「それをあなたはどう思う?」
少なくとも日本では、そう聞かれたことはほとんどない。ましてや議論や話し合いではなく、ちょっとした会話の場面では。 20年住んだシアトルを離れ、日本へ転居することになった時、私はシアトルの友人や知人に報告した。 日本人の友人からは 「ええっそうなの?こっちにまた戻ってくるの?」 「うわ〜日本かあ、いいなあ」 「えっ仙台?放射能は大丈夫?」 だいたいこういう反応が返ってきた。まあ逆の立場だったら、私も同じようなことを言っているだろう。 私はシアトルのコミュニティガーデンで1区画を借りて、11年間さまざまな野菜を作った。 広大な敷地が200を超える区画に仕切られ、そこを借りた市民が完全に農薬・化学肥料不使用という条件で、思い思いのものを作る場所であった。 メンバー全員が積極的に関わるコミュニティガーデンで、定期的にミーティングがあったり、共用部分の除草や整備を行う出合い、作業者への軽食の差し入れや収穫祭などがオーガナイズされたりで、活発なコミュニティだった。 ガーデニングのテクニックや情報を交換したり、取れすぎた野菜をあげたりもらったりで、いつも和気あいあいの楽しい場所は心地よく、畑を続けるに従って顔馴染みも増え、私も特定の人たちと仲良くなっていった。 しかし、日本への引っ越しで、その畑ともお別れになる。 ある日、畑で片付けをしていたら、いつもの畑仲間がいたので、私はこれが最後になるだろうと、挨拶をした。 「急な展開があり、実は夫の仕事の関係で日本へ引っ越すことになったんです。仙台に住むんです」と私は状況を説明した。 東日本大震災があって、1年ほどしか経っていない時だった。 当時日本では「Fly-Jin(フライ人)」という言葉が生まれたが、放射能を恐れて飛行機で日本から逃げた外国人は、そう呼ばれた。 アメリカでも日本の放射能に対して警戒感が強く、私も外からの立場で日本を見ていた。なぜ、そんな危険な場所へわざわざ行くのか?とんでもないことだと、きっと誰もが思っていただろう。 彼女は私が話す間、じっと注意深く聴いていた。 調子良く合わせて相槌を打ったり、感情主体で流れたりする会話に慣れていたら違和感を感じるほど、相手は無表情だった。しかし無関心というのではなくその逆で、感情のないニュートラルな状態で、しっかりこちらに意識を向けて聴いているのが伝わってきた。 私が話し終わるのを待って、彼女は一言言った。 「それをあなたはどう思うの?」 このタイミングで日本へ引っ越すということを、私自身はどう思っているか?ということだった。 一瞬ビクッとした。大抵、会話の途中で相手から相槌や何らかの感情の反応、コメントがあり、そのようなやり取りの中で会話は積み上がっていくものだが、それが一切なく、私が話し終わるのを待ってからの最初の一言が、その質問だったからだ。 その一言の中に、 「この会話は最初から最後まであなたが主役よ。だからあなたの結論なしに、この話は成立しないの」という無言のメッセージが込められているように感じられた。 「私は、これは冒険のようなもの、新しい人生の旅の始まりだと捉えてます」 すると相手はニッコリ頷いて、両手を広げ、 「じゃあ、あなたのその素晴らしい冒険に祝福を!」と言って、ハグをしてくれた。 ハグには形だけの表面的なものもあるが、彼女のはそうではなく、広げた胸からバーンと祝福のエネルギーが放出され、私はそれに包まれた。 不思議な感覚になった。 彼女は私よりも若いのだが、コミュニティの中でも存在感のある人だった。 彼女には独特の威厳があった。私の目をじっと見つめ注意深く話を聴いている彼女は、私よりも年上で成熟しているように感じられ、なぜかふとその姿に師のような存在も重なった。 彼女なりの考えや意見もあっただろうが、それは完全に横に置いて、私の話を聴くことに徹していた。 相手が傾聴している時、私は、相手に向かって自分の考えや言葉が吸い込まれていく感覚がある。逆に、相手が適当に相槌を打っていて頭の中では違うことを考えている場合は、私の言葉はバウンスして、あちこちへと飛び散っていくのがわかる。 本当に傾聴している人は少ない。が傾聴されている時、それを感じれば感じるほど、こちらが緊張する。怖いとさえ感じる。 なぜなら、ゴミのようなどうでも良いことやネガティブな感情、考え、余分な発言が自ずとはばかられ、心の中の真実しか話せないようになるからである。 話している私の目を彼女が見つめている時、私は緊張した。私の発する言葉が、目の前にいる彼女の中に吸い込まれて行っていたからだ。 そのような空気感の中では、言葉は外に向かって発せられているのに、意識は逆に内側へと向かい、ハッとしたりすることがある。 「それをあなたはどう思うの?」との質問に答えている最中に、私は気づいたことがあった。 