その声は誰なのか?それは、とても短い言葉でストレートにやって来る。 その声を聞いた瞬間、私は「ええっ嘘でしょ!?」とショックを受ける。 思っていることと正反対の方向へと導く「鶴の一声」。それが、これまで私に何度か投げかけられた。 その都度私は思う。
人生の青写真というものがあり、そのコースを私は結構細かく設定してきたのだろうか? 強烈で忘れもしないそのような声を、例えばこんな場面で受け取った。 ひとつは、夫と東京で出会った時。 インターネットがなかった時代、私は夫と海外文通で出会った。 中学で私はすでに海外に興味があり、アメリカとヨーロッパに住む複数の人と文通をしていた。全く違う環境に住む人と英語でやり取りをして、知らない世界に触れることは刺激的で、私は文章を書くことも好きだったため、海外文通はとても楽しかった。 大人になってアメリカで2年ほど学生生活を送り、帰国後も英語力を保つために文通クラブに入った。 おそらく、会員は何百人もいただろう。 ある日、男性会員10人ほどのプロフィールリストが届いた。私の目的は質の高い英語に触れることだったので、私が色々教えてもらえ自分を高められる学歴の持ち主で、私が住んだことのある西海岸の居住者に的を絞った。 そうして選んだ数人の中に、今の夫がいた。 後で知ったことだが、当時夫は学生生活を終えて卒業旅行で何ヶ国かアジアを回るため、現地を案内してくれる人を必要としており、案内してもらう交換として自分が英語を教えるという目的で、クラブに入会した。 私たちは同じ時期に入会しており、夫が受け取った女性のプロフィールリストに私がいたそうだ。もしタイミングがずれていたら、どちらも相手のリストには入っていなかっただろう。 インターネットのない時代だったので、何百人もの会員がいても、個人には特定のリストしか郵送されなかったのである。 私は手紙を書いた全員から返事を受け取ったが、夫だけは違っていた。夫も、私以外の女性から数多く手紙を受け取ったそうだが、私は違っていたそうだ。 何が違うのか?というと、私の場合は、相手の機知に溢れた文章、思慮深さ、私を引き込む独特な世界、そこに滲み出る人柄のようなものだった。 当時はインターネットのない時代、郵便で手紙をやり取りするわけだが、郵送は数日〜1週間かかった。 書けば書くほどもっと書きたくなり、手が止まらない。なんといっても手紙での会話が楽しい。受け取るのを待つ間のワクワク感も、ネットで常に繋がっていないからこそ、ひとしおだった。 「書く」というのは、内面的な活動である。自分の内側を相手にさらけ出していく。 互いに自分の考えや価値観を語り合い、二人のコミュニケーションは驚くほど深まっていった。視界に入るものがないだけに、心で感じ取ることが中心となる。そのため、会って話すよりも、心の部分で引き合うものは強いのだろう。 私たちはとても気が合った。 互いに受け取るとすぐ返事をするという、かなり集中的なやり取りが8ヶ月ほど続いたある日、夫が東京の古い友人を訪ねることになり、友人宅はたまたま当時私が住んでいた場所と近かったので、私たちは実際に会うことになった。 「会ったらどんな話をするだろう?」魅力的に文章を展開させ、豊かな世界を見せてくれるその面白い人に会うことに、私はワクワクした。 待ち合わせ場所を私の職場の近くにして、一緒にランチを食べることになった。 ところが、会った瞬間に私の期待は音を立てて崩れた。 目の前に現れた人は、私が受け取っていた写真の人物とはかけ離れていただけでなく、手紙では饒舌なのに、テーブルの前に座るとむっつりと黙ったままだった。 大きな体でどっしり座ってじっとしている姿が、私の目には人ではなく岩に見えてきた。楽しい会話が弾むのを期待していただけに、岩と顔を突き合わせているその状態は、悪夢だった。 こちらが何か話しても、話は続かず、すぐ沈黙になる。相手の表情は固まったままで、重苦しい空気だけが流れていった。 私は「あの手紙はなんだったのか?これは詐欺だ」と思ったほどだった。 その後、もう一度週末に会ったが、やはり全く面白くなかった。 そんな人に興味は持てなかった。私はそっけない態度で接し、もうどうでも良くなった。 夕方、雨が降り始めた。友人宅に戻るためにタクシーを呼んだその男性と並んで、私は道路に立っていた。