿ってマリーゴールド、百日草、ダリヤ、マーガレット、チョウチンカズラ、アサガオなど。子供広場にはグラジオラス、タチアオイ、ユリをはじめ、色とりどりの様々な花が咲き誇るようになった。 すると、夏の早朝など、それらの花に自主的に水やりをするPTA の母親たちの姿を見るようになった。 変化はそれだけにとどまらなかった。 私の棟の2階に住む単身赴任のバングラデシュ人男性は、バルコニーでナスやトマトの栽培を始め、並べる苗の数が増えていった。 そのちょうど上に住む同じく単身赴任の日本人男性は、夫と私が引っ越してくる前からいたので、10年以上住んでいることになるが、突然バルコニーで花を育て始めた。 最初は数鉢だったのがいつの間にか3段の棚にぎっしり並ぶほどになり、広いバルコニーのスペース半分ほどが花でいっぱいになっている様子を、中庭から見ることができる。 この男性はTさんの隣に住んでおり、Tさんによると、最初に少し買ってバルコニーに置いていたら可愛くて仕方なくなり、もっと欲しくなってどんどん増えていったとのこと。 かくして、宿舎の植物男子ベランダー誕生。一人暮らしの中年男性が花を育てるなんて、素敵なことではないか! 私の畑も最初は3畝から毎年拡大していき、今では最初の3倍ほどの広さになっている。収穫する野菜の種類も量も増えて、有り余る野菜を小さな子供のいるご近所やあの草刈り男性のお宅に配るようになった。 昨年の春、私の畑のちょうど前に位置する号室に、中国人家族が引っ越してきた。若い夫婦と子供3人、ご主人の父親の6人家族だが、ある日、私が畑をしているとご主人が声をかけてきて、父が畑をしたいが許可はいるのかと尋ねた。 特に許可はいらないと答えると、それまでご主人の隣で硬い表情をしてモジモジしていた老人の目が輝いた。 それから2〜3日後、この老人は息子さんの手を借りて、土の掘り返し作業を始めた。楽しくて仕方がないという風に満面の笑みを浮かべ、作業する背中がイキイキと動いていた。70歳ということだが、40代の背中にしか見えなかった。石はきれいに取り除かれ、あっという間に立派な畝ができてしまった。 息子さんによると、父親は日本語も英語も全くわからないということだったし、息子さんもガーデニングの道具や種をどこで入手できるか知らないと言った。 畝が完成した後に、私はこの老人に「有機肥料」と書かれた袋を見せて、別の小袋に入れた肥料を差し出すと、「シェイシェイ!」と言って受け取り、本当に嬉しそうに笑ってくれた。これが、私とおじいちゃん(と呼ぶことにした)との最初のコミュニケーションだった。 言葉がわからなくても、通じることがある。「ニーハオ!」と挨拶から始まり、顔を合わせる回数が増えるに従って、おじいちゃんは、支柱の強化の仕方を教えてくれたり、苗をくれたり、私の作業や畑の様子を見にくるようになった。 その後私は、おじいちゃんは小さな村の出身なので、訛りがあって中国人同士でも言葉が通じないということを知った。 息子さんによると、おじいちゃんはテレビも見ないし友達もいない。話せるのは家族だけ。趣味はなく、ただ野菜を育てることだけが好きということだった。日本に来て5年になるが、ずっと孫の世話と家事に追われ、楽しみもなく、気分が沈んでいたのだそうだ。 おじいちゃんの畑の野菜は、Tさんと私より2ヶ月ほど遅れて始まったにも関わらず、生育スピードが凄まじく、すぐに私たちの野菜を追い抜いただけでなく、無農薬でも虫に食われない丈夫で大きなものが育った。 おじいちゃんは、畑にいる時本当に嬉しそうでイキイキしており、その喜びが畑に反映されていた。おじいちゃんの畑は明らかに植物の色もエネルギーも違っていた。何を作っているのか、どうしてこんなに大きいのかと、興味津々で見に来る人々が現れるようになった。 トマト、きゅうり、インゲン、空芯菜、青梗菜など、おじいちゃんは、できた大量の野菜を大袋に入れて、気前よく私や近所の人に分けてくれる。 元気な野菜がたくさんできる。採っても新しいのがまた出てきて、食べるのが追いつかないので、皆さんにも食べてもらう。野菜を育てることは、収穫を分かち合うということでもあるのだと、気付かされる。 屋外で過ごす時間が増えると、人の動きがよくわかる。赤ちゃん、子供、若い親、中高年の人、散歩で敷地を通る近隣の高齢者。中庭の通路を通るドイツ人、ウクライナ人、ロシア人、アメリカ人、エストニア人、エジプト人、中国人、バングラデシュ人、ベトナム人など、私は様々な人と中庭や通路で挨拶をするようになった。 色とりどりでなんと面白い環境に住んでいるのだろう。草ぼうぼうの荒地だったところが、面白いと思える場所になるなんて! また、この冬は、いつも野菜をもらっているお礼にと、近所の人たちからいただいた土産や果物で、キッチンの棚がいっぱいになってしまうという現象が起きた。 中庭の絵を描いてから、気づいたらこのように様々なことが変化していた。 あの絵に込められたものは、その場所で私が見つけた「小さなこと」のひとつひとつと、そのひとつひとつに包含される夢のような世界(物語)だったが、それは私が感じる自然界と私自身との関係であった。 しかし、物語はそれをはるかに超えた領域からさらなる物語を運んできて、目の前で展開し拡大していった。 