それは、答えという形で表明することで、自分の考えや意志、方向性がクリアーになり、強まるということ。 言葉を発してそれを自分自身の耳で聞くことは、実にパワフルなことであり、その言葉のエネルギーが自分の中で強まるということ。 だらだら愚痴を言うのではなく、フォーカスされた状態で自分の声を自分が聞くということは、人から言葉を受け取る以上にインパクトがあり、パワフルである。 「私は、これは冒険のようなもの、新しい人生の旅の始まりだと捉えているんです」と答えた時、自分の口から出る言葉を聞きながら、ああ、冒険が始まるんだ、私はそれを選んだんだと再確認し、その時初めて覚悟のスイッチが入った。 それは、頭の中でそう思っていたのとは違って、よりリアルで強烈に私の意識に打ち込まれた。 それを導き出すような質問を最後に1つだけするなんて、そんな会話は日本では経験したことがなかった。それゆえ、インパクトが強かった。 多くは家族も学校も会社も自分の考えを表明する環境ではなく、特に日本は集団意識や同調意識が強く、一つに固まる傾向があるので、その環境で育った人は、自分の考えを表明することに慣れていない。 その中に居続けると、いつの間にか自分が何を考えているのかもわからなくなる。私はそれもあり、日本を出たのかもしれない。 畑の彼女は私にスイッチが入るそのチャンスを与えてくれただけでなく、ご褒美のような祝福の言葉とハグをプレゼントしてくれた。私は温かさと共に、目の前に広がりを感じた。 これまた日本では経験したことがなかったので、彼女とのこの会話は私にとって新鮮で衝撃的で、今でも強く心に残っている。 もう一人、やはり畑でだったが、私の話を黙って最後までじっと聴いた後に、「それ(日本に行くこと)はあなたにとって良いこと?悪いこと?」と尋ねた人がいた。 そして私が「良いことです。ワクワクしています」と言うと、彼女は「では、幸運を祈るわ!」と言って手を差し出し、握手してくれた。その手からは、気持ちのよい力強いエネルギーが伝わってきた。この時も、私は目の前に広がりを感じた。 私が「日本へ行く」と最初に行った時、相手からほんの一瞬かすかな反応があったが、すぐにそれが消えたのを私は察知した。もちろん、二人ともそれぞれ個人的な見解はあったと思う。が、彼女たちの態度は終始ニュートラルで、私を尊重したものだった。 相手を尊重して受け止め、エールを送るという姿勢に、成長した大人を感じた。 そういえば、夫が私にそれをしてくれたことを思い出した。 14年前に私は日本である養成講座を受講し、第1回だけに参加のつもりが最後まで続けたくなった。私は、滞在していた実家から夫に電話をして打ち明けた。 それは、帰る予定だったのに帰らず、そのまま8ヶ月間家を空けることになり、夫は一人になるということを意味していた。 夫にとっては全く寝耳に水! 私は話した。私だけが話し、夫はただ聴いていた。そう、畑であった会話の時のように。 説明をし終えたところで、受話器の向こうはしばらくしぃんとしたままだった。不気味に長く感じられた。 その沈黙の後、 「それは君が本当にやりたいことなの?」 と一言質問があった。 「そんな8ヶ月だなんて、とんでもない!ダメダメ、絶対許さない!」 てっきりそんな返事が返ってくるかと思っていただけに、私はその質問に驚いた。 「・・・はい、それは私が心から望むこと、絶対にやりたいこと」 私がそう答えると、穏やかで柔らかい声が返ってきた。 「じゃあ俺は君のその望みをサポートするよ。幸運を祈る!」 畑の時のような言葉だった。そこで会話が終わり、夫自身の意見や感情をぶつけられることは一切なかった。 感謝で胸がいっぱいになった。体全体がふんわりと温かいものに包み込まれた。その瞬間、私の中で夫は夫を超えた存在であった。そして、またしても、私の目の前に広がりがあった。 そんな包み込まれる感覚や広がりを与えてくれた夫も畑の彼女たちも、一体何者なのか。 相手を尊重して傾聴し、肯定し、讃え、励ます。 コミュニケーションの根底に、きらりと光るものがある。
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「俺は死んでいたかもしれない。今日、ラヴィ・シャンカールにアヴ(シアトルのとあるストリートの名前)で命を救われたんだ」と、帰宅した夫がキッチンにいる私に言った。