特に会話もなく、私は別れ際に冷たく「さよなら」とだけ言った。 タクシーに乗り込む彼の後ろ姿は、雨に濡れてしょんぼりしていた。本当に可哀想なほど、悲しげにしょんぼりと背中を丸めていて、体全体で泣いているのかと思うほどのものが伝わってきた。 それでも、私は冷たく心の中で「これが最後。もうこの人に手紙を書くことはない。完全に終わった」と自分に言い切ったその瞬間、 「わたしは このひとと けっこんする」という言葉が、頭の右上30センチほどのところから入ってきた。それは、とてもはっきりとした大きな声だった。 「ええっ!!?」 晴天の霹靂。 いや、これは雨天の霹靂だったが・・・。 外から入ってきた言葉なのに、「あなたはこの人と結婚する」ではなく「『私は』この人と結婚する」だった。 一撃を喰らったマインドは、ショック状態。 が、そのマインドをよそに、私は心の中でこう呟いていた。 「はい、わかりました。あの人と結婚します」 「!!!!」 追い討ちを受けて、マインドはさらに仰天。 右上からの声は、私のハートにスーッと直球で入り、ハートは冷静に受け取っていた。 それは思考も感情も何もなく、正しいも間違いもなく、迷いもなく、それが当然のことで、私はただそうする、というとてもクリアな感じ。 淡々としているが、それ以外はあり得ないというどっしりとした感覚でもある。 それから数週間後、アメリカから手紙が届いた。 そこにはプロポーズの言葉が書かれていた。 あの時聞いたあの声は、肉体を超えた私の魂・ハイヤーセルフの声だったのだろう。 方向を間違えると、設定した人生の軌道から完全に逸れてしまう。 「そっちじゃない、こっちだ!思い出して!!」という声だった。 なので、マインドではびっくり仰天しながらも、ハートでは「はいはい、そうですよね」ということだった。いや、「そうそう、そうだったよね」という方が正しいだろう。 結婚というのは人生で最大のイベントのひとつだが、そこで自分の考え(感情がベースとなった考え)とは真逆の方向へと直されるなんて。 人はまずは出会って外見から入り、徐々に親密になっていくことが多いが、私たちは通常の逆で、互いに心を分かち合い、心が繋がり合った後で外側へというパターンだった。 この「逆」というのに、どうも私はご縁があるようで、気づくと主流とは違う場所にいることが多い。 逆のエネルギーは、実はとても強力である。正よりも強いのではないかと思うほどの、魔法のような力がある。 もうひとつのエピソードも、そんな「逆」に仰天したお話。 <次回のエピソードはこちら>
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私のお気に入りの場所の一つ、山形県東根市の関山大滝は、昨年豪雨に見舞われ、地形がすっかり変わってしまった。 秋に訪れたときにそれを目の当たりにすることになるのだが、河岸近くの岩がほぼなくなっており、川幅は以前の5分の1ほどになり、河原は石で覆い尽くされていた。 私はてっきり観光か何かのビジネスを目的に、河原をブルドーザーで平らにしてしまったのかと思い、大滝の店の人に尋ねたほどだった。 その豹変の様は凄まじく、痛々しく、荒れていて極めて居心地が悪かったので、私はすぐにその場を去った。 撮った写真を友人に見せると彼女も驚いたそうで、「(その場所は一掃されて)まるで生まれたての赤ん坊が、バブバブ言っているような感じ」と表現した。 その後、秋に2度目に訪れた時は、少し心に余裕ができていたので、そこでひと時を過ごすことにした。 河原には無数の色とりどりの石があり、私は魅了された。 石は地球のレコードキーパー。これらの石にはどんなストーリーがあるのだろう? その後、以前私が歌を捧げた小川の方も気になったので、そちらの方へ足を踏み入れた。 こちらの地形の方が変化が大きい。おそらく山の斜面を大量の土砂が流れ、木々がなぎ倒され、小川は泥や石で埋め尽くされたのだろうが、また細々とした流れが戻ってきていた。 以前、ここで木々を見上げて歌を捧げたことを思い出すと、ふと目が足元に落ちた。 「あっ!!」 目が釘付けになった。 石が私に微笑みかけている! その瞬間、石は私の心に触れた。