出来事として起こった、料金値上げによる業者の草刈りの終了とコロナ。それらは一見悪いことのように思えるが、それは素晴らしい変化のために必要なことだった。それが、ポジティブな事柄へと転換する流れの起爆剤となったのではないだろうか。 これらの変化を起こすために、誰かが何かを無理に始めたことはあるだろうか? 私はそうは思わない。 自発的に取り組む人々が現れ、それが拡大して、自然に子供たちや大人の交流が増えた。 このように、誰の関心もないような荒地だった場所が変化し、小さいながらもコミュニティらしきものが出来上がっていく過程を自ら目撃とともに体験するとは、私は夢にも思わなかった。 自分が住む場所への関心、他の住人への関心、交流、分かち合うという精神は、目覚めると、個人にも集合意識にも影響を与えて拡大していく。 拡大していくところに、豊かさの循環が生まれる。 それは、お金では得られないもの。 マインドが見た荒れた土地を心の目が楽園に変えたその絵に、私は “Home”というタイトルを付けたが、そのHomeの奥には、さらに拡大した心の世界があったのだ。 楽園が描かれると、次に、絵はそこに住む人間を巻き込み始めた。 荒地のままにするのか、それをどう扱うか、どう生きたいか。 そのことが突きつけられ、動き出したものが拡大していった。 この絵の奥には、人間がこの地上に実現できる楽園とその可能性が、それはまだほんの小さな始まりであるが、示されているのだと私は思う。
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そこは荒地だった。
私の住んでいる宿舎の敷地は広く、通路と駐車場以外、地面は土である。その土の部分は、当然植物に覆われる。人が植えた木や花の部分以外は、野草や雑草で覆われている。 12年前にアメリカから引っ越して、夫の勤務先が提供するこの宿舎へ到着した時、私はお化け屋敷に来たのかと思った。まだこんな建物が存在するのかと思うほど古く、中の階段と通路は暗くて、敷地は草が生い茂っていた。 それでも全く知らない土地へ来たわけで、住居が準備されていたことは有り難く、家賃も極めて低かったため経済的な助けにもなり、夫も私も更なる引っ越しは考えなかった。 仙台の中心まで歩いて行ける距離にありながら、自然豊かな山地に位置し、敷地は広いため、恵まれた環境だと言える。 だが、管理が行き届かず野生化した場所に人が住んでいるような印象を与える。なぜなら、中庭や建物周辺は、業者が来て年に2〜3回ほど除草するが、草はすぐに腰の高さくらいまで伸びてしまうからである。 そんな草の中から、幾度もの地震に耐え、壁のあちこちにシミや汚れが目立つ古い鉄筋コンクリートの建物がニョキっと顔を出しているのを想像してみて欲しい。きっと、お化け屋敷みたいだと思うだろう。 そんな場所で、夫と私は一気に昭和に逆戻りしたような生活を送っていたが、住み始めてから数年が経ったある日、私は家でボーッとしていた時に、ふと宿舎と中庭を絵にしてみようと思いついた。 当時、私はイギリスのシャーマン・アーティストFaith Noltonの本が気に入っており、よく開いていた。個性的な作品と、各作品にまつわる魂の物語がジャーナル形式で書かれているその本には、彼女の心が捉える自然の神秘的な力と、魂のパワフルかつ奥深い世界が詰まっており、私は魅了された。 宿舎の風景を絵にしてみようとふと思ったのは、彼女のような表現をしてみたいと思ったからだった。 ペンを持つと、私の内側からある考えが浮かんだ。 「私が住んでいるこの場所を心の目が観たら、どんな風に描くだろう?」と。 古く汚れたお化け屋敷のような建物と、草ぼうぼうで荒れた土地。それは、私の頭が見たままの姿から判断した風景であるのに対し、心が観ているのは、その場所で私が見つけた「小さなこと」のひとつひとつと、そのひとつひとつに包含される夢のような世界(物語)だった。 中庭にはアザミ、野菊、ヒナギク、シロツメクサ、ツユクサ、オオバコ、ハコベなど、子供の頃摘んで遊んだ野草がある。アジサイ、チューリップ、クロッカス、スイセン、レンギョウ、アヤメ、ツルギキョウ、ムスカリなどが季節になると花を咲かせる。 ビワの木、柿の木、いちじくの木、梅の木、クリの木、桜の木、ネコヤナギ、タラの木、杉の木、月桂樹、ネコヤナギ、ハナミズキ、その他名を知らない数々の木々。 カラスやスズメ、トビがいつも周りにいて、春になるとヒバリ、ウグイス、ホトトギスなどが鳴き初め、野バト、シジュウカラ、メジロ、カケス、モズ、オナガなど、一年を通して様々な鳥がやって来る。 様々な種類のハチやカメムシ、テントウムシ、コガネムシ、カナブン、カミキリムシ、ゴミムシ、セミ、トンボ、クモ、蛾や蝶、カマキリ、バッタ、コオロギなどなど。実家では子供の頃、庭先などでよく見かけたが大人になってあまり見なくなったような虫を、こちらではまだよく見かける。 住人から聞いた話によると、ネズミ、タヌキ、アナグマ、ハクビシンもいるそうだが、それらの動物に私はまだ遭遇していない。 今こうして挙げてみると、ここには様々な生き物が棲んでいることがわかるが、なんとなく過ごしていると日常の中に吸収されて消えてしまい、特に気づくことはない。 