「えっ?ラヴィ・シャンカールがアヴにいたの?!」私は内心びっくりした。 ラヴィ・シャンカールは、インドのシタール奏者でレジェンドともいうべき人。 この会話を日本版にするならば、楽器ではないが年齢・知名度で相当するところで、 「俺は死んでいたかもしれない。今日、青葉通り(仙台のストリート)で矢沢永吉に命を救われたんだ」 「えっ?えーちゃんが青葉通りにいたの?!」 となるだろう。 命を救われた? 一体どういうこと? こういうことだった。 シアトルに住んでいた頃のこと。 夫が通りを歩いていたら、店の窓に貼ってあるラヴィ・シャンカールのポスターが目に飛び込んできた。学生のときに行ったニューヨーク マジソン・スクエア・ガーデンでのシャンカール・コンサートが人生初だったそうで、夫は以来大ファンになったとのこと。 そのシャンカールのポスターを突然目にし、立ち止まった。シャンカールがシアトルに来るのか?コンサートがあるのか?と、近づいて詳細を読んでいた。とその時、少し前方で激しい衝突音がしたそうだ。 見ると、交差点の角にトラックが突っ込んで、そこにあったATM機がぐしゃぐしゃに潰れていた。 自分はその交差点に向かっていて、もし手前の店にポスターがなければ、赤信号で交差点に立っていただろうとのこと。 事故は、時間にして1分も満たない間に起きた。トラックはATM機に向かって突っ込んだ。自分はATM機の横に立っていたであろうから(歩行者が立つ位置は、ほぼそこになる)、そこにいたら、トラックとATM機の間に挟まれ、間違いなく即死していただろうと言った。 それが起こっていたならば、私は今仙台にはいないだろうし、これを書いてもいない。全く違った人生になっているだろう。 「あれは、なにか不思議な力が働いたとしか思えない」と夫が言った。 その店はそんなポスターを貼る類の店ではなかったし、ポスターがあったとしても、本人が気づかない場合だってある。 ラヴィ・シャンカールが救ったわけではないが、結果的には救ったかたちになる。 不思議な力が働いた。 夫はまだ死ぬタイミングではなかったのだ。 ** シアトルの友人が、こんな話をしてくれた。 その友人は、大学卒業後、アメリカでマッサージの資格を取ろうと渡米を計画していた。準備は順調に進んでいるように思えたが、出発の半年くらい前から、体調を崩したり、住んでいたアパートが長期間停電になったりなど、次々と出来事が起こり始めたという。 今思うと、それは「行くな」というサインだったと彼女は言った。それをなんとなく感じていたが、思考が排除し続けたそうだ。 そのような数々の障害を「乗り越え」、計画通り彼女は飛行機に乗ってシアトルへと出発したが、目的地の空港に到着して入国審査のカウンターに立つと、審査官から「書類不十分」と入国を拒否され、そのまま空港から成田行きの飛行機に乗せられて、日本へ戻ってきたという。 実は、アジアからの留学生は彼女が初めてのケースで、迎える学校側も手続きに慣れていなかったためか、書類に手落ちがあったそうだ。 彼女の入学は1年遅れた。 しかし、1年遅れたために、彼女は今のご主人と出会えて結婚した。 アメリカでの生活が困難になり、日本へ帰るべきだろうかと悩んでいた時に、たまたま行ったパーティでご主人に出会ったという。 「あの時問題なく入国して入学していたら、旦那とは出会っていないだろうし、こうして息子がいて、アメリカにも住んでいないだろう」と彼女は言った。 「それにしても強烈だなあ。それほどまでして、止めなければならなかっただなんて。予定より1年早いから、上で導いている方も焦ったのかな。まだだ〜って。あの手この手で行くな、行くなってサインを送り続けていたのに、Mちゃんが無視し続けるから、これはまずい、最後の手段、奥の手を使うしかないってんで、これでもわからんかぁっ、観念しろ〜って、入国審査でバーンとMちゃんの目の前でシャッターを下ろしたようなもんだよね」と、私は言った。 出来事として送られてきたサインも次第にエスカレートしていき、ついには飛行機で太平洋を往復しただけになってしまったなんて。よほどご主人と出会っていなければならない、という計画があったのだろう。 強制終了が入るとは、なんとも強烈でわかりやすく、それだけ外れても決められたコースに戻されるから、ある意味頼もしい。 目的達成志向で一生懸命頑張る性格であると、そっちじゃなくてこっちだよ、という声が聴こえない可能性があるし、本筋から逸れたところでがむしゃらになってしまったりすることがある。私もこれまでそんなことが多かった。 目的にも種類があり、思考を超えたレベルの目的の方こそが本当で、それが本流であり、それに乗ると深奥からの喜びを味わえる。 その思考を超えたレベルで、友人Mちゃんの入国拒否のような強烈なことが、夫と私にも実際に起きた。ただ、拒否とは反対の出来事であったが。 2011年の冬に、突然それはやってきた。 仕事を探してもいなかった私の夫に、本人の夢の仕事の話が舞い込んだ。日本に住むアメリカ人の友人が仕事の後任を探しており、夫に声をかけたのだった。 私の帰省に同行した夫が先にアメリカに戻る日、飛行機に乗る前に数時間の余裕があったので、友人をたまたま夕食に誘ったことが事の始まりだった。