私はなんとも言えない温かいものに包まれ、大きな安心感と心地よさに満たされた。 それを今まで感じたこともないほど強烈に感じ、石からそのような感覚を受け取るのは初めてだったので、衝撃的だった。 森の精霊・・・私の目に石は長老のように見え、イタズラっぽく笑っているように見えた。 それにしてもなんとまあ、うまくラインが入っていること。私にはどうしても顔にしか見えない。 その目からこう伝わってきた。 「全て順調、何も問題はない」 私は、そこに全てを受け入れてあるがままに存在している森の意識を感じた。 この荒れた場所を見たら、誰だって癒しが必要と思うだろう。そんな場所で笑っている精霊に、逆に私が癒されているなんて! せせこましい思考ではなく、意識を拡大し、森と溶け合うことで理解できる領域。 精霊はさらに教えてくれる。 意識が拡がると自ずと周りと溶け合っていき、そこで得る理解がある。それは愛の種のようなものであり、その種が芽吹く場所はより広く、より調和した世界なのだと。 この心地よい世界を、私は夢の中で感じ取った。
起きていたかのようなはっきりとした意識の状態で、まるで実際に体験したかのようにリアルに・・・。 今朝方、こんな夢を見た。 どこからか歌が聴こえてくる。 そのメロディーに合わせて、自然に私も歌い出す。ハーモニーが創り出す音の中を、私は滑らかに流れていく。その滑らかさが、なんとも心地よい。 気づくと一方の音が消えており、いつの間にかバトンタッチされたかのように、私は一人で歌っていた。 私の目の前には広大な空間があった。 空、大地、どこまでも続く平原。 歌いながら私の意識は、特定の場所へと引き寄せられる。目の前に広がる空間に向かって開いたハートから、音が発せられる。音は特定のメロディーとなって、空間に溶けていく。 何の抵抗もなく、私は100%感じたままを表現していた。そこに思考は全くなく、私の存在そのものがセンサーとして感じ取ると同時に、出力をしていた。 そのなんと心地よいことか。 意識は一箇所に引き寄せられるが、そこに長くは留まらず、次へと動いていく。私は常に流れの中におり、それ自体が心地よい。 目の前に広がる空間に向かって歌っていたが、しばらくすると大地が現れた。口から出る音は、大地の波動と呼応する低い音へと変化し、その振動は大地と対話していた。私は溶けて広がっていき、大地と一体になる感覚に包まれた。 次に空が現れた。空に向かって発した音とともに、私の意識が広がっていく。それは私という存在そのものが、溶けて広がっていく感覚である。 すると、音が向けられた一点に、きらめく星々が吸い込まれるように集まってきた。 その音の中で、星々は弧を描くようにゆっくりと回転し始め、それが銀河を形作っていく。その様子を眺めながら、私は感じ取った。私が発した音が星を動かし、銀河を創り出していくことを。 音は、特定の周波数を持つ意識であった。 地上の空間が現れると、次は大地、そして次は天空という風に、目の前の風景が自然に移っていったが、それは私を超えた大いなるものが司る流れの中にあった。 私の意識は一箇所に留まることはなく、穏やかな川の上をゆっくりくだっていくように、滑らかに動いていく。 その滑らかな動きの中で変化する光景の一つ一つを、私のハートから発せられた音が包む。 継ぎ目もなく、途切れもなく、音とともに完全に滑らかに流れていく中で、終始私は心地よさを味わっていた。 どの瞬間も心地よい。それしかない。そこに思考が入る余地は全くなく、そこには感じることだけがあった。 一貫した絶対的な心地よさが占める領域。 この夢を見る前に、実は私は別の夢で不快な思いをして、その不快さが消えずにしばらく眠れなかった。しかも、不快さを感じていると怖れまで出てきて、ますます眠れなくなった。 それは私が望むことではないのを知っていたので、私は自分が望む状態を自分自身に問うてから眠りに戻った。 その眠りの中で受け取ったのが、この夢。高次の私からの贈り物だった。 私は創造者として音を発していた。音は意識であり、意識が創造の始まりであることを、音を発し、それを聴きながら、私は感じ取った。 感じることで理解できる。そのことを知った。 この感覚を、私は夢の中でしっかり掴み取ることができたか。 もちろん、私のハートは最初から知っている。 この感覚は、この地上での自分の在り方そのものへと私を導くもの。