私は心の目で、少し離れた上空から私が住む場所とその周辺を観てみた。 私が住む号棟と敷地の出口へと続く通路を描くと、そこから私の意識は、引っ越して来てからそれまでに気づいた様々な小さなことのひとつひとつへとフォーカスされていった。 そこには、必ず感情が伴っていた。ああ、心とは、そうやって観るのだ。記憶には、必ず感情が伴っているということを、私たちは気づいているだろうか。 買い物からの帰りに、鮮やかなアザミで両側が赤紫に染まった通路を歩くとウキウキした。初夏になると、中庭の広い範囲が腰の高さほどになるジョチュウギクの白い花で埋め尽くされ、草原の花畑に滑り込んだような感覚になった。 のびのびと太陽に向かって開いている可愛らしいクローバーの葉を見ると、思わずしゃがんで四つ葉を探してみたくなる。 玄関近くには大きな桜の木があり、4月上旬には玄関に淡いピンク色の傘がかかったようになる。階段通路の窓を開けると、青い空とピンクの花が目に飛び込んでくる。キッチンの窓から見える街灯の光を受けた夜桜は、幻想的で美しい。 北側の窓から見える大きな杉の木には、毎年春になるとカラスが巣を作る。夏至の頃に卵が孵ってヒナが生まれるが、それまでに幾度となく訪れる強風に木が大きく揺れて、卵が落ちてしまうことがある。そんな年が何度もあった。 今年もカラスはまたそこに巣を作ったかと観察し、大風になるたびに私はハラハラして、どうか乗り切って欲しいと祈るのだった。 長い坂を下まで降りていくと、佐藤宗幸さんの「青葉城恋歌」に出てくる広瀬川の清らかな流れに出会う。最初の2年は、初秋に橋の上から鮭の遡上が観察できた。 そこから西へと進むと山々と里山が広がっており、空間に広がっているその緩くのどかな波動に初めて触れた時、私の深奥が震えたことを思い出した。 それらをひとつずつ描いていき、最後に、キッチンの窓から眺める変わりゆく夕空の色を添えて全体を見ていたら、ここは実は命あふれる美しい場所なのだと気づいた。 再び中庭に視線を戻すと、何かが足りないと感じたので、意識をフォーカスしてみた。浮かび上がって来たのは、精霊のような存在だった。それは、木々や花々の命を輝かせている存在だった。 それを描き加えると、しっくりきた。 マインドが見た荒れた土地を、心の目が楽園に変えた。 心の目は表面ではなく、そこから中へと入っていき、さらにその奥に息づくものまでをも捉えることができる。 心の宝箱から、豊かな感情に伴った目に見えないものが織り込まれていた。それを物語というのだろう。 絵が完成して、物語が織り込まれ、私はそれに “Home”というタイトルを付けた。 それで終わった。 終わった、と思っていた。 ところが、終わったどころではなく、始まったのである。 それも想像を絶する展開で! <(2)へつづく> 何が起こったのかわからないが、一瞬のうちに最高で完璧な空間へぶっ飛んだという経験はないだろうか?
何がそれを引き起こすのか? それは、発せられている波動・周波数である。 大学卒業後、就職した会社のクリスマスパーティで、バンド演奏が企画された。私はキーボードを担当し、ドラム、ギター、ベースも名乗り出る社員がいて、すぐに決まった。メンバーは、ギター以外は全員が新入社員だった。 歌うことが好きな同僚の女性が前座的に1曲歌うことになったが、メインとなるボーカルができる、またはやりたいという人は社内にはおらず、どこかから探してくる必要があった。 私は大学時代に音楽クラブに所属し、結成した女子バンドでアメリカやイギリスのポップミュージックを演奏していた。バンドのボーカルは、R&Bやソウルミュージックなどがぴったりな、かなりの声量で歌う先輩の小谷野純子さんで、仲間からは「コヤジュン」と呼ばれていた。 私は、コヤジュンさんを社外からの特別ゲストとして迎えるのはどうかと提案すると、他のメンバーは全員賛成してくれた。早速コヤジュンさんに連絡してみると、「社会人になってから歌う機会がなくなり、懐かしいので是非歌いたい」と快く引き受けてくれた。 曲を決めて各メンバーが家で練習し、最後の週末に一度だけ集まって音合わせをすることになった。 音合わせは社員メンバーで2時間ほどやってから、最後にコヤジュンさんに来てもらうというスケジュールだった。 まずは、それぞれが自分のペースで音出しを始めたが、久々ということもあるのか、初めてのメンバーだからか、皆おそるおそる音を出していて心許ない。 ギターは、たまたま私と同じ音楽クラブの先輩だったが、クラブの仲間からは「あいつは下手だ」と言われていた人だった。私には、どう下手なのかはわからなかったが。 ベースはまもなく調子を取り戻し、体全体でリズムを刻み出した。おそらく学生時代にバンドにいたのだろう。 ドラムは体格も良くて、派手にパフォーマンスをしたがっているようにも見えるが、途中で何度もリズムが大きく乱れたり、止まってしまったりする。全体を支えるドラムのテンポが乱れると、演奏には致命的な打撃になるので、大丈夫かなあと心配になってきた。 音合わせをしてみるとバラバラなままで、間違いも目立ち、ギターは途中で申し訳なさそうに肩をすぼめて後ろ向きになって弾き始め、ドラムも自分が間違うたびに悲惨な表情になっていった。 