友人は2年も前から後任を探していたが、適任者が見つからないとのことだった。 夫はその分野の学位を取得しているわけでもなく専門は畑違いなのだが、たまたま趣味で続けていたことが、職務内容そのものであった。 その趣味的なことは、自分の仕事が疎かになるほど好きで、長年かなりの時間とエネルギーを費やしてきていた。これが収入になれば申し分ないが、それはただの夢、あり得ないだろう、と本人は思っていたのだった。 自分の仕事は順調だったので不満はなく、特に問題もなく平穏に日々が続いていた。そこへ友人の一声。それはまさに青天の霹靂だった。 実は夫は私にこのことを話す前に、すでに友人に引き受けるとの返事をしていたそうだ。 しかし、後日夫からこの話を聞いた私は動揺することもなく、「ああ、来たな。このタイミングかあ」と、ゆったりとした心の状態で受け入れた。 二人とも全く迷うことはなかった。 この新たな冒険は最初から決まっていたことだと、私のハートは知っていた。おそらく、夫もそのように感じ取っていたのだろう。 それを受け入れた結果、私たちに与えられたものは、今までとはあらゆる面で違った設定の人生であった。誰一人知らない土地に移り、まっさらな状態で始める生活。 そこには、本当に頭では何一つ計画できないほど、一つ一つが完璧に用意されており、住居が古いという以外は、あらゆる面で以前よりも条件的に良くなっていた。 このような新しい人生が待っていたとは! それが友人の一声で始まるとは! 夫はラビ・シャンカールに命を救われ、そしてまた、一人の友人によって人生が大きく動かされた。そう言うと、命も人生も外的なものに左右されるように聞こえるが、そうではない。 一方、私は妻として伴走しているように見えるが、私の人生も完璧に私のタイミングで動いているのである。夫と私の歯車がきっちり合いながら、それぞれに回っている。 それは巨大で複雑な仕組みに思えるが、蓋を開けてみればきっとシンプルなのだろうと私は思う。しかし、頭では到底知り得ない仕組みであり、そこには目に見えない壮大な流れがあり、それを司る力は神秘に満ちている。 2012年の秋に仙台へ移り、昨年秋には11年目に入った。この道も、また曲がり角に近づいている。 夫の定年が来たら、その後はどうなるのだろう? 私たちはどこに住んで、何をしているのだろう? 何がどうなるかなんてわからないが、全ては完璧なタイミングで起こっており、全て順調なことだけはわかっている。だから、恐れない、慌てない、心配しない。 物事は自然な流れで展開してゆくし、友人のMちゃんの例のように、高次の自分がメッセージを発しながらきちんと導いているから安心していて良い。 一体私の魂はどう計画してきたのだろうか?この先何が待っているのだろうか?とワクワクしながら、大小さまざまなサインやメッセージがちりばめられた日々を、自分のハートの感覚に従って過ごしていこう。 それが、私にとって最も自然で心地よい。 アメリカに住んでいた頃のこと。帰省中の実家に、上坂さんのおばさんが遊びに来ることになった。
上坂さんは私がまだ5歳くらいの頃、社宅の隣に住んでいた。社宅と言っても二世帯が隣り合わせになったいわゆるデュープレックスが一棟あるだけで、庭は大人の腰の高さから上がトタンのフェンスで仕切られていた。 私が庭で遊んでいたりすると、よく上坂さんはフェンスの下から覗き込んで「じゅんこちゃん」と声をかけて、庭で生ったグミやザクロの実やお菓子をくれたものだった。 まだ若かった母を妹のように可愛がってくれたそうで、母も慕っていた。1年ほどして私たちは引っ越し、上坂さんは近くに家を建てたが、時々遊びに行くと、当時は高級品でうちでは飲めないコカコーラを毎回出してくれたのだった。 大人になってからは会う機会がなくなり、私はアメリカへ移ったこともあり、二十数年ご無沙汰していた。 ある時、上坂さんのご主人が急死されたことを知った。それから数ヶ月経ったある日、アメリカからの帰省中に、実家に上坂さんから電話があった。娘と一緒に暮らすようになったという報告だった。 久しぶりだったので、母は上坂さんを家に招くと、上坂さんはすぐにやって来た。父が車を運転して、みんなでランチを食べに行ったのだが、80歳になった上坂さんはとても嬉しそうで、おしゃべりに花が咲いた。 その後家でお茶を飲みながら、さらにおしゃべりをし、あっという間に時間が過ぎた。夕方近くになり、母は上坂さんに夕食もうちで食べて、今夜は是非とも泊まっていってくださいと言った。 上坂さんは嬉しそうな顔をして一瞬迷った様子だったが、お勤めがあるから帰らなければならないと言って断った。朝夕、ご仏前にご飯とお茶をお供えして読経するのが日課となっているというのだ。 