目には見えぬ大きな流れと調和しているときに得られる、絶対的な信頼と心地よさの感覚。 その感覚の中で私は喜びそのものとなり、喜びはそれを表現する。それが呼吸をすることであり、生きていることであるかのように、表現することは喜びであり、喜びは表現を欲した。 表現は体験をもたらし、そこからさらに喜びが生まれた。 あらゆるものが移りゆく。滑らかに移りゆく。そこに身を置き、心地よく喜びの中で創造すること、し続けること、その絶え間ない喜びの創造の中で生きること。それが可能であることを、夢は教えてくれていた。 そして、その世界へと私の深奥が今の私を招いていることを知っているから、私はその道を積極的に歩くために、さらに一歩踏み出す。 執着を手放す、過去を手放す、物を手放す。
ちまたで「手放せ」の大合唱。 新しいものが入ってくるためには、古いものが出ていかなければならない。 クリーンアップが必要。 確かに、物理的にもエネルギー的にも、これはその通り。 私も実践しているし、過去の経験からそれは間違いないと私は思う。 全てを手放す。 宇宙にゆだねる。 そういう言葉もよく聞かれる。 それを真面目に実践しようとした私。これも手放すのか、あれも手放さなければならないのかと、肩に力が入って頑張ってしまう。 そこへある時「へっ?」という出来事があって、「あららぁ、それでいいのね〜」と楽になった。 これは「全てを手放す」という意味を誤解し、手放す対象を間違えていたことを知って、そこから意識の立て直しが始まったというお話。 重い荷物をいくつも持って両手が塞がっていたり、今すぐその場を発たなければならないのに、そこらじゅうに散らばった荷物をまずかき集めてからでないと行けないと焦っている夢をよく見た時期があった。 その頃はちまたで断捨離という言葉が流行り、前進するためには、とにかく執着を手放さなければならないという考えが私の頭の中にあった。 両親の世話をするために数年間ほぼ毎月実家へ赴き、滞在する約1週間は全力疾走で頑張っていたが、やればやるほど負担は増えてきて、私は心身ともにかなり疲れてきた。 そこで、頻度を毎月から2ヶ月おきくらいにして、滞在日数も5日ほどに減らした頃、母が車を処分したいと言い出した。 実家の車は、滞在中私にとって欠かせないものだった。 父は85歳の時に免許を返上したが、実家は車がないと生活が不便な場所にあるため、そのまま保有して、私が滞在するときにだけ使っていた。 母の通院、買い物、遊びに来た姉の送迎、家族での外食、クリーンセンターへのゴミの運搬などに、車は欠かせない。家族の中で運転できるのは私だけなので、車があってこそできることは全て私が引き受ける。 しかし、車を維持するために必要な自動車保険や車検にかかる費用を実家が払い続けるのは負担になり、これからどれだけお金が必要なのかわからない状態で、そのような「無駄な」出費は迷惑だと、ある時母が言い出した。 何年生きるかわからない、この先病気になるかもしれない、将来施設に入所するとなると、かなりのお金がかかる。貯金はあるが、いくらあっても足りない。 元々その考えは父からなのか母からなのかはわからないが、二人に共通の不安であり、母の頭の中で膨らんでいったようだった。 「乗らない車の維持費を払い続けるのは馬鹿らしい。お金を捨てているようなもので、惜しい。前はもっと来てくれていたのに、最近あなたは年に数回しか来なくなったのだから、車を処分して、あなたにはその都度レンタカーを借りてもらう。それでいいよね」と電話越しに強い口調で言われて、私はショックを受けた。 心身ともにボロボロになるまで頑張って、やればやるほど頼られて、どんどん重くなっていくのを感じていたところに、「前はもっと来てくれていたのに、最近年に数回しか来なくなった」という言葉は恨みのようにも聞こえたし、感謝どころか足りないことの方に目が向けられるのは、なんとも残念なことで悔しい気持ちになった。 しかし、実はやってもやっても足りないとは、私自身が自分に対して感じていることだった。 根底に罪悪感があったからだった。 「将来ここに一緒に住んで、面倒を見る」と私は昔よく言っていた。その考えや価値観が日本へ移ってからどんどん変化してしまい、正直なところ、それはどうしてもする気になれなかった。 