みんな内心イライラしていて、室内がどんどん険悪な雰囲気になっていくのがわかった。私も決して上手いわけではないが、こんなに合わせづらいメンバーは初めてだった。 何度か練習して、最初よりはマシになった頃、前座で歌う同僚が松任谷由実の「恋人がサンタクロース」を歌った。私は、これはカラオケみたいだなあと思ってしまった。よく歌えてはいるが、正直、どうしてもカラオケとしか感じられなかった。 私は責任を感じた。「わざわざ呼んだのに、こんなド素人の演奏ではコヤジュンさんに申しわけない。こんなのでは歌えないだろうなあ。不愉快な思いをして途中で帰ってしまうのではないだろうか・・・」 などと考えていたところへ、コヤジュンさんがドアを開けて「どうもー、はじめましてぇー」と元気よく入ってきた。 その瞬間、部屋の空気が変わった。開けた扉から、彼女の満面の笑みと元気な声とともに、陽の光が差し込んだ。 大きなステージで歌うことに慣れている彼女は、初対面の人たちでも気後れすることなく、和やかで親しみのある態度で接し、それでは練習を始めましょう、となった。 少したどたどしい感じで前奏が始まり、「コヤジュンさん大丈夫かな?入れるかな?」と思ったところで、彼女の第一声が発せられたその瞬間、 私を含めたメンバーと室内全体が一瞬ビクッとして、ギアが変わったのをはっきりと感じた。 それはバカン!と爆発したようだった。 コヤジュンさんの声量が半端ないだけでなく、素人では到底出ない響きが、それまであった室内の空気を吹き飛ばしてしまった。 そのインパクトはあまりにも強いためショックでもあり、私は鳥肌が立った。演奏が控えめで躊躇さえしていたメンバーも、私と同じように感じているのが伝わってきた。全員の血相が変わったからだった。 第一声で、全員が部屋ごとぶっ飛んだ。 ぶっ飛んで、突き抜けて、全員がプロ並みになってしまった。 おそるおそるは完全にどこかへ消えてしまい、演奏は突如気持ちよく楽しくなっただけでなく、楽器と自分がひとつになり、メンバーとひとつになり、演奏そのものになっていたからだった。 コヤジュンさんの声と私たちの演奏がひとつになると、私は肉体をそこに置いたまま、感覚全体がワーっと波立って広がっていくと同時に、完全に静止しているような異空間へと滑り込み、マインドが抜け落ちて、勝手に手だけが動いていた。 他のメンバーも、一緒にその異空間にいた。全員が一種の興奮と高揚状態にあり、演奏はイキイキとしていた。それまでの練習には一度もなかったテクニックやアドリブが、力むのではなく当然のように軽く楽しく入っていく。 全てがスムーズに流れて心地よく、質は高まり続け、演奏はクライマックス、恍惚状態へと入っていった。 それは、ドラムに最も顕著に現れた。 演奏がエンディングに向かっていく時、最後はドラムだけが派手になっていくので、私はじっと見ていたのだが、エンディングの連打、かき回し、締めは完璧だった。 手足をフルに動かしてドラムもシンバルも全部を叩きこなし、彼の顔面は紅潮していた。完全に「ゾーンの中にいた」と言えるだろう。どんどん高みへと昇っていき、プロ級というべく息を呑むようなパフォーマンスだった。 終わった瞬間、全員が放心状態でかなり長い間沈黙のままだった。 もう、それ以上のものはなかった。 完璧だった。 信じられない。これはなんだったのか? 心が震えた 驚嘆した 感動した 完璧すぎる それはなんと美しいのだろう! こんなことが起こりうるのか? 誰も何も言わなかった。言えなかった。 練習はそれで終わった。 もう、それ以上何も必要なかった。 最後に誰かが言った。 「コヤジュンさんって何者なのですか?あれは、あんなすごいのは、経験したことがなくて、もうすごいとしか言えない」 そう、すごいことが起こった。一瞬で全体が引き上がった。 コヤジュンさんが引き上げた。彼女の持つエネルギー、声の周波数で次元が一瞬で変化した。私たちは一瞬にして、一緒にその次元へとシフトした。 実は、私は昨年だったか、あるメッセージ(インスピレーション)を一定期間受け取り続け、この出来事を思い出すに至ったのだった。 それはこういうメッセージだった。 水は高い所から低い所へ流れる。エネルギーについても同じである。 他人や周囲に変化をもたらすために、外に対して意図的に何かをしなければならないということはなく、自分がどのようなエネルギーの状態か(波動が発せられているか)で、自ずと周りにも影響が及ぶ。 だからこそ、中心に留まりブレない高次の状態、つまりハートの泉から平安・喜び・感謝が溢れ出ているような状態であれば、溢れたものが流れて広がり、自ずと周りにも変化が起こる。 地球も世界も大変化の中にあり、混沌とした状態であるからこそ、それがとても重要となる。 「私一人では微力で何もできない、自分には何の力もない」と思うことはとんでもない誤解であり、一人の純粋な心から発せられるエネルギーは、とてつもない力を持っていることをほとんどの人がわかっていない。 そのことが私の心の中で何度も響いていた時に、たまたま読んでいた本(それはチャネリング本だったが)に、こんな言葉を見つけた。 