しかし、母も譲らなかった。そこからは、しばらく二人の押し問答が続いた。 「こんなチャンスは二度とないかもしれないから、ねえ上坂さん、泊まってってくださいよ」 「ええ、そうしたいのは山々だけど。でも、ご飯を炊いて御仏前に出さなきゃいけないし」 「そんな、1回くらい休んだっていいじゃないですか。ねっ、うちでぜひ夕飯食べてってくださいよ。お父さんがお宅まで送って行くから」 「家に帰らないと主人が寂しく思うだろうから、ダメダメ、そんなことできない〜」 と、こんな具体。これじゃあらちが明かないなあ、と私は母の隣に座ってぼんやりしていた。 すると突然、私の左前方で何かがチカっと光った。 1回だけチカっとしたのだが、とても小さく一瞬だったので、目の錯覚かと私は特に気にしなかった。 母と上坂さんは、まだ平行線を辿っていた。上坂さんはもっと居たいというのが本心のようで、何度も揺らぎそうになるのだが、決まってそれを打ち消すように断るのだった。 「いや〜、やっぱり帰ります〜」 とその時、また私の左前方で何かが光った。今度はチカチカっと2回。 ん?なんだ? どうやら錯覚ではないらしい。 虫?なんの虫? それは、私の向かい側に座っている上坂さんの胸の高さで、体から20センチほど離れたところで瞬いた。ちょうど座っている私の目線の位置でもあるから、いやでも目に入ってくる。 白っぽい銀色のような発光体で、3〜4ミリくらいの小ささなのだが、光は強かった。 私はハッとした。 思い出したのだ。 35の声を聞くと、突然様々な神秘体験が始まった。そのうちの一つは、時々青い発光体が目に付くようになったことだった。 当時様々なことが起こっていたので、友人が知り合いのチャネラーを紹介すると言ってくれた時、すぐにセッションを申し込んだ。 発光体について、チャネラーはこう言った。 「その青い光はスピリットです。ずっとあなたのそばにいて、あなたを見守ってきました。長いなが〜い間、ずうっとです。ようやくあなたは、それに気づくようになったのです。あなたに気づいてもらって、スピリットは喜んでいます。練習が必要ですが、意識をフォーカスすれば、やり取りすることもできますよ。相手が何か必死になってあなたに伝えようとするときは、チカチカっと瞬いて、あなたの注意を引こうとします」 そう、それだ!と思った。 青くはなかったが、チカチカっと瞬いているのは、私に何かを訴えかけているからなんだ。 すると、それを読み取ったかのように、またチカチカチカっと光った。今度は、光の芯の部分まで見えるほどはっきりしていた。 それは亡くなったご主人だった(と私は感じた)。ご主人が妻に伝えたくても伝わらないので、必死になってチカチカやって、私に合図を送っていたのだ(と私は解釈した)。 そう気づいた後、思うと同時に口から言葉が出ていた。 「おばさん、おじさんは仏壇の中にいるんじゃなくて、今隣にいるんですけど〜。仏前にご飯とかの心配はしないで、今日は遊んで行きなさいって言ってますよ。おばさんに今楽しんでもらうことが、おじさんにとっても嬉しいことなんですって。今を楽しんで、思いきり楽しんで!って言ってますよ〜」 上坂さんはじっと聴いていた。 突然こんなことを言うなんて失礼だし、おばさん面食らってしまうよな、と私は思ったが、意外にも、上坂さんはふっと楽になった様子で、「じゃあ、お言葉に甘えて」と言った。 あんなに拒んでいたのに、私(おじさん)の一言で、ころっと変わったのには驚いた。やっぱりおじさんの力が働いたんだ、と思った。 夕食の後、父は上坂さんを送って行った。 翌日、上坂さんからお礼の電話があり、久しく人と話すこともなかったので、もう楽しくて楽しくて、大はしゃぎしてしまったそうだ。 あの後、家に帰るなり、よろよろと自分の部屋に入るとバタンと布団に倒れて、そのまま昼近くまでぐっすり寝てしまったとのこと。いつもならあまりよく眠れず、夜中に何度も目を覚ましてしまうのに、昼まで寝続けてしまい、自分でも驚いたのだそう。 楽しくて大はしゃぎして、疲れてぐっすり眠って、翌日も気分爽快だったという上坂さん。 その後連絡は途絶えてしまい、上坂さんに会ったのはそれが最後だったが、おばさんの笑顔を見られてよかったし、うちの母も良いことをしたなあと思った。 あのチカチカっは本当におじさんだったのか? そうだと思う。 「仏壇の中にいるんじゃなくて、隣にいる」 よくそんなこと言えたなあ。自分でもプッと吹き出してしまいそうになるが、お勤めをきっちり真面目にやる毎日、その習慣の奴隷になってしまわないで、自由に楽しんで欲しいということなのだろう。 上坂さんのこのエピソードと共に、スピリットたちが私に伝えてくるメッセージがある。 ** あなたが楽しいとき、私も楽しい。 あなたが嬉しいとき、私も嬉しい。 だから、悲しんでいないで、寂しがっていないで、今を思いきり楽しんで。 生きている今を思いきり楽しんで。 常に共にあり、常に大きな愛で包まれていることを忘れないで。 「ロイヤルミルクティーをください」