親に嘘をついた形になってしまった、親はあの言葉をあてにしていたのではないか、私は裏切った、と思うと、それは罪悪感になった。 毎月頑張り、全力疾走して心身ともにボロボロになっていたのは、そのような心理が働いていたからだろう。 しかしその当時、私はそれを感じながらも蓋をして、気づかないふりをしていた。 突然飛び込んできた、車を処分するという話に、この展開は何だ?と思った。そして、私はあることに意識を向けた。それは「手放す」というテーマだった。 そうか、宇宙から「手放す」という課題が出されたんだ、と私は思った。 私にとって実家で車は絶対必要なもので、それがないとかなり不便。一体どうなるんだろうと考えると不安の影が差したが、これを思い切って手放すということなのか? かなりの思い切りがいる。私は何に執着しているのだろう? 実家にとっては維持費用を支払い続ける負担が減る。レンタカーを借りるには少し遠い駅まで行く必要があり、その分時間と労力がかかり、私にとってさらに重荷が増えるが、それは私が頑張れば良いだけのこと。それもチャレンジであり変化である、と私は自分に言い聞かせた。 チャレンジと変化・・・うん、これはかなりの思い切りが必要。 執着しないということにこだわっていた私は、自分のエゴで決めない、このチャレンジを受けて立つぞ、実家に車があるという考えを手放すぞ、と思いながら、その一方、不安になる考えに対しては、親にとって楽になるのなら私が頑張れば良いだけのことだと、自分自身を説き伏せようとしていた。 そして最後には、「神様が決めたことに従います!」と心の中で叫んだ。 車を処分することに同意すると、母は早速ディーラーに連絡をして、売却する日が決まった。売却は、次に私が実家に行き、用事を済ませて帰る日の数日後に予定されていた。 行く都度レンタカーを借りるというのが楽なのか大変なのかは、やってみないとわからない。実家の車は走行距離も少ないので、思ったより高く売れるということで、それは宇宙がサポートしてくれている、やっぱり処分することになっているのだと私は思った。 実家に到着して、いつものように私は忙しく働いた。3日目くらいの朝、玄関のチャイムが鳴るのでドアを開けると、ディーラーの亀田さんが立っていた。 「あれ?引き取り、今日でした?」と驚いて私が言うと、亀田さんは、「いえいえ、たまたま近くへ来たので、寄ってみました。事前に車をちょっと見せてもらおうと思いまして」と言った。 すると、私の中で何かがピンと鳴り、私はこう言っていた。 「車を売った後、私は毎回レンタカーを借りなければならないんですよ。保険とか車検とかが負担になるので、母はそうして欲しいみたいなんです。車を使うのは毎回1週間弱、2ヶ月に1回程度なので、レンタカーの方が安いでしょうね」 亀田さんは驚いた様子で言った。 「ええっ?そんなに乗るんだったら、レンタカーよりもこの車をキープした方が安いですよ。毎回レンタカー借りるのは面倒だし、大変ですよ。僕だったら、レンタカーにはしないなあ」 その亀田さんの驚いた様子に私も驚いて、ええっ?と思っているちょうどその時、私が誰と話しているのか様子を見に父が居間から出てきて、私の横に来た。 「ねっお父さん、レンタカーの方が高いって亀田さん言ってるよ」と私は言った。言葉が勝手に出ていた。 すると父はいとも簡単に「じゃあ、車は残そう」と言った。 鶴の一声だった。 「えっ?いいの?本当にいいの?」 「うん」 亀田さんは唖然として、「えっ?処分しないんですか?」 「はい、キャンセルします」と父。 私は気が抜けた。 不思議な力を強く感じた。この流れは面白すぎる。 そこには、目に見えないベルトコンベヤーがあった。 亀田さんが実家にやって来た、私が亀田さんに言った、亀田さんが返答した、その時父がそこにやってきていた、私が父に言った、父が答えたというこれらのことが、何にも遮られることなくスムーズに流れていったのだった。 今でもあの時のことを思い出すと、ベルトコンベヤーの存在がはっきりと感じられる。とんとん拍子とは、スムーズに動いているベルトベヤーに乗って抵抗なく自動的に流れていく状態のことで、ああ、それこそが宇宙と一致した流れなのだ。 あの日亀田さんが「たまたま」近くを通りかからなかったら、実家に寄ろうと思わなかったら、そしてその時私が外出していたら(通常その時間は外出していることが多い)、車は間違いなく処分されていただろう。 