「一人の高いエネルギーが1,000のネガティブなものを打ち消す」 ネガティブとは、おそれ、不安、競争、不足、欠乏、足りないという心理がベースになった構成を表しており、純粋なハートには、全てはひとつで、意識が拡大し続ける確固たるベースがあるのだ。 確かに、演奏しているみんなが楽器だけでなくその空間とひとつになり、演奏のレベルも体験の感覚自体も拡大していった。 プロにはプロのエネルギーがあり、影響力も大きいが、コヤジュンさんはプロではない。いや、何をもってプロとするかなど、本当は測れないものである。プロとか素人とか、そういう定義はどうでも良い。 コヤジュンさんが何か特別なことをしたというよりも、彼女は歌うことが好きでそれが喜びであり、そこから一心に歌うことそのものから発せられたものが、それまでそこにあったものを一瞬にして変化させ、周囲に内在していたものを最大限まで引き上げたということなのだろう。 大切なことは、それはコヤジュンさんだからできたということではなく、誰にでもできる、本来誰もが持っている能力であるということだ。 そして、コヤジュンさんの波動に触れるまでは、私だけでなく、おそらくメンバーそれぞれが、どうせ自分はこの程度だと思っていただろう。自分自身が、普段知っている自分を超えて、あんな完璧な演奏ができることに驚いただろう。 そのような偉大な能力もまた、本来誰にでも備わっているということだ。 イキイキのびのびと、喜びの中で一心に好きなことをやっている時間とそれをする人が増えれば増えるほど、本人の意識と並行して集合意識のレベルでも高いエネルギーが循環するようになる。 < (1)のエピソードはこちら > その声は誰なのか?それは、とても短い言葉でストレートにやって来る。 その声を聞いた瞬間、私は「ええっ嘘でしょ!?」とショックを受ける。 思っていることと正反対の方向へと導く「鶴の一声」。それが、これまで私に何度か投げかけられた。 2011年3月に東日本大震災が発生し、その年、夫に日本での仕事が突如舞い込んだ。 私たちは、翌年2012年の秋にシアトルから仙台に引っ越すことになったが、そのちょうど1年前に当たる震災の年の秋には、アメリカに住みながらも、すでに大分でタッチドローイングのワークショップが始まっていた。 それは、震災の前年2010年に出会った大分の人と友達になり、タッチドローイングに興味を持った彼女が、私のためにワークショップを主催してくれたおかげである。 その後も数年間、毎年彼女が主催者となり、主催者のボディワークとのコラボで、大分ワークショップは1日のみから2日間に拡大し、多い時は年2回開催されることもあった。その後、さらにワークショップは3日間の宿泊型リトリートへと発展した。 その間、私は他にもご縁が繋がっていき、主催を快く引き受けてくれる人々の有難いサポートのおかげで、北海道、岩手、仙台、東京、愛知、岡山、広島でも1日〜2日間のワークショップとリトリートを開くことができた。 2014年には大分の湯布院で3日間のリトリートが始まり、翌年2015年はワークの開催地も最多になっていた。 中でも湯布院でのタッチドローイングは、会場・宿泊施設が貸し切りとなり、1日3食地元の新鮮食材を使った心のこもった美味しい食事と源泉掛け流しの温泉付きという、贅沢で最高の環境が提供された。 豊かな自然の中でのワークには、朝の散歩、ボディワーク、夜の談話なども組み込まれ、寝食を共にする3日間ということもあり、内容は深くて濃く、参加者にとってもファシリテータの私にとっても体験はパワフルなものとなった。 私のタッチドローイングワークの中で、大分は最も古くて開催数も最多だった。3日間の初回リトリートは成功し、2回目のリトリートも前回とは違った形のワークとなり、パワフルな体験の場となった。 この年は、仙台2ヶ所で1日のワーク、東京、愛知、北海道で2日間のワークを行っており、タッチドローイングも徐々に広がってきていると実感していた。 アメリカでは毎年5泊6日のリトリートがあるが、それくらいの日数になると、内容はより充実し、体験は人生が変わるほどのパワフルなものとなる。私は、将来それを日本で実現することを目標としていた。 大分リトリートは強い手応えがあり、ワークの場は盛り上がっていた。日数こそ短いが、環境はアメリカのものに匹敵するほど整っていた。 通常の意識を超えたレベルで展開していくワークに私も参加者も没頭し、深いシェアに感動し、シンクロに驚いた。そこには、自由な表現が許される完全な体験型であるからこそ味わえる喜びがあった。 ワークの場のエネルギーは高まり、ドローイングに没頭している参加者を眺めながら、私は大分リトリートが定着して、ここに全国から人が集まり、リトリートの日数もさらに拡大していく、と確信した。 雄大な自然、心温まる食事、ゆったりと過ごせるスペース、心地よい温泉・・・。そんな環境下で自然なかたちで開いていく心と出会い、本当の自分を思い出し、本来の力を取り戻していく。参加者と共に創造する喜びの世界が広がっていく。 ワークの場はクライマックスへと向かい、私の気持ちも高揚していった。 本当の自分の力を取り戻していく喜び、創造することの喜びの世界。 