「ロイヤルミルクティーで」 「ロイヤルミルクティーお願いします」 デパ地下にある行きつけのコーヒースタンドで、豊富なコーヒーメニューを尻目に、私がオーダーするのはいつもこれ。数席あるカウンターで、紅茶を頼むのはほとんど私だけである。 「ホットティーください」 「アールグレイお願いします」 「ダージリンで」 どこのカフェに入っても、こんな具合。 私はコーヒーを飲まないのだ!というよりも、飲めないのだった。 子供の頃から胃腸が弱く、コーヒーを飲もうものなら、胃が痛くなったり、口の中に変な酸味と後味が長く残ったりして、私にとっては、コーヒー=胃が不快・不調になるから避けるべきものになった。 アメリカに移ってからは日常で緑茶を飲む機会が減り、カフェインに敏感になったこともあって、ハーブティーを飲むようになった。 たまに緑茶を飲むと、それがたった一杯であっても夜眠れなくなったので、午後からはカフェインが入ったものは一切摂らなくなった。 ただでさえ要注意のコーヒーには、カフェインレスでない限りカフェインが入っている。私の中で、飲めないコーヒーは、飲まないものから「飲んではいけないもの」となってしまった。 それでも、ごくたまに人につられて挑戦しようとしたり、仕事上自分だけ他のものをオーダーできない状況で飲むと、やっぱり後悔する結果となる。コーヒーを美味しいと言って常飲している人は、一体どんな体をしているのだろうかと不思議に思ったほどだ。 そんな私は、日本に戻ってからは、日本茶を飲む生活様式へと戻ったため、少しずつカフェインに慣れていった。とはいえ、今でも夜は濃い緑茶は控えている。 コーヒーに限っては、相変わらず縁がない日々を送っていた。 「ロイヤルミルクティーをください」 「ロイヤルミルクティーで」 「ロイヤルミルクティーお願いします」 デパ地下にある行きつけのコーヒースタンドで、豊富なコーヒーメニューを尻目に毎回ミルクティーをオーダーする私。 それが、ある日突然ひっくり返った。 1年ほど前のこと、いつものようにカウンターに座ろうとした時、突然何かが小さく弾けたような感覚があった。それは、何かに気を取られていたり考え事をしていたら気づかなかったであろうほど、ごく微細な感覚だった。 頭の中か体の中か、はたまた体の外だったか。とにかく、とても小さい何かが弾けた。 「ん?」と思って、そこに意識を集中させると、頭の中でミルクティーが端の方へ移動していき、空いた場所に「ちょっとカフェオレ頼んでみたら?」というのが入ってきた。 それは声だったのか、考えだったのかわからないが、「トライしてみたら?」という誘いのようなものだった。 直感で、「うん、これはイケるかも、飲んでみても良いかも」と思った。馬鹿の一つ覚えのようにミルクティー、ミルクティーと言うのにも少しうんざりしていたところだった。 「今日はちょっとカフェオレを飲んでみます。薄めにお願いします」 店員さんは一瞬表情が固まってから、「はい」とにこやかに微笑んだ。 まずは牛乳をたっぷり入れたカフェオレで・・・。私の中から好奇心が湧いてきていた。これはイケるかも、となぜかそう思うとワクワクさえしてきた。 店員さんが牛乳を手で泡立てて、ラテ風にして出してくれたカフェオレは、私の苦手な酸味がなく、胃に不快感を与えない。全く大丈夫だった。苦味もそれほど気にならず、滑らかな口当たりで美味しいとさえ思った。 それから、毎回私はつきものに憑かれたようにカフェオレを、カフェオレがメニューにないカフェではカフェラテを頼むようになった。あれだけ飲んだロイヤルミルクティーは、どこへやら。 それも飲む時間は、午後3時以降。カフェインが入っていても、夜の眠りには全く影響ない。毎朝マグカップ4杯分の濃いコーヒーを入れる夫でさえ、午後のコーヒーは眠れなくなるらしく、午後はカフェインレスのものしか飲まないのだが、私は4時に飲んでも5時に飲んでも平気なのである。 午後に決まってコーヒーを飲む私。一体何が起こっている? 私の内から返ってきたのは、「化学反応」という言葉だった。肉体・体内で起こっている変化に対応するため、今体が必要としている何かをコーヒーを通して摂取しているようだった。 胃が反応しなくなったり、カフェインが大丈夫になったり、それは年をとって鈍感になったということではなかった。むしろ、感覚は敏感になってきており、味覚は以前よりも高まっている。 例えば、外食して、本当に美味しいと思えるものが少なくなってきている。