また、もし私でなく母がドアに出ていたら、こんなスムーズな展開になっていなかったかもしれない。 しかし、それらの事は起こらず、「たまたま」と言いたくなるようなことの方が、当然のように何の抵抗もなく数珠繋ぎに起き、驚くほど短時間で落ち着くところに落ち着いた。 それが私が受け取るべき結果だった。 気の毒に、呆気に取られた亀田さんは、これは一体何だったんだ?という面持ちで帰って行った。 そう、そういうことだった。車は手放さなくて良いというのが、神様・宇宙からの答えだった、と私は受け取った。 手放す必要のあるものは、気づきと共に自然に離れていく。自分の思考で手放そうと覚悟をしたとしても、手放さなくて良いものは残るし、残されるとわかったら、「ふふふ」と笑えてきた。 何も気張ることは最初からなかった。 保険も車検も今でも実家が支払っているが、全く問題ない。問題として上がることさえない。というのも、父と母は、お金の管理はほぼできなくなってしまったからだ。 姉が実家に毎週通って、手伝いをするようになった。姉に確かめたところ、本人には負担になっておらず、人に喜んでもらえることをやれることが嬉しいそうだ。 今でこそはっきり言えるが、「私が頑張りさえすれば良いだけ」という考えこそが、私が手放すべきことだったのだ。 私は、親のためなら死ねると幼い頃から真剣に思っていた奇妙な子供だった。常に親のことが優先で、助けなければならないと50歳を過ぎるまでずっと思い込んできた私が手放すべきことは、この考えだった。 なぜそれほどまでに執着していたのかはわからないが、私にとってそれは強烈で重く、その荷物を背負い続けて来たのだった。 自分の人生を生きて良い。軽くなって良い。 自分が親だったら、子供が親を守り続けるなんて考えをしていたら迷惑な話だよね、と今では思えるようになった。私は介入しないでも良い。頑張らなくて良い。 それを裏付けるかのように、事実は面白いことを教えてくれる。 施設の利用内容を見直したり、ヘルパーさんの訪問回数を増やすなど、少しでも親が楽になるようにとあれこれ私が気を回してお膳立てしても、結局父と母はキャンセルしてしまう。ケアマネージャさんの提案さえも断り、怒らせてしまうことも何度かあった。 とどのつまり、自分達が好きなようにしたいということなのだ。 そうだよなあ、と納得できる。 元々どの施設にいつから通うかも、私がアメリカで網膜剥離になって帰国できない間に、本人たちのところへタイミングよく話が転がり込んで自分達で決めてしまい、私は何もする必要はなかった。 それに、今まで私が無理してやって来たことは、本人たちは記憶に残っていないため、彼らにとっては私は何もしなかったことと同じである。 これまでのことを振り返ると、私は「たまたま」居合わせたタイミングで、家族にとって大事なことには漏れなく関わるようになっており、頭であれこれ考えてお膳立てしたことは、ことごとく必要ではなかったという結果になっている。 なので、必要な時にこそ、私は動かされているし動いており、結果的に必要なことがなされている、ということになる。 整然としているのである。 整って秩序立っているところを、一人で騒いで右往左往しているのは、地平線が見える広い平原に、わざわざ高い塔を建ててしまい、何もないのに、わざわざ困難を作ってそれを乗り越えようと必死になっているようなもの。 そんな人生こそが古く、手放すべきもの。 「無理がなく容易で楽」を意識的に選択して、少しずつ習慣を塗り替えてゆく。 すると、少しずつ、今まで起こっていたことが起こらなくなる。起こったとしても、ポジティブな反応になり、やがて消えていく。 以前の価値観・考え方をベースにした風景には、そこらじゅうに超高層ビルが林立していて、空も見えず息苦しい。 それに対し、無理がなく「容易で楽」の立ち位置から意識を拡張していくと、全体が見渡せる広々とした風景がどこまでも続いている。 流れを遡るのではなく、ゆったりと心地よく大海へと向かって流れていく。 あらら〜、それでいいのね。 ラク〜でいいのね。 「そうそう、最初からそうだったんだけどね。やっと気づいたね」と内側で微笑む自分がいる。 うちでは朝食にオムレツを作ることが多く、卵を一人1日1個というペースで使っている。