「私はそれを実現できるのだ!リトリートがさらに充実していく!」 まるでそれがもう叶ったかのように想像すると胸が熱くなり、興奮とともに一気に気分が至福の境地に達したその瞬間、 「リトリートはこれで終わり!」 と、頭の右上30センチほどのところから、一言入ってきた。それは強く、とてもはっきりとした声だった。 「ええっ!!?」 私の頭に、斧がガーンと振り下ろされた。私はその時参加者の輪の中に立っていたのだが、よろめいたほどだった。 ショックで頭の中が真っ白になり、しばらく立ち尽くしていた。 「うそー!あり得ない!!」 鶴の一声は、あまりにもショッキングだった。 「これで終わり」という言葉は、私の頭に突き刺さり、心の中で波立った。 至福の瞬間に、一気に奈落に突き落とされた。 180度、完全に逆。これ以上の真逆はあり得ない。 打ちひしがれるような衝撃。その言葉を受け入れ難かったが、無視もできなかった。なぜなら、過去の経験から、それが私をサポートするガイドの言葉だとわかっていたからだ。 「それにしても、このタイミングで来るかぁ?!」と反論したいところだったが、ガイドたちは、私に意地悪をしたのではない。 私のマインドには到底わからないことを、予告してくれていたのだ。それは私を止める忠告ではなく、私が次のステップへと準備できるように、よりスムーズに移行できるように、前もって愛あるメッセージを送ってくれたのであった。 ただ、その時は心に余裕などないので、私はそんなことは理解できなかったが。 実際、その言葉が降りてきて、すぐに全てがシャットダウンされた訳ではなかった。しかし、環境が急変した。 主催者にも会場のオーナーにも大きな転機が訪れて、主催に終止符が打たれ、会場・宿泊施設もこれまでのようには利用できなくなった。そういう意味で「これで終わり」というのは、その通りだった。 しかし、その言葉は、実はその後の展開を示唆していたと、今でこそわかる。 私は新しく塗り絵ワークを編み出したり、別の場所でリトリートを開く機会を設けることができたりして、それなりに活動を続けたが、すぐにどうしても続けられない時がやってきた。 のっぴきならない出来事が、自分にも起きたからである。 アメリカに旅行中、私は突然網膜剥離になり、しばらく日本に戻れなくなった。 その後も網膜剥離の後遺症と白内障を併発して手術することになっただけでなく、今度は、反対の目も白内障になって手術をする羽目になった。 いずれの場合も手術の空きがなく、見づらさが増す中で、半年以上辛抱強く順番を待たなければならなかった。さらに、その翌年には後発白内障になるという展開になり、結局2017年からほぼ3年間私は活動できず、多くの時間を家で費やす生活になった。 すると次にコロナが始まり、そこからさらに3年間、じっと内側へフォーカスする時間となる。 コロナによって、ほぼ全ての人の生活が一変した。だが私にとって、それはこれまでの3年間がそのままスムーズに自動更新されたようなもので、日常に大した変化は感じられず、むしろ私は、引き続きゆったりと過ごすことに満足していた。 今振り返ると、あの時受け取った「これで終わり」という言葉は、そのままマインドに暴走させずに、この6年間がやってくることへと意識を方向づけるためのものだったかもしれない。 そういえば、と思い出すことがあった。 「あなたは、この先、今まで表に出していたものを一旦全部引っ込め、大きな軌道修正に入ります。今、氷山の一角が出ている状態ですが、水面下には巨大な部分があるのです。それが次第に上がってくるでしょう」 それは、8年ほど前に受けた占星術のセッションで言われたことだった。 当時私の活動は最も盛んな頃だったため、「今まで表に出していたものを一旦全部引っ込める」と言われても、何のことかさっぱりわからなかった。ただ、「全部を引っ込める」の「全部」という言葉は強烈で、「全部?何?どういうこと?」と思ったのを記憶している。 出すことの真逆がやってくるとは、その時の自分には全く信じられないことだった。 占星術のセッションで「軌道修正」という言葉が使われたが、方向転換するには、ブレーキをかけて速度を落とす必要がある。同じ速度で走り続けたまま方向転換しようとすると、とんでもなく大きな遠心力がかかって振り飛ばされ、大怪我をする。 曲がる角度によっては一旦停止する必要もあり、角度が大きければ大きいほど転換を終えるのに時間がかかる。ガチョウの首のように湾曲した場所をイメージしてみるとわかるだろう。 私にとってこの6年間は、そのような時期にあたるのだろうと、最近になってわかるようになってきた。あの時の占星術セッションを通して、メッセージが伝えられていたのだろう。魂の青写真はこうなっているよ、大事な時期が来るよ、と。 そうでなければ、その占星術のメッセージがこんな風に今腑に落ちることはないし、起こることは何であれ(目の不調さえも)プロセスの一部であり、全て順調である、と肯定的に受け止めることはないだろう。 それまでの私の意識は外に向いており、頭の中は「何かを成し遂げなければならない」、「タッチドローイングを日本で広めなければならない」という思いが強かった。そのため、どこで誰と何をすれば良いのか?