食材や鮮度、調理方法、調理人の心理状態などのエネルギーが反映されるので、感度が上がれば当然それを感知するようになる。 1年半ほど前に、あるビジネスホテルの朝食で何を食べても無機的にしか感じなく、これは食べ物の形をしているが食べ物ではない!と強く思ったことがあり、その自分の反応に驚いた。 それは強烈な体験だったが、コロナ期を通して私の中でさまざまな変化が起こっている。 その中で最も顕著なのが、「こだわりがなくなってきている、どっちでも良い、どうでも良い」というのであり、つまり、徐々に縛りから脱しているのである。 そのような意識の変容に伴って、体にも変化が起こるのは当然だと私は思う。 先日、友人がFacebookの投稿で「新しい世界は、当たり前の別角度から突如 拓いてゆく」と書いていた。 その通り!あの時、突然襲った何かが小さく弾けたような感覚。ほんのわずかな小さな小さな感覚。 それが180度大転換の始点だった。58歳になってそんなことが起ころうとは!!しかも30度でもなく90度でもなく、180度なのである。 何がどうなってこうなった? そう、あの弾ける感覚は、扉のようなものだった。カフェオレを試さずにそのまま紅茶を飲み続ければ、扉の向こうへは行けなかったかもしれない。 先日、街の小さなコーヒー豆専門店で、深煎りのコーヒー豆を挽いてもらった。それを楽しそうに持ち帰る自分の姿があるなんて、1年前までは想像だにしなかった。 苦手なものを克服したというよりも、ひとつ新しい楽しい世界が開けたという方がしっくりくる。そこには、以前とは違う自分という自由と喜びがあった。 私は思う。扉の数も種類も無数にあり、気づかないだけで、きっと最初から存在していたのだろう。ただ、それに出会う方法もタイミングも人それぞれで、通り抜けて出会う世界もレベルもさまざま。 遅すぎるということは決してない。ひょっとして人は死ぬ直前まで、そのような扉を何度も何度もくぐっていくのかも。 友人が言ったように、新しい世界は、当たり前の別角度から突如 拓いてゆく。 そうなると、やはり微細な感覚に耳を澄まし続けるのが良いと私は思った。 前回(1)のストーリーはこちら 普段、私はサポートする存在の絵を描いているが、それは相手から感じとる微細なエネルギーを主に顔の形として表現するもので、相手に意識をフォーカスする。 今回は、夢で見た映像、つまり私の記憶から始めてみるということで、初めての試みだった。 なにしろ初めてのことなので、そこからどんなものが出現するのか興味があった。しかも、直感から思いついたことをやってみる、特に今までやったことがないことをやってみる、というのは、何がどうなるかわからないからこそ面白い。 紙を置いて、まず、夢で見た椅子に座っている影のような姿を大雑把に描いてみた。 そう、夢で突然モードが切り替わり、こんな風に現れたのだった。 距離があったので顔ははっきりしていなかったが、おばあちゃんだった。
トップにボリュームを持たせた髪が印象的だったので、まずそこから描き始めると、眉や鼻の形が浮かんできた。描き終わって紙を裏返してみると(それが表になるのだが)、意外にも若い女性の顔だったので、これはどうしたことか!と思った。 その反応は、自分が見たものとは違うじゃないか!という単純な思考からのものだった。 でも指には知性があり、ハートと直結している。 「待てよ、指は若い頃のミセス・ダバーを描いたのか?」と思い、では次はどうなるかと、もう一枚紙を用意した。 しかし、自分が見た夢の記憶から詳細を探ろうとすると、指が抵抗してどうしても描けない。夢で見たばかりに、それにこだわろうとしている自分がいた。思考を捨てろ!という声が内側から聞こえる。 髪の上部を丸く描いたところで手が止まり、苦しくなってきた。正確に描かなければとか、きちんとしたものにしなければとか、余計な考えが邪魔をしていた。 あっちへ引っ張られ、こっちへ引っ張られ、そんな風に思考とハートが綱引きをしているとき、これは結構苦しいのである。 「う〜ん、ええい!もうどうでもよい!」と思ったところで、スルスルと指が動き出した。大胆にデタラメに動き、そんな動きをすると変なラインが入ってしまうと焦る。でも、失敗したら描き直せば良いだけだと自分に言い聞かせ、紙の上を滑らかに指が動くに任せた。 眉や鼻は、1枚前に描いたものと同じような形のものが浮かび上がってきた。ほぼ描き終わったところで裏返し、前に描いた絵の横に置いてみると、若い頃の彼女と年老いた彼女のようであると思った。 2つの絵を見比べながら、次第に後の絵だけへと視線が移り、そこでぼーっと眺めていると、なぜかボロボロと涙がこぼれてきて、胸に何かが込み上げてくるのだった。 それが何なのか頭では理解できないが、明らかにハートが何かを感じていた。深いレベルで感じるとは、そういうものなのである。 