そのため、ほぼ1週間で1パック消費する。 これは卵にまつわるエピソード。 食品の放射能レベルをチェックし、化学調味料無添加の食品、有機・無農薬または減農薬の野菜を扱い、地産地消を目指す「あいコープ」という宅配専門の生活協同組合に、私は仙台へ来てまもなく加入し、既にあった官舎内のグループに入れてもらった。 アメリカでは長年ナチュラル志向の生活をしていたため、仙台でも良質で安全な食品が手に入るのは有り難いことだった。 カタログから食品を注文し、グループで受け取るという仕組みで、注文品は隣の階段下に毎週配達される。 数年前のある日、配達された品物を取りに隣の階段へ行ってみると、積み上げられた宅配箱の横に、平たく大きな段ボールの箱が置いてあり、「卵」と書いてあった。 グループの誰かが頼んだのだろう。 「ダレや、こんなにたくさん卵を頼んだのは。店でも開くつもりか、それともPTAの行事で何かするのか?」と私は心の中で呟いた。 箱には名前が貼ってあり、見ると「倉田順子様」と書いてあるではないか! 「ウソっ!どういうこと??」 というのが最初の反応だった。 私のいつもの10個パックはどこにもない。 段ボール箱を前に、唖然とした。 何かの間違えでは?? 配達明細書を見てみると、「卵3キロ」と書いてある。 「3キロォ〜?」 これはジョークか。それとも、機械が注文書を読み間違えたか。 いや、私が記入欄を間違えたのだった。 注文書の卵は、6個、10個、3キロなど5種類あり、いつもの10個の隣の欄は3キロ卵になっていた。記入するときに、きっと間違えて隣の欄に数量「1」と書いてしまったのだろう。 これまで注文でそんな間違えはしたことがなかったが、6個に間違えるのならともかく、3キロだなんて! それにしても、それはよほど大家族でない限り、一般家庭で使う卵の量ではない。個人宅配で3キロ注文する人なんているのか?それが注文書にあること自体おかしい、と私の頭は抗議を申し立てた。 せめて返品をと考えたが、あいにく生鮮食品の返品はできないというルールがある。 家で恐る恐る箱を開けてみると、卵は2段になって、ぎっしり並んでいた。その数55個! “OH MY GOD!!” 思わず叫んだ(なぜかこういう時には英語が出る😅)。 2段を広げて55個を並べると、なかなか圧巻の光景になるのだが、それを呆然と眺めている自分の姿、これはもうコメディーで、自分の馬鹿さ加減に腹の底からわっはっはっと笑った。
宇宙のジョークか。いや、私が不注意だっただけ。 ひとしきり笑うと、さあ、ここからはこの卵をどう処理するかだ。 まずは賞味期間を調べた。あいコープの卵の賞味期間は2週間だが、ネットで調べてみると、夏以外なら1〜2ヶ月大丈夫とのことだった。通常、店の賞味期限の設定は、生卵を食することを考慮した日数らしい。 うちでは生卵は食べないが、こんなに長く大丈夫だとは思わなかった。 だとしても、1日2個のペースで1ヶ月近くかかってしまうし、そもそも冷蔵庫に入りきらない。 なんとしても、数を減らさなければならない。 ご近所のコープ仲間に事情を話すと、これは大変だと心配してくれて、1パック買ってくれた。隣の人も、私が必死だったので気の毒に思ってか、真剣に応対してくれた。 下の階に、引っ越してきたばかりの外国人の若い男性がいた。会ったこともなかったが、挨拶するには良いチャンスだった。 ドアベルを鳴らすと男性が出てきた。私は事情を話し、近所の歓迎として卵をもらって欲しいと頼んだ。男性はスペインから来たということで、一人暮らしだったが卵は使うので、10個を快くもらってくれた。 私たちはメールアドレスを交換し、私は部屋に戻ってから、彼に再度事情を文字にして説明し、受け取ってもらえたお礼メールを送った。 すると、彼から返信があり、そこにこう書いてあった。 「卵をありがとう。55個だなんて大変だねえ。それだけあれば、卵をかえしてヒナを一列に並べ、ひよこレースをさせれば楽しいんじゃない?はっはっは😁(笑いの絵文字まで入っていた)」 こっちは必死なのに、ひよこレース、はっはっはって・・・。 と思ったが、いやあ、この状況でこういうユーモアは、日本人にはなかなか出てこないだろう。むしろ、そんなことを言ったら相手に失礼だし、ひんしゅくを買う。