と考えることが多かった。 そうしなさいとは誰も言っていないのに、自分で勝手に設定して忙しく動き回り、疲れて、それでも結果が出ると満足し、すぐにまたハングリーになって次のチャンスを掴むべく、ハンティングを始めた。 そんな自分だったが、目の不調でストップがかかり、それからは何かをしてみようと頭が考えても、体は動かなかった。マインドは動き続けようとしたいが、1ミリでも感覚が合わないと、ハートは拒否した。 今では、ハートは魂に従うが、「足りない」がベースで忙しく動き続けたいマインドには同意しない、と断言できる。 内側へ意識をフォーカスして送る日々は、穏やかで平和である。外に目を向けず、じっとしているほど、クリアになっていった。この6年の間に、頭で考えて行動することから、ハートで感じ取って行動することへとシフトした。 特に何もしていないのに、忙しく動いていた時よりも充足感が得られるのはなぜか? それは、おそらくマインドよりもハートの方が優位になってくるからだろう。 ハートはいつも落ち着いていて余裕があり、おおらかでブレない。マインドとは視点が違い、視野が広い。自分が必要なもの、必要でないものをはっきり知っているし、こだわりや欲がない。自分が自分であることが好きで、自分の気持ちに正直であることが好きだ。 自分でいることに安心できるというのは、ハートとしっかり繋がっていない限り(そのゾーンにいないと)、とても難しい。 人生のこのタイミングで、軸を完全にマインドからハートへと方向転換することが求められていた。それは、新しい世界へとシフトする上で絶対的に必要なこと。 ハートの領域には広い世界が待っている。五感を超えた感覚が開くにつれ、新しい扉が開き、今まで見えなかった景色(理解)が目の前に広がる。その先にはさらなる新しい感覚が待っている。開いた扉の奥には次の扉があり、そうやって徐々に現実そのものが変化し拡大していく。 外の世界は大混乱し、重く古い体制が崩壊していく中で、内なる世界は平和で明るく軽く、次々に新しい視点を運んでくる。ものの見方が変われば、取り巻く世界も同時に変化するのは当然で、以前よりも広がりを持った世界が目の前に現れる。 気づけば、今までとは違った現実の中にいる。何かに一生懸命取り組んでいる訳ではないのに、いつの間にか今の状態へと変化していた、という風に。 しかし、気づこうが気づくまいが、意識は日々拡大し続けている。全ては流れの中にあり、変化し続ける。抵抗しなければしないほど、スムーズに流れる。 その流れ自体が変化のプロセスであり、私たちは生きている限り経験を続けていく。物事を通してこそできる経験によって、心は感じ、意識は変化・拡大していく。 絶妙なタイミングで鶴の一声が考えていることと正反対でやってきて、その都度仰天させられる、というのも経験。ユニークで強烈な経験なのである。 「逆・正反対」の方向は遮る力を連想させ、それに「あらがう」というイメージが付いてくるが、私の場合はそちらこそが本流であり、あらがうことなく「私の流れ」に乗ることであると、経験から知った。 私が設定した人生の青写真や私を見守る星々の運行は、その流れを構成する主要部分なのだろう。 ガチョウの首のように湾曲した部分がやって来ても、きちんとそれに沿って進めるよう「そっちじゃないぞ、こっちだぞ」と導いてくれているガチョウではなく鶴の一声。 聞こえた時はショックでも、片時も離れず私を見守っている愛の声だと知っているから、前方はいつも光に照らされており、私は我が道を歩いてゆけば良いのである。 その声は誰なのか?それは、とても短い言葉でストレートにやって来る。 その声を聞いた瞬間、私は「ええっ嘘でしょ!?」とショックを受ける。 思っていることと正反対の方向へと導く「鶴の一声」。それが、これまで私に何度か投げかけられた。 その都度私は思う。
人生の青写真というものがあり、そのコースを私は結構細かく設定してきたのだろうか? 強烈で忘れもしないそのような声を、例えばこんな場面で受け取った。 ひとつは、夫と東京で出会った時。 インターネットがなかった時代、私は夫と海外文通で出会った。 中学で私はすでに海外に興味があり、アメリカとヨーロッパに住む複数の人と文通をしていた。全く違う環境に住む人と英語でやり取りをして、知らない世界に触れることは刺激的で、私は文章を書くことも好きだったため、海外文通はとても楽しかった。 大人になってアメリカで2年ほど学生生活を送り、帰国後も英語力を保つために文通クラブに入った。 おそらく、会員は何百人もいただろう。 ある日、男性会員10人ほどのプロフィールリストが届いた。私の目的は質の高い英語に触れることだったので、私が色々教えてもらえ自分を高められる学歴の持ち主で、私が住んだことのある西海岸の居住者に的を絞った。 そうして選んだ数人の中に、今の夫がいた。 後で知ったことだが、当時夫は学生生活を終えて卒業旅行で何ヶ国かアジアを回るため、現地を案内してくれる人を必要としており、案内してもらう交換として自分が英語を教えるという目的で、クラブに入会した。 私たちは同じ時期に入会しており、夫が受け取った女性のプロフィールリストに私がいたそうだ。