ただ感じれば良い。言葉はいらない。 次に、また前の絵へと視線が動くと、懐かしいような感覚が浮上して、若い頃の彼女ではなく、彼女の娘なのではないか?という気がしてきた。すると、その娘は私なのではないか?という突拍子もない考えが浮かんで驚いたが、それは全く見当違いのことでもない気がしてきた。 それもあり得るのかも・・・。 「あり得ない」に意識をフォーカスするとそこで終わってしまい、そこからは何も生じない。しかし「あり得る」にフォーカスすると、扉が開く感覚があり、そこから母娘の絆のようなものがサーっと押し寄せてきて、ハートに広がる。その瞬間、今の夫と妻という関係に別の層が重なる。 すると、また出会って今ここに一緒にいること自体が奇跡であると感じられ、喜びと共に自然と感謝の気持ちが溢れ出る。その感覚は頭ではなく、ハートから湧き起こる。 そうなると、私が認識している夫という存在に違ったスペースができ、そこがエネルギーで満たされる。そのエネルギーとは、私の相手に対する以前とは違った意識なのである。 娘だなんて、それは私の全く勝手な想像なのかもしれない。しかし、「あり得る」にフォーカスするとハートが温かくなり、より「今」にフォーカスでき、夫に対して寛容になり、優しい視線を向けられるのである。では、そう思った方がお互いにとって得ではないか(苦笑)。 以前ダバーという名前をインターネットで検索してみたら、存在すると言ったが、アイルランドかスコットランドか、ひょっとしたら何かヒントがあるかもしれないと思った。 世にはさまざまなものがあり、インターネットでほぼ何でも探せる時代。 苗字の由来や先祖を見つけるサイトというものが、あるのである! 保管されている移民記録にもアクセスできる。夢で見たミセス・ダバーは移民ではないが、アメリカへの入国記録から苗字について何かヒントを得られるかもしれないと思った。 実際、以前夫の苗字で探ってみたことがあり、プエルトリコに最初に入国した先祖?(同名の人)の記録が出てきた。先祖はスペインからプエルトリコへ入ったと義父から話で聞いていたので、私は驚いたのを覚えている。 そんなわけで、興味本位で ”Dubber” と入れてみると検索に引っかかるので、さらに詳細検索で国名アイルランドを選択してみた。結果はゼロ。スコットランドでやってみると引っかかる。 「もちろん、アイルランドからの移民情報がないだけで、その国にダバーという名前が存在しないということではないから意味がない」と思ったが、私の左上部から「スコット」と一言来た。 あらあら、そういえば夫のミドルネームはスコットだった。「だからって、そんなことあり得る〜?」と思ったら、「名前は全て、偶然でつけられているのではない」と来た。 確かに、以前同じことを沖縄の神人さんが言っていたのを思い出した。 そうなんだろうけれど、ほんとかなあ。 私は、夫のミドルネームは本人にしっくりこないとずっと思ってきた。違和感を感じ続けてきたのは、私の中で「Scott」という音と綴りから伝統的なイギリスのイメージがあり、それが夫の風貌とかけ離れているからなのだろうか。 まあ、それはどうでも良い。元々ミセス・ダバーが存在したこと、夫の過去世のひとつだったこと、スコットランドの人だったこと、それら全てが私の勝手な想像かもしれない。 ただ、あり得るとして受け入れると、見る世界が重層的になり、断然面白くなる。私たちは霊的で多次元的な存在であり、この肉体にさまざまなエネルギーが混じりあっていると私は思っているし、日常の中でそう感じることがますます多くなってきている。 例えば、相手が何か特定のトピックで話している時など、顔や雰囲気が変わったりすることがある。実際、見ている顔が突然ぐわ〜んと変化して、別人の顔が浮き上がったことが何度かあるが、それが今のその人を別の角度からよりよく理解できる情報であったりして、妙に納得してしまうのだ。 私も自分の内から「あっ、今この人が出てきて話してるな」とか「この人が歌ってるな」と感じることが多々ある。この人、何を表現したいのかな?と思うと、もっと言いたいこと、やりたいことが出てきたりする。 それは、結局今の自分をサポートしている存在(エネルギー)でもあり、自分の一部ということになる。自分にはさまざまな面があり、さまざまなエネルギーが混在していると理解するとどうだろう?もっと自分というものを知りたくなるのでは? 感覚が開いてくるにつれ、物事を見る視点も認識も新しいものに次々と塗り替えられていくのだろう。閉ざされていたものが、新しい理解と共に、より開かれていく方向へと向かっていく。 話が脱線してしまったが、ミセス・ダバーの絵を夫に見せてみようと思う。 そして、額に入れてキッチンに飾ろうと、密かに考えているのである。 |