さすがだ、と思ったし、こちらも苦笑した。憎めない。 はっはっは!という反応は、夫からも返ってきた。並べられた55個を見てニヤニヤし、楽しんでいる様子だった。私は真剣なのに、全く他人事! 翌朝、夫が母親とのオンライン中に卵事件の話をすると、義母は大笑いで、「いい案があるわ。ブロックパーティーを開いてオムレツパーティーしたら?」と言ったそうだ。 ブロックパーティーとは、近所の住民が野外に集って祝ったり交流を深めるために行うイベントのことだ。義母は80代だが、そんな斬新なアイデアを出すなんてすごい!と私は思った。 すぐに私の頭の中で、巨大な鉄板の上でオムレツを作って、みんなで食べているイメージが浮かんだ。 パーティーにしちゃえ!っというところがいかにもアメリカ的な発想で、アメリカでは大いにあり得るシーン。 実際、以前住んでいた場所ではそういうパーティーがあった。私の卵バージョンも簡単にイメージできる。 「Oh my god! 55個の卵が来ちゃった!○月○日オムレツブロックパーティーを××のガレージにて開催!飲み物は各自持参で」というようなチラシを作って近所のポストに投函したり、電柱に貼ったりしてみる。 当日ガレージにテーブルを設定すると、ポツポツと人が集まってくる。 「なになに?卵55個だって?一体何があったの?」と私や夫に話しかけてくる人。 「パイを焼いたわ」と持ってくる女性。 ビールのつまみにと、多めのスナックを抱えてやってくる男性。 赤ん坊を抱いてやってくる若い夫婦。 近所でなくても、たまたま通りがかって飛び込み参加する人。 結局誰でもウェルカム。 こっちでは挨拶程度だった隣の人たちと会話が弾んで相互理解が深まったり、あっちでは地域の問題点について議論するグループが出来上がったり、そのグループの後ろで近所の子供同士遊び始めたり。 実際、私もアメリカに住んでいた時に、そんなパーティーを見たことがある。何の集まりなのかわからないが、道を歩いていて通り過ぎようとしたら呼び止められて、飲み物を勧められたこともある。 そういった、やっていることが大雑把で、面白いことをやろう、さあ今を楽しもうよ!という雰囲気は、アメリカならではだなと、感じることが多々あった。 いや、アメリカだけではない。ひよこレースしたら?と言ったあのスペイン人男性のユーモアもその類に入る。 スペイン人といえば、私は湯布院でタッチドローイングのリトリートを開いて、熊本地震が起こり、被災したときのことを思い出す。参加者にスペイン人の若い男性がいたが、彼はミュージシャンでギタリストだった。 夜中に襲った地震の後もひっきりなしに余震が続き、私たち宿泊者数人は会場のダイニングホールに避難して朝まで一緒に過ごしたのだが、そのスペイン人男性は揺れに全く動じる様子もなく、そばでギターを弾き続けていた。 そのギターの音と軽快なリズムに、私たちはどれだけ平穏な心を保てただろう。彼には、弾き語りの地震の曲まで作ってしまうほどの余裕があり、そのおかげで私たちも、揺れている大地に寝転んでみたり、カメラに向かっておどけたポーズを取ってみたりするほどの余裕ができた。 そう、余裕なのだ。ユーモアなのだ。真面目になって緊張している時ほど、余裕が必要。 余裕はスペース。 そこには何もないけれど愛が充満している、と私は思う。人生は楽しむもの、人は愛すべき存在、生きることにもっとリラックスして良い、という緩く温かいものが詰まっている。 やれやれ55個の卵のエピソードから話が大きく逸れてしまったが、結局卵は無事に全て消費できた。 しかし、どうやら私はこの卵事件を書きたかったのではないようだ。文章を書いていくに従って、実は真面目すぎて躍起になっている自分に微笑みかけている、もう一人の自分が見えてきたことの方が大きい。 私のハートはこう言う。 生真面目だと窮屈なことが多い。余裕を持って生きたい。ざっくばらんにユーモア溢れる暮らしをしたい。人生は楽しむためにあるのだから。 「Oh my god! 55個の卵が来ちゃった!パーティーやるから来てよ〜。誰でもウェルカム」の掛け声で、人が集うような街に住みたい。 物もアイデアも自主的に持ち寄って、相互扶助がベースになるような、そんな場所がどんどん広がっていくといいね。 結局、私はそれが一番言いたかったことなのね。 |