もしタイミングがずれていたら、どちらも相手のリストには入っていなかっただろう。 インターネットのない時代だったので、何百人もの会員がいても、個人には特定のリストしか郵送されなかったのである。 私は手紙を書いた全員から返事を受け取ったが、夫だけは違っていた。夫も、私以外の女性から数多く手紙を受け取ったそうだが、私は違っていたそうだ。 何が違うのか?というと、私の場合は、相手の機知に溢れた文章、思慮深さ、私を引き込む独特な世界、そこに滲み出る人柄のようなものだった。 当時はインターネットのない時代、郵便で手紙をやり取りするわけだが、郵送は数日〜1週間かかった。 書けば書くほどもっと書きたくなり、手が止まらない。なんといっても手紙での会話が楽しい。受け取るのを待つ間のワクワク感も、ネットで常に繋がっていないからこそ、ひとしおだった。 「書く」というのは、内面的な活動である。自分の内側を相手にさらけ出していく。 互いに自分の考えや価値観を語り合い、二人のコミュニケーションは驚くほど深まっていった。視界に入るものがないだけに、心で感じ取ることが中心となる。そのため、会って話すよりも、心の部分で引き合うものは強いのだろう。 私たちはとても気が合った。 互いに受け取るとすぐ返事をするという、かなり集中的なやり取りが8ヶ月ほど続いたある日、夫が東京の古い友人を訪ねることになり、友人宅はたまたま当時私が住んでいた場所と近かったので、私たちは実際に会うことになった。 「会ったらどんな話をするだろう?」魅力的に文章を展開させ、豊かな世界を見せてくれるその面白い人に会うことに、私はワクワクした。 待ち合わせ場所を私の職場の近くにして、一緒にランチを食べることになった。 ところが、会った瞬間に私の期待は音を立てて崩れた。 目の前に現れた人は、私が受け取っていた写真の人物とはかけ離れていただけでなく、手紙では饒舌なのに、テーブルの前に座るとむっつりと黙ったままだった。 大きな体でどっしり座ってじっとしている姿が、私の目には人ではなく岩に見えてきた。楽しい会話が弾むのを期待していただけに、岩と顔を突き合わせているその状態は、悪夢だった。 こちらが何か話しても、話は続かず、すぐ沈黙になる。相手の表情は固まったままで、重苦しい空気だけが流れていった。 私は「あの手紙はなんだったのか?これは詐欺だ」と思ったほどだった。 その後、もう一度週末に会ったが、やはり全く面白くなかった。 そんな人に興味は持てなかった。私はそっけない態度で接し、もうどうでも良くなった。 夕方、雨が降り始めた。友人宅に戻るためにタクシーを呼んだその男性と並んで、私は道路に立っていた。特に会話もなく、私は別れ際に冷たく「さよなら」とだけ言った。 タクシーに乗り込む彼の後ろ姿は、雨に濡れてしょんぼりしていた。本当に可哀想なほど、悲しげにしょんぼりと背中を丸めていて、体全体で泣いているのかと思うほどのものが伝わってきた。 それでも、私は冷たく心の中で「これが最後。もうこの人に手紙を書くことはない。完全に終わった」と自分に言い切ったその瞬間、 「わたしは このひとと けっこんする」という言葉が、頭の右上30センチほどのところから入ってきた。それは、とてもはっきりとした大きな声だった。 「ええっ!!?」 晴天の霹靂。 いや、これは雨天の霹靂だったが・・・。 外から入ってきた言葉なのに、「あなたはこの人と結婚する」ではなく「『私は』この人と結婚する」だった。 一撃を喰らったマインドは、ショック状態。 が、そのマインドをよそに、私は心の中でこう呟いていた。 「はい、わかりました。あの人と結婚します」 「!!!!」 追い討ちを受けて、マインドはさらに仰天。 右上からの声は、私のハートにスーッと直球で入り、ハートは冷静に受け取っていた。 それは思考も感情も何もなく、正しいも間違いもなく、迷いもなく、それが当然のことで、私はただそうする、というとてもクリアな感じ。 淡々としているが、それ以外はあり得ないというどっしりとした感覚でもある。 それから数週間後、アメリカから手紙が届いた。 そこにはプロポーズの言葉が書かれていた。 あの時聞いたあの声は、肉体を超えた私の魂・ハイヤーセルフの声だったのだろう。 方向を間違えると、設定した人生の軌道から完全に逸れてしまう。 「そっちじゃない、こっちだ!思い出して!!」という声だった。 なので、マインドではびっくり仰天しながらも、ハートでは「はいはい、そうですよね」ということだった。いや、「そうそう、そうだったよね」という方が正しいだろう。 結婚というのは人生で最大のイベントのひとつだが、そこで自分の考え(感情がベースとなった考え)とは真逆の方向へと直されるなんて。 人はまずは出会って外見から入り、徐々に親密になっていくことが多いが、私たちは通常の逆で、互いに心を分かち合い、心が繋がり合った後で外側へというパターンだった。 この「逆」というのに、どうも私はご縁があるようで、気づくと主流とは違う場所にいることが多い。 逆のエネルギーは、実はとても強力である。正よりも強いのではないかと思うほどの、魔法のような力がある。 もうひとつのエピソードも、そんな「逆」に仰天したお話。 <次回のエピソードはこちら> |